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【小評伝】 作曲する女たち(19世紀生まれ)  ⓶歌が唯一の楽器だった:Mabel Daniels

メイベル・ダニエルズ:1877年11月27日~1971年3月10日、マサチューセッツ出身
主な作品:『深い森』(1935)、『海賊の島』(1935)、『ヤエルの歌』(1938)
原典:"Modern Music-Makers: Contemporary American Composers"(1952)
by Madeleine Gossより訳・編集
記事末の訳注:1) ラドクリフ・カレッジ、2)マクダウェル・コロニー

このプロジェクトについて

作曲家としては珍しく専門とする楽器がなく、主として合唱団での経験を創作の糧としてきたメイベル・ダニエルズ。精力的に作曲活動をし、オーケストラや合唱団の指揮をし、音楽に人生を捧げました。過去の資料には家族をもった形跡がなく、生涯独身だったのではないかと思われます。(訳者)

20世紀前半までは、アメリカでもヨーロッパでも女性の作曲家はあまりいなかった。いたとしても書く楽曲は小さな形式(歌曲や室内楽、ピアノ曲、合唱曲)が多く、オーケストラ曲を書く女性は非常に稀だった。

その理由を、メイベル・ダニエルズは才能の欠如によるものとは考えていなかった。男性同様、女性にも優れた想像力や才能があり、他の創作分野ではすでに業績を残している。しかし作曲に関していえば、女性がこの分野に足を踏み入れてからまだ日は浅かった。音楽は漠然とした、しかし厳格さを求められる芸術であり、オーケストラ曲を書くとなれば無限ともいえる集中力とそれを可能にする時間が必要、と彼女は考えていた。肉体的な面でも、オーケストラ曲の場合、多量の音符を書きとめるという重労働が待っている。

一般の人は作曲という仕事がどのようになされるか、深くは理解していない。音楽をつくる上で最初の発想はもちろん大事だが、それ以外に求められるものがあまりにたくさんあった。作曲とはそういうものである。

一般的な話でいうなら20世紀前半は、結婚した女性は家事や子どもの世話で忙しく、作曲のような集中を必要とする継続的な時間や体力を自分のために使うことが難しかった。しかしもっと余暇が増えてくれば、女性も作曲家の列に加わることが可能になるはずだった。

メイベル・ダニエルズはそんな中、オーケストラ曲を作曲する数少ない女性として知られ、作品がコンサートで重要な楽曲としてプログラムに組まれ、たびたび演奏されてきた。

1940年、ウースター音楽祭コンサートの休憩時間に、一人の男が戦争記念ホールの廊下をやってきて、メイベル・ダニエルズと行き合った。注目の新しい合唱曲『ヤエルの歌』(オーケストラと大合唱団、ローズ・バンプトン独唱)をアルバート・ストーセルが指揮し、聴衆を沸かせたところだった。

「いま演奏された曲、よかったね。ヤエルについてのあの楽曲は……」と男が言った。メイベル・ダニエルズは微笑んで、小さく頭を下げた。「だけど主催者はなんでまた、あの女性を舞台に登場させたんだろうね」 男はそう続けた。

「おそらく」 ダニエルズは目を輝かせてこう言った。「作曲家だったからでしょう」
「作曲家だって?」 男は困惑の表情を浮かべた。あのような野心あふれる作品が女性によって書かれるとは、信じ難いことだったのだ。ましてや今、自分が話しているのが、その当人だとは知る由もなかった。しかしこういった反応は、当時のアメリカでは普通のことだった、とダニエルズは語る。

メイベル・ダニエルズは1877年、マサチューセッツ州スワンプスコットに生まれた。根っからのニューイングラド人で、人生のほとんどをボストン及びその周辺で過ごしてきた。祖父の一人はオルガンを弾き、もう一人の祖父は聖歌隊を指揮し、両親はボストンのヘンデル&ハイドン・ソサエティ合唱団で歌っていた。

ダニエルズの音楽に関する最初の記憶は、ヴェルディの『レクイエム』のリハーサルだった。母親と並んで席についたダニエルズは、舞台の合唱団の中に父親の姿を見つけた。興奮したダニエルズは、そこで耳にした音楽に深く魅了された。しかし「怒りの日」が始まるとその迫力に恐れをなし、家に帰りたいと母親に泣いてせがんだという。

幼少時からピアノのレッスンを受け、ときに曲をつくり弾くこともしていた。10歳のときに書いたのが『素敵な妖精ワルツ』。またダニエルズは美しいソプラノの声をもち、これが音楽キャリアをスタートさせるきっかけとなった。

ラドクリフ・カレッジ*に入学したダニエルズはグリークラブで歌い、オペレッタでは主役を務めたりもした。やがて彼女はグリークラブのディレクターとなり、オペレッタのための曲を書きはじめた。在学中に二つのオペレッタを書き、自身で指揮をしている。

大学を終えるまでに、ダニエルズは音楽が、もっといえば作曲が自分のライフワークとなることを自覚していた。作曲とオーケストレーションを19世紀アメリカの作曲家の代表者であるジョージ・W・チャドウィックに学び、その後、ドイツでルートヴィヒ・トゥイレに師事した。

ドイツ留学時代、ダニエルズはミュンヘンの王立音楽院で、スコアリーディング(オーケストラの総譜を読んで解析する)のクラスに入ろうと申請した。これまで女性の学生から受講希望を受けたことがなかった学院長は、大いに困惑した。最終的に、「もちろん、ご婦人がこのクラスに入ったことはないけれど、だからといって入れないということにはならないですからね」と言って、ダニエルズの申請を受け入れた。

ドイツで二冬を過ごしたダニエルズは、アメリカに戻り、ヨーロッパでの体験を1冊の本に書き記した(『An American Girl in Munich』)。

ボストンに戻ったダニエルズはセシリア・ソサエティ(混声合唱団)に加入する。(専門的な意味で)楽器の演奏をしないダニエルズにできることは、オーケストラと共演する合唱団で歌うことだった。この合唱団は現代曲もときに演奏したので、新しい曲に触れることができ、またオーケストラとのリハーサルは合唱曲を書く上での刺激になった。

あらゆる創作分野の人間は、画家であれ、彫刻家であれ、作家や音楽家であれ、誰にも邪魔されず仕事できる環境を夢見ている。アメリカ最初の偉大な作曲家と言われるエドワード・マクダウェルは、ニューハンプシャーの森林丘陵地にこの目的に適した、隠れ家のような土地を見つけた。マクダウェルは音楽のインスピレーションをここで手にし、心身をリフレッシュさせた。そしてこのような環境を、他のアーティストと共有したいと考えた。

エドワード・マクダウェルの死後、妻のマリアンは夫の生前中に二人で計画したコロニー*(芸術家村)づくりに身を捧げた。ニューハンプシャーの森に囲まれた農場は、記念協会に引き継がれ、マクダウェル夫人の資金集めの努力などによって、芸術家村としてじょじょに形を成していった。

敷地内にある古い農家は、日々の生活と娯楽のための施設へと改築され、アーティストのための小さなスタジオが建設された。森の中に点在する各スタジオは適切な距離を保って建てられ、マクダウェルが望んでいた通りの仕事環境が確保された。

多くの応募者の中から特別委員会によって選ばれた、才能と将来性を見込まれた現役アーティストたちが、毎年ここに集まり、創作にとって理想的な環境の中で重要な作品を次々に生み出していった。

コロニーの初期には、フェスティバルやコンサートが毎夏、森の中の円形劇場で行なわれていた。将来性ある若い作曲家にいつも関心を向けていたマクダウェル夫人は、ダニエルズの『荒れ果てた街』(バリトンとオーケストラのための初期の合唱曲)を知り、衝撃を受け、この曲を夏のコンサートで指揮するよう頼んだ。この作品はダニエルズにとって、最初の重要な作品となった。翌年もコロニーに招かれたダニエルズは、以来、多くの音楽をここで書いている。そして後に、エドワード・マクダウェル協会の法人会員となった。

美しいニューハンプシャーの森がダニエルズにインスピレーションを与えた作品として『深い森』がある。この曲は「繊細で想像力をかきたてる作品」と言われ、最初、室内管弦楽作品として書かれ、バール・リトル・シンフォニーによって初演された。後にダニエルズはフル・オーケストラのために改訂し、クーセヴィッキー、バルビローリ、キンドラーなどアメリカ国内の主要な指揮者によって演奏されている。

1939年のカーネギーホール・フェスティバルでは、ASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)後援のもと、この『深い森』が、クラシック音楽のプログラムで唯一の女性作曲家の作品として演奏された。

ダニエルズはASCAPを始めとする数多くの団体やクラブの会員となり、1933年にはタフツ・カレッジの名誉修士号を、1939年にはボストン大学の音楽博士号を取得している。

1929年、ラドクリフ・カレッジの創立50周年記念の際、学長のコムストックはこの祝祭のために、ダニエルズに合唱曲を依頼してきた。ダニエルズはこの大学の卒業生評議員だった。大学の依頼に応えて、ダニエルズは混声合唱とオーケストラのための『神を讃えよ』を書いた。この曲は祝典で、ハーバード・グリー・クラブとラドクリフ・コーラル・ソサイエティの合同により演奏され、後にクーセヴィッキー指揮によるボストン交響楽団とセシリア・ソサエティでも演奏された。またフィラデルフィアの高校生コーラスとオーケストラによっても取り上げられた。メイベル・ダニエルズの最も知られた曲となった『神を讃えよ』は、アメリカ全土でその後も長く演奏され続けている。

初期の作品としては、『平和と自由』(合唱とオーケストラ)、『海賊の島』(オーケストラによるユーモアある組曲)があり、『海賊の島』はルドルフ・リングウェル指揮クリーブランド交響楽団によりサマー・コンサートで演奏された。その後すぐにアーサー・フィードラー指揮でボストン・ポップス・オーケストラでも取り上げられた。

その頃ちょうどボストンを訪れていた振付家のテッド・ショーンが、『海賊の島』を聴いて自分のバレエ団にぴったりだと思い、これをバレエ作品にしている。翌年の夏、ロビンフッド・デルにて、フィラデルフィア管弦楽団とテッド・ショーンのバレエ団によってこの作品は上演された。これ以外にもダニエルズは、『三つの木管楽器のための三つの観察』から二つの楽章をバレエ作品として編曲している。

ダニエルズにとって最も重要な作品『ヤエルの歌』(オーケストラと合唱、ソプラノ独唱)は、エドウィン・アーリントン・ロビンソンの詩をもとに書かれたものだ。ロビンソンはメイベルの親しい友人でもあった。1935年、彼の死の少し前、二人はこの作品について議論を交わした。ダニエルズの初期の作品は伝統的な様式をとっていたが、『ヤエルの歌』では近代音楽の書法をはっきりと見せている。ボストン・ポスト紙の批評家は、この作品について次のように書いた。

長大な勝利の讃歌、これに導かれて力強いクライマックスへと到達する。メイベル・ダニエルズほど合唱曲で成功したアメリカの作曲家はいない。彼女の『ヤエル』はずば抜けた特徴をもち、合唱の扱いは独創性に溢れている。とはいえ、オーケストラのスコアにおいても多くの効果的な場面があり、またソプラノ独唱はドラマチックにして印象深い。この決して伝統的とはいえない楽曲は、アメリカの合唱曲に貴重な貢献をもたらした。

『ヤエルの歌』はダニエルズにとって初めての「近代音楽」への試みだった。それ以降、彼女はこの様式ですべての楽曲を書いている。彼女の後期の作品には、フルートと弦楽器のための『牧歌』(1940年)があり、ボストン交響楽団のメンバーとNBC交響楽団のフランク・ブラック指揮によって初演された。また『三つの木管楽器のための三つの観察』は、「真面目にとられないように書かれた」風刺に富んだ短い作品で、聴衆はいつもこれを楽しんだ。他に『弦楽オーケストラのための余談』、そして『ピアノとバイオリンのための二つの作品:ダイアナを癒すために、そして二人の若い兵士への追悼』はブラジルの素晴らしいバイオリン奏者、オスカル・ボガースによって、ボストンで行われた1948年の彼のコンサートで取り上げられ、またアメリカのバイオリン奏者、ルース・ポッセルトにも演奏された。

メイベル・ダニエルズは音楽学生にいつも強い関心をもっていた。母校の女子大ラドクリフ・カレッジで、匿名による二つの作曲賞を設けている。また音楽を専門とする学生のための貸付基金をつくったことで、後に彼女の名を冠した「メイベル・ダニエルズ受益者基金」が生まれている。この基金はオーケストラのチケットや楽譜の購入、支援を必要とする学生のためのものだった。またダニエルズはラドクリフに、クラス対抗の歌唱コンクールのためのシルバートロフィーを贈っている。コンクールは毎春、大学校庭で開かれ、ラドクリフ・カレッジの伝統となった。

ダニエルズは後期の作品で見せているように、自分の音楽において、近代的対位法やハーモニーを選択することで、常に新しい様式にトライしていた。ただ現代音楽の多くが、非常によくできているものの、しばしば過去の遺産に背を向けすぎているとも感じていた。19世紀の「過剰な感傷」を避けようとするあまり、極端なことを言えば、純粋に頭脳的で数学的な方向へと進んでしまっている、と。

「本物の音楽というのは、クロスワードパズル以上のものであるべき。そこには人間的なものがなくては」とダニエルズは主張する。彼女の作品を特別なものにしているのは、この人間的な資質である。

訳・編集:だいこくかずえ

訳注1:メイベル・ダニエルズの出身校、ラドクリフ・カレッジはハーバード大学の男子校時代、1879年に別館として設立された女性のためのリベラル・アーツ大学。女性にも男性と同様の環境の教育を提供することを目的としていた。現在はラドクリフ高等研究所(Radcliffe Institute for Advanced Study)の名で、ハーバード大学と合併している。
(参考:Wikipedia)

訳注2:マクダウェル・コロニーは作曲家のエドワード・マクダウェルと妻のピアニスト、マリアンによって、1907年に創設された芸術家のための滞在プログラム。レナード・バーンスタインの『歌手と演奏家、踊り手のためのミサ曲』(1971年)、ジェームズ・ボールドウィンの小説『ジョヴァンニの部屋』(1956年)、アリス・ウォーカーの小説『メリディアン』(1976年)など多くの優れた作品がここで制作された。夫の死後、マリアンは約25年間、このプログラムを率いた。現在もマクダウェル・コロニーは健在で、世界中から多くのアーティストがここで制作に励んでいる。ダイニエルズに関するページには、当時彼女が仕事をしたスタジオ・キャビンが紹介されている。彼女はマクダウェルに1914年から1948年の間に25回滞在している。
*なお2020年8月以降、名称からコロニーが取られて「マクダウェル」に改められた。下の動画「Blake's Magical Mystery Tour」(2019年)は、マクダウェル夫妻がニューハンプシャーに広大な敷地を買い、アーティストのためのレジデンスを建てた歴史を追いながら、森の中に点在する個性的な風貌のスタジオ(主として20世紀初頭に建設)を、そこに滞在した作家とともに紹介していく。

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【小評伝】 作曲する女たち(19世紀生まれ)
テキサスのカウガール:Radie Britain
⓶歌が唯一の楽器だった:Mabel Daniels(このページ)
初めての学校は子育ての後:Mary Howe
大合唱団を率いて:Gena branscombe
ブーランジェと交換教授:Marion Bauer

【インタビュー】 作曲する女たち(20世紀生まれ)
オーガスタ・リード・トーマス(作曲家かどうか、決めるのは自分)
ジェニファー・ヒグドン(ロックを聴いて育った)
タニア・レオン(世界を見たくてキューバを離れた)
ヴィヴィアン・ファイン(よくできた曲はあまり面白くない)
エレン・ターフィ・ツウィリッヒ(音楽には浅いレベル、深いレベル両方必要)


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