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音楽史6『後期ルネサンス音楽』

 15世紀には北西ヨーロッパやイタリアでフランドル派やブルゴーニュ派、トレチェント音楽が栄えルネサンス音楽が発展したわけだが、16世紀にも多くのジャンルを残し特にオランダ語の詩篇唱で知られるクレメンス・ノン・パパ、シャンソンで活躍したロイゼ・コンぺール、複雑なポリフォニーを持つニコラ・ゴンべール、そしてその後にも後述するヴィラールトやアルカデルト、ローレ、ラッソなどのフランドル派作曲家が活躍した。

旧スペイン領
旧ポルトガル領
ビクトリア

(ビクトリア作)

 しかしその一方で大西洋に面した南西ヨーロッパのスペインとポルトガルが大航海時代で超大国となったことで、そちらでスペイン王の妹マリアに仕えて司祭・作曲家・指揮者・オルガニストなどあらゆる役割を果たし、単純だが多種多様な変化を持つ作風のトマス・ルイス・デ・ビクトリアが活躍、ビクトリアの登場以前に最も影響力のあったクリストバル・デ・モラーレス、フランシスコ・ゲレーロ、アロンソ・ロボなども活躍した。

タヴァーナー
ハリス
バード

 一方でこの頃には当時、「宗教改革」で従来のカトリック教会とそこから別れたプロテスタント諸宗派の対立が起こっており、特にヘンリー8世の問題から争いが起こっていたイングランド(イギリス)ではジョン・タヴァーナーや、著名なオルガニストのトマス・タリス、ブリタニア音楽の父と称されるウィリアム・バードらが活躍した。

 同じく宗派争いが起こっていたフランスでもオノマトペを取り入れたシャンソンの作曲家クレマン・ジャヌカンやクロード・グディメルル、ドイツではルター派から音楽理論家マルティン・アグリコラなどが活躍している。

トリエント公会議

 またこの頃にはイタリアでフランドル楽派の影響を受けた作曲家達が独自の音楽を発達させるようになっており、16世紀中頃に宗教改革でカトリック教会から離脱して独立するプロテスタント派閥達に対抗するため開かれた「トリエント公会議」にてカトリックからの離脱を防ぐ大規模改革が行われると、その一環としてキリスト教聖歌のポリフォニーを明確にする事や宗教的な歌ではない歌を転用して聖歌にしたりすることなどの禁止が行われた。

サン・マルコ寺院
ヴィラールト

 ローマ教皇の住むローマは、権力争いの混乱でハプスブルク勢力下にあったドイツとスペインの連合軍による略奪を受け、ほとんどの芸術家がローマから北のヴェネツィアへと避難していた。

 この、ヴェネツィアでは印刷技術が発展しており、楽譜を求めて作曲家達が訪れていた事もあり多くの音楽家がヴェネツィアに集結、特にフランドル楽派のアドリアン・ヴィラールトはその技法をイタリアに広め、また、ヴェネツィアに巨大寺院「サン・マルコ寺院」があり非常に音響が良かった事で、ヴィラールトは離れた場所にいる複数の合唱隊が交互に歌い、それにオルガン演奏をつける「コーリ・スペッツァーティ(複合唱)」技法を確立した。

ジョバンニの墓

 そうして、それらの技法を用いた「ヴェネツィア楽派」が誕生し、ヴェネツィア学派からはイタリアやドイツに複合唱を広めて大きな影響力を持ったジョヴァンニ・ガブリエーリとその叔父アンドレーア・ガブリエーリ、チプリアーノ・デ・ローレ、ジョゼッフォ・ツァルリーノ、クラウディオ・メールロ、クラウディオ・モンテヴェルディなどが輩出された。

(ジョヴァンニ・ガブリエーリ作)

 ジョヴァンニ・ガブリエーリとアンドレーア・ガブリエーリが複数の合唱隊、金管楽器、弦楽器、オルガンを使った巨大編成の作品を生み出し、音の対比や変化を表す強弱法や複数の楽器の組み合わせのための楽器の指定が確立され、クラウディオ・メールロらによりオルガン主体の音楽が作られ始めた。

パレストリーナ

(パレストリーナ『泉の水を求める鹿のように』)

 そしてメロディーとコードが完全に融合した新しい技法を用い、トリエント公会議での決定に則ったカトリックの宗教音楽を作るその後の教会音楽の創始者でルネサンス最大の音楽家ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナが登場、彼は『教皇マルチェルスのミサ曲』などを残し順次進行を主体とする合唱様式を生み出したことで「教会音楽の父」と称される。

ラッソ

 また、彼と同時代にはフランドル出身でフランドルやイタリアで活動した後にドイツのバイエルン公の下に入ったオルランド・ディ・ラッソが活躍し、その時代ではパレストリーナ、ビクトリア、ラッソが最も大きな影響力を持っていたといえる。

 また、パレストリーナ以降、ローマ教皇のいるシスティーナ礼拝堂を中心に、伴奏の無い教会音楽アカペラを特徴とする「ローマ楽派」が形成され、グレゴリオ・アレグリ、ルカ・マレンツィオなどの作曲家がここで活躍、以降、音楽の中心はイタリアに移っていくこととなる。

マニエリスム絵画

 ちなみに16世紀中頃、ルネサンスは次のマニエリスムと呼ばれる終わりの時期に入っており、それ以前にミケランジェロやダヴィンチなどによりキリスト教により破壊された古代の芸術を復興するという芸術運動は頂点に達していたといえ、マニエリスム絵画では遠近法、短縮法、明暗法を敢えて短略化したり、独特な色味を使ったりなど敢えて崩して表現する技法が行われており、音楽においてはローマ学派とヴェネツィア学派がマニエリスムの時代に相当し、この時期、既に音楽も美術も「バロック」への以降が開始していった。

ローレ
ジェズアルド
アルカデルト

(モンテヴェルディ作)

 この頃のイタリアでは「フロットーラ」という歌曲から「マドリガーレ」というスタンザもリフレインもなくボッカッチョやペトラルカの詩に合わせてメロディーを作るという形式が生まれ、先述したフランドル出身のアドリアン・ヴィラールトや、同じくフランドル出身で、マドリガーレ最大の作曲家で半音階や表情豊かな技法でその後の世俗音楽の基盤を作ったチプリアーノ・デ・ローレ、甘く抒情的な作風のルカ・マレンツィオ、激しい情感表現で知られるカルロ・ジェズアルド、マドリガーレ(イタリア歌曲)やシャンソンなどの世俗音楽を作ったジャック・アルカデルト、クラウディオ・モンテヴェルディらによりポリフォニーやモテット、コーリ・スペッツァーティ、半音階的な独自の技法などそれぞれさまざまな形式でマドリガーレが作られた。



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