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ぬるい風と、ときめきの匂い

「あれ? もう1時間経った?」

休憩帰りの横顔に、声をかけた。
「雨降ってきちゃったんで」と言われて驚いた。

「雨なの?」
「今日は天気悪くなるって言ってましたよ」と、別のところからも声があがる。

「そろそろ帰ろうと思っていたのに」
仕方がない。
ずっと会社にいるわけにもいかないし、いたいとも思わない。
そろそろ帰ろう。

レターパックを抱えて、会社を出る。
あれからほんの少し経ったいま、雨は降っていない。
代わりに、ぐわりと強い風だった。

電車を降りると、辺りの雰囲気が変わっていた。
じっとりと重く、あたたかな風は、あまり心地よくはない。
ドライヤーの、半端な設定の温風みたいな。

ただごとではない、そういう匂いだった。
これはたぶん、嵐の気配。なのだと思う。

不穏な風をかき分けながら、帰り道を急いだ。
雨はまだ降っていないけれど、いつ、なにが起こってもおかしくないような
そんな雰囲気が立ち込めている。

帰りに、スーパーに寄ることにした。

ごはんのことを考えるのは苦手。
そして、明日のごはんのことを考えるのはもっと苦手、と自負するわたしだけれど、明日は仕事が休みだ。
食料を買い込んだほうがいいかもしれない。と思う。
おなかが空いたら買いに行けばいいし、面倒なら食べなければいいのだけれど、
なんだかそういう、当たり前が通用しなそうな、そんな気配がする。

あす雨で、
もし嵐で、
食べるものがなかったら、きっと心細くなる。

”備えなくては”
これは、そういうたぐいの匂いだった。

キムチとサラダと、食パンを買った。
野菜さえあればなんとかなる、と思っている。
あとはパックのごはんがあるから、もうそれでいい。

食パンも、わたしを勇ましくする。
そのまま食べても美味しいし、ジャムを塗ればおやつだった。
このあいだ買ったタルタルソースが残っている。パンにつけるとおいしいらしい。

あとは、チョコレートを買った。
個包装のチョコレートも、勇敢な存在だった。
ひとつずつを基本に、ときおりみっつ飲み込むのも、悪くないと思う。

次第に強く、濃くなる風のあいだを縫う。
不穏な匂いは次第に強くなって、「買い物をしてよかった」とうなずく。

ああこれは、
「台風で明日がっこう休みかもな」って思っていた子供時代の、そういう匂いだった。
なにかが起こりそうな、そういう、非日常のときめきの夜だった。

「親に隠れてカップラーメンを食べた」という小説のことも思い出した。
親がいないうちに、健康的な食事を地中に埋めて、カップラーメンを食べるという内容は、衝撃的で、美しい背徳感だった。
そういう悪さをするのにも、なんだか適した夜だった。

おとなになったいまは、スーパーで安心を買って家に帰るだけかもしれない。
そして明日は、けろりと晴れているかもしれない。きっとそうだ、とわかっている。
でも、帰り道で拾ったときめきは、きちんと壁に飾って、いつでもぴかぴかに磨いておきたいなあ。と思っている。






※now plaiyng


※カップラーメンを食べる物語(子どもたちの晩餐)







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