見出し画像

【小評伝】 作曲する女たち(19世紀生まれ)  ⓷初めての学校は子育ての後:Mary Howe

メアリー・ハウ:1882年4月4日~1964年9月14日、ワシントン育ち
主な作品:『チェーン・ギャングの歌』(1925年)、『砂』(1928年)、『星』(1927年)、『カスティヤーナ』(1935年)、『春の田園詩』(1937年)、『エミリー・ディキンソンによる3つの小品』(1941年)
原典:"Modern Music-Makers: Contemporary American Composers"(1952)
by Madeleine Gossより訳・編集
記事末の訳注:1) ニューヨーク・ロシア交響楽団、2) チェーン・ギャング、3) ヤドー、4) マクダウェル・コロニー、5) シグマ・アルファ・イオタ

このプロジェクトについて

メアリー・ハウは父親が国際弁護士だったこともあり、少女時代からヨーロッパに旅するなど恵まれた環境で育ちます。そんな少女がノースキャロライナの山中で働く黒人囚人たちと出会い、ハンマーのリズムと労働歌に心動かされます。30年後、その体験は合唱曲『チェーン・ギャングの歌』となり、ハウ最初の公開作品になりました。
チェーン・ギャング*(記事末注釈を参照)は、黒人囚人への残虐な奴隷化行為、ハウはこれを能天気に「ハンマーのリズムや歌の面白さ」としてのみ受けとめたのか、それとも明らかな人種差別とみて、これに反発する意思表明として作品を書いたのかは不明。(訳者)

Title photo from Peabody Magazine

年代的にみると、メアリー・ハウはアメリカの作曲家の初期のグループに属するのだが、作品が近代の様式をもつことから、後期のグループに分類されている。女性が外で創造的な仕事に関わるには、家事や家族の面倒に追われてできないという20世紀初頭に、作曲家としてキャリアをスタートさせるという特別なことを成した人物である。

ハウは若い時期、自分が作曲家になるなどとは考えたことがなかった。父親のカルデロン・カーライルはスコットランド系の国際弁護士で、ウェールズ由来の母親はヴァージニア州出身だった。メアリー・カーライル・ハウはリッチモンドの祖母の家で生まれた。しかし父親はワシントンの人で、彼女は人生のほぼすべてをワシントンD.C.で過ごした。

まだ少女だった頃、ハウはよく海外へ旅をした。彼女は才能あるピアニストで、ドレスデンに滞在したときはリヒャルト・ブルマイスターに師事した。その後、ピアノ科の大学院生として、ボルチモアのピーボディ音楽院で、アーネスト・ハチソンとハロルド・ランドフルに学んだ。ウォルター・ブルース・ハウと結婚した後、プロの演奏家として活動を始め、才能あるもう一人のピアニスト、アン・ハルと組んで何年もの間、2台のピアノによるリサイタルを行なった。二人はクリーブランド交響楽団、ボルチモア交響楽団、ナショナル交響楽団、ニューヨーク・ロシア交響楽団*などの主要オーケストラと共演をした。

ハウは「それが好きだったから」と作曲を始めた理由を述べている。多くの作曲家が言っている理由と同じである。しかしすぐに自分には作曲をするための知識が少なすぎると気づいた。隣の街ボルチモアには素晴らしい音楽院があった。ピーボディ音楽院に入学し、本格的に作曲の勉強を始めた矢先、第一次世界大戦が始まり、赤ん坊が生まれた。一時休止をはさんで後年また、ピーボディに戻り、グスタフ・シュトルーベの元で作曲の勉強をつづけた。

この間、ハウはワシントンの家と学校のあるボルチモアを行ったり来たりし、また同時に3人の子どもの世話や家事、夫の面倒をみなければならなかった。大変な時期だった。しかしやがて子どもたちは学校に行くようになり、音楽以外のあらゆる社会生活を犠牲にすることで、ハウはピーボディ音楽院を見事な成績で修了する。作曲の卒業証書を得るための試験は、人生最初で最後のものだったと彼女は告白している。ハウは学校に行ったことがなく、ずっと家で家庭教師について勉強してきたのだ。

メアリー・ハウの初期の作品はすべてピアノのための楽曲だった。次に二つの合唱曲を書いた。混声合唱のための『カタリナ』、そして『チェーン・ギャングの歌』である。2つ目の曲は、ワシントンD.C.でメアリーが指揮をしていた合唱団のために特別に書かれたものだった。

少女時代、メアリーはよくノースキャロライナの山中を馬で走った。ある日のこと、人里離れた山の石切り場のそばの道で、縞の囚人服を着た黒人集団*と出会った。彼らは銃をもった看守に監視され、ダイナマイトを設置するために岩に楔を入れていた。鉄球と鎖をつけた囚人の一人が、 スチールドリルを持ち、他の二人が交互にリズミカルにハンマーを振り下ろしていた。それをしながら囚人たちは歌をうたっていた。

面白い歌のリズムにハウは夢中になった。ハンマーを打ち降ろすときのテンポの変化と繰り返しが、メアリーの潜在意識に深く刻まれた。何年も後に書かれた『チェーン・ギャングの歌』はそのときの記憶が非常に効果的に刻まれており、カール・エンゲル(当時の米国議会図書館の長)はこれをオーケストラ化するようメアリーに提案した。新しい響きのハーモニーによって精巧につくられたこの曲は、鋼板を叩くことでハンマーの打ち降ろされる音を再現していた。ハウはこの作品をオーケストラを伴う男声合唱のための歌に仕上げた。

つづく1925年の秋、『チェーン・ギャングの歌』はウスター音楽祭でアルバート・ストーセル指揮で演奏され、大成功を収めた。これはハウにとって、初めての公の場での作品の発表だった。著名な音楽教師、作曲家のマリオン・バウアーの姉で、音楽評論家のエミリー・バウアーは、『チェーン・ギャングの歌』は「女性が書いたとは思えない力強い楽曲で、驚くべき技術を駆使して素材を的確に扱っている」と述べた。バウアーはさらに予言するようなことも言っている。「この作品と演奏によって彼女の名前は知られるようになるだろう」

そこから数年間、ハウはオーケストラ作品で広く知られるようになり、多くの一流オーケストラによって楽曲が演奏された。ニューヨーク・フィルハーモニック、フィラデルフィア管弦楽団、ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団、ナショナル交響楽団、ボルチモア交響楽団、インディアナポリス交響楽団、シカゴ交響楽団、ロンドンのBBC交響楽団、カナダのトロント交響楽団、さらにはヨーロッパ大陸や南米のオーケストラなどにも取り上げられた。

メアリー・ハウの初期のオーケストラ作品『ディルゲ』(1931年)は、批評家たちに「印象深く高貴な作品」と称賛された。『砂』は「キラキラした輝き」と呼ばれる、スタッカートが効果的な短い作品である。

『カスティヤーナ』は2台のピアノとオーケストラのために1935年に書かれた。これはハウの作品中、最も知られた曲の一つで、著名なデュオのピアニスト、ルボシュッツ&ネメノフやバートレット&ロバートソンなど、国内外のピアニストたちのレパートリーになっていた。批評家たちはこの作品を「魅力あるリズム」「人目をひく面白い不協和」と評し、2台のピアノ作品として貴重な貢献をしていると述べた。

ハウ本人は『カスティヤーナ』について次のように言う。「この曲は、四つの本物のスペイン民謡の調べによってできています。わたしの父のスペインのいとこたちが歌っているのを聞いたんです。他でこれを耳にしたことはないです。わたしは(19世紀の)スペインの民謡に、とても親近感をもっています。子ども時代スペインで暮らしたこと、親戚がいることを通して、スペインとの繋がりを強く感じているんです。楽曲は自由詩の性格をもちつつも、四つの明確なセクションがあり、それが小さな独立したシンフォニーのような雰囲気を生み出しています。最初わたしは2台のピアノのために書きました。その後、曲を大きく発展させもっと長いものに(2台のピアノとオーケストラのための曲に)仕上げました」

メアリー・ハウのオーケストラ作品で広く演奏されているものとして、『春の田園詩』(1937年)があり、それはエリノア・ワイリーによる詩をもとに、女性コーラスのために最初書かれ、後にオーケストラ化された。ワシントン・ポストは次のように書いている。

悲しげな音詩(各楽器の色彩に対する鋭い感覚によって非常にうまく書かれている)は、無限の時間と、夢の中をさまようような、はるか昔の思い出のほろ苦い感情を具現化している。
1937.3.15

『アメリカン・ピース』はウォルター・ダムロッシュ(アメリカの指揮者、作曲家)に「痛烈で独自性のあるハーモニー……活気と効果に優れたオーケストレーション」と称賛された。『星』は「星空の広大さ」を描写した作品で、批評家たちから特別な賛美を得ている。ポスト紙は次のように書いている。

ミセス・ハウの印象主義的な『星』は、ここまでの彼女の作品の中で最も優れたオーケストラ作品と言える。弦楽器による響き渡るアンサンブルで始まるこの曲は、星空の広大さを余すところなく表現している。音楽の進行とともに、聴き手は宇宙の果てしなさに引き込まれ、自分の存在の小ささに思いをはせる。曲の結びは、他の星へとつづく途上で孤独な音となって消えていき、無数の太陽を従える霊的な力に完璧な平穏をもたらす。

すべての人が同意するメアリー・ハウの最も優れた作品は、そして彼女自身も好んでいる曲は、フルオーケストラのための活気ある『讃歌』である。

ハウの美しい『讃歌』は、オーケストラのための最高傑作で、豊かな響きとダイナミックな効果が特徴である。その熱い語りかけ、泡立つ精神と大きな枠組みは人の心を強く捉え、一方で様式の自由さにより、調性の豊かなバラエティを実現している。

ある春のこと、ハウは小説家のキャサリーン・ダンラップをフランスに訪ねた。そこは16世紀の城で、ハウはメルル(フランスのクロウタドリ)の歌に、哀調をおびた羊飼いの歌に(小さな少年はそれをどこで覚えたか言えなかった)、心打たれた。少年はそれが愛の歌なのか、牧草地の歌なのかも知らなかった。

あー、彼が戻ってきますように(人生は辛いもの)
あー、彼が帰ってきますように、私のとても大切な人。
クロウタドリのさえずりが聞こえる ー
           ー 以前のように甘く ー
遥か彼方で、彼は何をしているのだろう?  
いえ、言わなくていい。

いくつかのメルルの短い歌声を羊飼いや愛の歌と合わせて編み込み、ハウは魅力あふれるオーケストラ曲を書いた。そして友人の城の名前「クーレンヌ」と名づけた。

第一次世界大戦の間に、ハウは『無名の兵士へ』という心打つ曲を書いて捧げた。オーケストラを伴う雄弁なこの作品は、エメリー・ダルシー(メトロポリタン劇場のテノール)とキンドラー指揮によるナショナル交響楽団によって初演された。ハウの多くの作品は、キンドラー*の指揮で初演されてきた。彼は最も進歩的な指揮者の一人であり、特にアメリカ人の現代作曲家の作品に強い共感を抱いていた。他のオーケストラで広く演奏されてきた作品(ウォルター・ピストンの『交響曲2番』、ウィリアム・シューマンの『アメリカ祝典序曲』、ロイ・ハリスの『加速』など多数)は、ハンス・キンドラー指揮、ナショナル交響楽団で初演されたものである。
*ハンス・キンドラー:オランダ出身のアメリカ人チェリスト、指揮者(1892〜1949年)。ナショナル交響楽団の初代音楽監督。

ハウのオーケストラ曲『好ましい序曲』は、1949年に書かれた。メアリー・ハウは数えきれないほどのたくさんの歌曲やピアノ曲を書き、また興味深い室内楽曲も多く書いてきた。『弦楽四重奏曲』が1940年ヤドー*で演奏され、『Gストリング・フーガ』はプロ・アルテ弦楽四重奏団によって演奏されている。それ以外の弦楽四重奏曲には『カルテット(Quatuor)』、第3番『エミリー・ディキンソンのための三つの曲』(1941年)がある。

メアリー・ハウは音楽への愛を3人の子どもたち全員に伝えてきた。ブルースとモリーは歌を、カルデロン(長男:母方の祖父の名前を受け継いだ)はリコーダー(古くは「コモンフルート」と呼ばれた楽器)の演奏を学んだ。クラシック音楽の初期には、様々な音程のリコーダーが、あらゆるコンサートで用いられていた。クラリネットの奏法で演奏される、この昔ながらの木管フルートがこの時期にまた人気となっていた。ハウは『リコーダーとハープシコードのための2曲をつなぐ間奏曲』を書き、息子のカルデロン・ハウとラルフ・カートパトリックによって初演された。その後、この曲はフルートとピアノによってコンサートで演奏されている。

ハウと3人の子どもたちは、マドリガル合唱で名を知られるようになった。あちこちの街から招待を受け、イエール大学、ブリンマー大学、マクダウェル・コロニ*ーなどで歌った。「4人組ハウ」の名で音楽一家として知られるようになり、ラルフ・カートパトリックの誘いで、ウィリアムズバークの復元された植民地時代の町にある知事公邸で、ウィリアムズバーク古楽音楽祭に出演した。このプログラムでは、キャンドルライトから絵画のような18世紀の衣装まで、過去の植民地時代の再現が目論まれた。プログラムも、当時の印刷でなされた。

ハウは作曲家としての重要な仕事、家族の世話や家事を切り盛りすることに加えて、ワシントンの芸術団体や慈善グループと活発な関係を保ち、ワシントン室内楽協会や米国議会図書館音楽友の会、ナショナル交響楽団の理事も務めてきた。全国音楽クラブ連盟で4年間会長を務め、国際音楽委員会の委員でもあった。ASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)、作曲家連盟、全米作曲家指揮者協会のメンバーで、アメリカ作曲家連盟の名誉会員も務めた。1950年には、シグマ・アルファ・イオタ*の名誉会員に選出された。

メアリー・ハウは類まれな活力に恵まれ、物事に熱心に取り組む気質、そして優しく面倒見のいい性格をもち、その質の高さは彼女が関わったどの仕事でも明らかである。ハウは主に夏、マクダウェル・コロニーに滞在して作曲をしていた(マクダウェル協会で何年間か理事を務めた)。メアリー・ハウは多くの作品、国内外での数多い演奏によって、作曲家としてのしっかりとした地位を築いた。

訳・編集:だいこくかずえ

訳注1:ニューヨーク・ロシア交響楽団(Russian Symphony Orchestra)は、ベラルーシ出身のアメリカ人作曲家、指揮者、チェリストのモデスト・アルトシュラーによって、1903年、ニューヨーク市で設立された楽団。
訳注2:チェーン・ギャングとは、1890年代の大規模な道路開発プロジェクトの一環として始まった、強制労働下の黒人囚人集団。刑務所の外で、囚人たちの足首に鎖を巻きつけ、5人を手かせ足かせでつないで働かせた。囚人たちはそのまま食事と睡眠もとった。南北戦争終結から約100年後の1950年代までに、すべての州でチェーンギャングは廃止された。
訳注3:ヤドーは、トラスク夫妻によって1900年に設立された、ニューヨーク州サラトガ・スプリングズにある芸術村。音楽から絵画、文学、舞踊に至る幅広い芸術家をサポートし、ピューリッツァー賞、全米図書賞、ローマ賞など、ここで生み出された作品は多数。
訳注4:マクダウェル・コロニーは作曲家のエドワード・マクダウェルと妻のピアニスト、マリアンによって、1907年に創設された芸術家のための滞在プログラム。アーロン・コープランドのバレエ曲『アパラチアの春』(1944年)、ジェームズ・ボールドウィンの小説『ジョヴァンニの部屋』(1956年)、アリス・ウォーカーの小説『メリディアン』(1976年)など多くの優れた作品がここで制作された。夫の死後、マリアンは約25年間、このプログラムを率いた。現在もマクダウェル・コロニーは健在で、世界中から多くのアーティストがここで制作に励んでいる。メアリー・ハウに関するページには、当時彼女が仕事をしたスタジオ・キャビンが紹介されている。彼女はマクダウェルに1926年から1957年の間に 21 回滞在している。
*なお2020年8月以降、名称からコロニーが取られて「マクダウェル」に改められた。
訳注5:シグマ・アルファ・イオタ (ΣΑΙ)は、「アメリカおよび全世界における音楽の発展を促進する」ために結成された女子音楽友愛会。1903年設立。

Between Us: Music for Two by Mary Howe, 2022・13曲・1時間6分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【小評伝】 作曲する女たち(19世紀生まれ)
テキサスのカウガール:Radie Britain
歌が唯一の楽器だった:Mabel Daniels
⓷初めての学校は子育ての後:Mary Howe(このページ)
大合唱団を率いて:Gena branscombe
ブーランジェ姉妹と交換教授:Marion Bauer

【インタビュー】 作曲する女たち(20世紀生まれ)
オーガスタ・リード・トーマス(作曲家かどうか、決めるのは自分)
ジェニファー・ヒグドン(ロックを聴いて育った)
タニア・レオン(世界を見たくてキューバを離れた)
ヴィヴィアン・ファイン(よくできた曲はあまり面白くない)
エレン・ターフィ・ツウィリッヒ(音楽には浅いレベル、深いレベル両方必要)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?