ぬるい風と、ときめきの匂い
「あれ? もう1時間経った?」
休憩帰りの横顔に、声をかけた。
「雨降ってきちゃったんで」と言われて驚いた。
「雨なの?」
「今日は天気悪くなるって言ってましたよ」と、別のところからも声があがる。
「そろそろ帰ろうと思っていたのに」
仕方がない。
ずっと会社にいるわけにもいかないし、いたいとも思わない。
そろそろ帰ろう。
*
レターパックを抱えて、会社を出る。
あれからほんの少し経ったいま、雨は降っていない。
代わりに、ぐわりと強い風だった。
電車を降りると、辺りの雰囲気が変わっていた。
じっとりと重く、あたたかな風は、あまり心地よくはない。
ドライヤーの、半端な設定の温風みたいな。
ただごとではない、そういう匂いだった。
これはたぶん、嵐の気配。なのだと思う。
不穏な風をかき分けながら、帰り道を急いだ。
雨はまだ降っていないけれど、いつ、なにが起こってもおかしくないような
そんな雰囲気が立ち込めている。
帰りに、スーパーに寄ることにした。
ごはんのことを考えるのは苦手。
そして、明日のごはんのことを考えるのはもっと苦手、と自負するわたしだけれど、明日は仕事が休みだ。
食料を買い込んだほうがいいかもしれない。と思う。
おなかが空いたら買いに行けばいいし、面倒なら食べなければいいのだけれど、
なんだかそういう、当たり前が通用しなそうな、そんな気配がする。
あす雨で、
もし嵐で、
食べるものがなかったら、きっと心細くなる。
”備えなくては”
これは、そういうたぐいの匂いだった。
*
キムチとサラダと、食パンを買った。
野菜さえあればなんとかなる、と思っている。
あとはパックのごはんがあるから、もうそれでいい。
食パンも、わたしを勇ましくする。
そのまま食べても美味しいし、ジャムを塗ればおやつだった。
このあいだ買ったタルタルソースが残っている。パンにつけるとおいしいらしい。
あとは、チョコレートを買った。
個包装のチョコレートも、勇敢な存在だった。
ひとつずつを基本に、ときおりみっつ飲み込むのも、悪くないと思う。
*
次第に強く、濃くなる風のあいだを縫う。
不穏な匂いは次第に強くなって、「買い物をしてよかった」とうなずく。
ああこれは、
「台風で明日がっこう休みかもな」って思っていた子供時代の、そういう匂いだった。
なにかが起こりそうな、そういう、非日常のときめきの夜だった。
「親に隠れてカップラーメンを食べた」という小説のことも思い出した。
親がいないうちに、健康的な食事を地中に埋めて、カップラーメンを食べるという内容は、衝撃的で、美しい背徳感だった。
そういう悪さをするのにも、なんだか適した夜だった。
おとなになったいまは、スーパーで安心を買って家に帰るだけかもしれない。
そして明日は、けろりと晴れているかもしれない。きっとそうだ、とわかっている。
でも、帰り道で拾ったときめきは、きちんと壁に飾って、いつでもぴかぴかに磨いておきたいなあ。と思っている。
※now plaiyng
※カップラーメンを食べる物語(子どもたちの晩餐)
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