マガジンのカバー画像

クッキーはいかが?

332
1200文字以下のエッセイ集。クッキーをつまむような気軽さで、かじっているうちに終わってしまう、短めの物語たち
運営しているクリエイター

#暮らし

松屋ができたよ

駅の反対側に、松屋ができた。 駅の反対側はあんまり来ないので、もともと何があったかはわからない。 自分の住んでいる町なのに、どこかよそゆきの気分になる。 両手から何かを、零し続けてしまっているような 自分の目が、とんでもない節穴のような 自分のからだが少し浮いて タイムスリップしてしまっているような ここが、自分の住んでいる町であることを、きちんと確かめる必要がある。 そんな感覚だった。 そして、松屋はあった。 見慣れた黄色い灯りを放ちながら 煌々と佇んでいた。 牛丼

三種の神器の末席に

昨日、【2023年 夏の欲しいものリスト】を書いてみたんだけど そういえば、ひとつ書き忘れてたものがある。 それが、こちら。 まくらである。 家中の何が好きかって、もうお気に入りのものしか置いてないから 指輪のケースも花瓶も、ゲンガーの絵のついたコップも、AirPodsのケースも、SONYのスピーカーもiPhoneの充電スタンドも(最後のふたつはお下がりだけど) わたしにとっては、お気に入りそのものだけれど もしも、この家を出るならば いや、最近はこの部屋を出るときに

夜に抱かれて

ああ、と思って立ち上がる。 それは、なかなかの勇気だった。 夜、眠ろうと思ってベッドに潜り込む。 ごろごろと温めた居城で、ようやく眠ろうと消灯ボタンを押す。 立ち上がるのは、いつものそのときだ。 電気は点けない。 そのまま飛び降りて、窓へ 手を伸ばして掴む。 そうして、カーテンを開ける。 ある人は、「少し」と ある人は、「不必要に」と いうくらい、自分の中では「結構しっかりと」開ける。 すうっと、部屋が明るくなる。 明滅する信号と、眠らないコンビニの灯りに抱かれて、

ついでに、良い朝

せっかくだから、という生き方を愛している。 それは、「ついでに」というのとだいたい同じで ついでに、郵便局に行こう、とか 郵便局にだけ行くのは面倒なのに。 百均に行くついでに、と思うと、なかなかいいぞ、という気持ちになる。 * 引っ越してからベランダが広くなったので、外でラジオ体操をするようになった。 惹かれるように、窓を開ける。 寒いのに、わかっているのに。 今朝はまだ暗い時間で、指先は真っ赤になった。 「今日はマイナス17度で」と書かれたハガキが、北海道から届いたば

こんにちは

それは、花を買った帰り道だった。 コンビニも、本屋も、コーヒー屋も華麗にスルーしたわたしは 最後に、花屋に吸い込まれる。 そうして、ひとつかふたつ花を選んで すっかり顔見知りになったお姉さんたちと、少し話をする。 天気のはなしとか ときどき洋服を褒めてもらえたり 最近は、かばんにぶら下がっているポケモンのはなしだったりする。 「いつもありがとうございます」に 「また来ます」と返す。 * 花は、袋に入れない。 花屋と自宅が近いこともあるけれど、抱えて帰りたい、と思う。

温野菜メーカーの妄想

椅子に座って、カバンをぎゅうっと抱きしめる。 わたしの横幅より、ほんの少し大きなサイズのカバンが、隣の席にはみ出ないように気遣いながら そして、ぼおっと眺めている。 何をするでもなく、座っている。 最近の仕事帰りは、ずっとそんな感じだった。 そして、半分くらいは眠っている。 * いくつかの駅を通り過ぎたあと、目の前に女の人が立った。 わたしはめずらしく目を覚ましていて、それでもやっぱりぼおっとしていた。 そして、なにを思うでもない視線は、正面に向かう。 目の前の人は、

或る夜、努めない話

逃げよう、と思った。 結局したことは「何もしないこと」と「眠ること」だったけれど、というのが事実だけれど その夜、わたしは逃げた。 最初は、少しのんびりしよう。から始まった。 それからどれくらい時間が経っても、スッキリと起き上がることができなかった。 ごはんを食べても、ソファーからベッドに移動して昼寝をしても、ラジオ体操をしても、お風呂に入ってみたもダメだった。 むしろ、次第に身体が重たくなっていった。 いま思えば、火が消えてゆくようだったと思う。 帰宅したすぐあとは

むくむくと、もくもくのとなりで

春霞、という言葉を覚えた。 春の空は、煙っている。 ついこのあいだまで夜空を照らしていたオリオンも、シリウスも西の空に沈んで見えない。 沈んでいるかも、うまく確認ができない。 春はさわやかで、ときおりけだるく 気温はそれぞれなのに 不思議とずっと、空は煙って、星は見えなかった。 * ある日、星が見えた。 諦めたような癖で見上げた、そのときだった。 * 冬の星座たちが沈んだということは、春の星座が昇ってきている。 春の大三角、 北斗七星を孕む春の大曲線 しし座のレグ

ぬるい風と、ときめきの匂い

「あれ? もう1時間経った?」 休憩帰りの横顔に、声をかけた。 「雨降ってきちゃったんで」と言われて驚いた。 「雨なの?」 「今日は天気悪くなるって言ってましたよ」と、別のところからも声があがる。 「そろそろ帰ろうと思っていたのに」 仕方がない。 ずっと会社にいるわけにもいかないし、いたいとも思わない。 そろそろ帰ろう。 * レターパックを抱えて、会社を出る。 あれからほんの少し経ったいま、雨は降っていない。 代わりに、ぐわりと強い風だった。 電車を降りると、辺り

小指だけつないで

眠いなあ。 と、思う。 ほんとうに眠ってしまったり 起きれないこともたくさんある。 会社に遅刻しないのが、不思議なくらい。 昨日も眠ってしまって 少しだけ早起きをして、エッセイを書いているのだけれど。 何度も目覚ましを止めて、まくらの下に押し込んで 目覚めてからも、しばらくぼおっとしていた。 おかしいな。 昨日もはやく眠ってしまったから、今日は早く起きようと思ったのに。 どうして、目覚めのすこやかさって 睡眠時間に比例しないんだろう。 * 何日か前の夜 そんなメモを

好きな花を買えばいい。1本だけでも買えばいい

最近は、コンビニでお菓子を買うような気軽さで、花を買うようにしている。 去年までは、週に1度を目安にミニブーケを買っていた。 かわいい花を、ぎゅっとひとまとめにされたときめきには、抗えないものがある。 ブーケを選ぶには、もうひとつ理由があった。 言葉にすると悲観的過ぎてしまうんだけれど、どうしても本音で わたし”なんか”が、 こんなにたくさんの中から、いくつかを選んで 花瓶に並べても、可愛くなるわけがない。 と、思っていた。 たくさんから好きなものを選ぶ、っていうのは

アネモネの横顔

アネモネが、また閉じていた。 * 「完全に開花するまで、閉じたり開いたりしますよ」と、おねえさんは言った。 ぐわりと開くアネモネを、わたしは愛している。 育てている、という感じがいいのかもしれない。 もちろん、開花状態で購入するガーベラとかスイートピーも好きだけど。 アネモネは、ぐわりと咲く。 立っていた花びらが、横たわるように咲く。 その様子が、たまらなく愛おしい。 * 数日前から開花に向かったアネモネは、日中に少し開き、夜には戻っていた。 昨日あたりには、ま

5メートル先の、裏側を見よ

うちの、隣の通りで工事をしていた。 よく晴れた、午後の出来事だった。 日課の散歩は、いくつかのルートを持っている。 歩きたい場所と、時間の兼ね合いで、ルートを決めたつもりが わたしはふらっと、曲がりたくなる。 または、曲がることを取り辞める。 もう少し、というのはなんと甘い響きだろう。 もう少し、行ってみようと思う。未知の誘惑に打ち勝てない。 または、少しだけさぼっちゃおう、という日もある。 その日は、行ってみよう、と歩き出したところだった。 家からはほど近いけれど、

コゴトをオオゴト

なんだか、すぐオオゴトにしちゃうね。 後回しにするたびに、コトはどんどん大きく膨らんで 手を付けられなくなってしまう。 という、錯覚。 * ありがとう、と思いながらぐっと唇を噛んだのは去年のことだった。 お見舞いに送られてきた入浴剤。 お風呂に入るのがいいよ、なんてやさしい言葉じゃなくて 「ずっとお風呂に浸かっていたい」っていうのが、彼女らしかった。 * お風呂に入る習慣があまりない。 シャワーでよくないか?と思う。 「シャワーじゃあったまらなくない?」って言われ