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美術史第64章『アッバース朝の美術』


Chorasan=ホラサン地方
オスマン時代のジズヤの書類

  8世紀中頃、かつて中央アジア南西部のホラーサーン地方でウマイヤ朝イスラム帝国に対する反乱が発生、背景としてはそもそもウマイヤ家がカリフでも良いというスンニ派イスラム教の他、アリー家こそカリフになるべきでウマイヤ家がカリフと認めないというシーア派イスラム教も存在していた事、さらにイスラム発祥の地アラビアのアラブ人がイスラム教に改宗していたペルシア人などの異民族から「ジズヤ」という税金を強制徴収するなどの差別をおこなっていた事があり、差別を受けたイスラム教徒のペルシア人やシーア派を支持するアラブ人が集まって反乱を起こす結果となった。

サッファーフ

 そして、この反乱は成功しウマイヤ家は根絶やしにされ、反乱のリーダーだったアッバース家のサッファーフがアリー家しかカリフになってはならないと主張し反乱の主力となっていたシーア派を裏切り自らカリフに就任した。

アッバース朝

 こうして「アッバース朝」が誕生し、アッバース家は「コーラン」のなかで全ての人は平等であると説かれている事を示しアラブ人以外に課せられていたジズヤを廃止するなどイスラム教の教え、つまり「シャリーア」に基づいた国家を作り上げ、「アッバース革命」を達成、ユーラシア大陸の貿易路「シルクロード」を支配下に入れ繁栄を極めた。

 アッバース家二代目のカリフ、マンスールは裏切ってしまったシーア派の本拠地クーファから首都を移しメソポタミアの「バグダード」という集落を新首都として整備して遷都、カリフへの中央集権化改革を行い「カリフ」を単なるイスラム教徒のリーダーではなく教皇や天皇、皇帝のような神聖な指導者「イマーム」の地位に変えた。

現在のバグダード

 新首都のバグダードは当時の世界で最も繁栄し、市内には6万のモスク、3万のハンマームがあったとされるように建築物も無数に建設されたが、バグダードの建築には現地のメソポタミアで取られた堆積土を原料とした風化しやすいレンガが用いられたため、現在では残っていない。

分裂したアッバース朝
当時の図書館を描いたマカーマの挿絵

 しかし、この頃にはバグダード繁栄の一方で、イドリース朝モロッコやアグラブ朝チュニジア、中央アジア西部のターヒル朝がアッバース家に従いつつ事実上独立している状態が開始、そんな時代のカリフ、マアムーンはバグダードに「知恵の館」という学校・図書館・研究所を併せ持つ施設を建て、ここで行われた翻訳によりギリシアの哲学や科学がイスラム勢力に広まりイスラムの科学や哲学はここから大きくに進歩することとなった。

マムルーク重騎兵

 マアムーンの死後、カリフとなったその弟は軍備強化のため「マムルーク」と呼ばれる異民族の傭兵を大量導入するが、これがバグダード市民からの反発を受け、新たな首都「サーマッラー」を建設し遷都するに至った。

サーマッラーの大モスク
スタッコの装飾

 このサーマッラーの建築物もバグダードと同じ素材の理由で残っていないが、膨大な備品類、特に建築の一部だったスタッコで作られた装飾が発見されており、鳥のパネルなど装飾のモチーフから年代が特定できるらしく、それらのモチーフはエジプトからイランに至るまでのアッバース朝の名目上の支配地の工芸品の間で同じ時代に共通して存在する。

アンダルスのイスパノ=モレスク陶器

 また、アッバース朝時代には陶芸の分野で、淡黄色の土の上に白味や光沢、不透明さを与えるための釉薬である錫釉をかけた「ファイアンス焼き」が発明されるという大きな革新があったと思われる。

サーマッラーで見つかった唐三彩

 また、この時代にはイスラム勢力が唐王朝に勝利してシルクロードを支配していたため、中国産の優れた陶磁器やそれを模倣したものが広まり、粘土物質のカオリナイトがなかったため磁器は作れなかったが、その青い色に関しては酸化コバルトで彩色する事で再現に成功しており、それにイスラム美術の特徴である植物や銘文が描かれた。

西安大清真寺のミナレット

 中国の陶磁器などがイスラムに大きな影響を与えた一方、シルクロードを通して中国にイスラム教が流入、現在まで回族として残っているイスラム教徒の中国人が生まれ、唐王朝の首都西安に「西安大清真寺」という完全に中国建築様式で作られたモスクが設立された。

イタリアのフィエンツァのファイエンス焼き

 また、ファイエンス焼きは後にヨーロッパに伝わり、イタリア、オランダ、イギリス、フランスなど各地で生産されることとなる。

イランのラスター彩
エジプトのモスク・ランプ

 アッバース朝の時代にはファイアンス焼きの他にも、焼成した錫釉の上に銅や銀などの酸化物で文様を描き、低火度・還元炎で焼いて金にも似た輝きを持たせた「ラスター彩」が誕生しており、これはエジプトの中心地カイロやシリアの中心地ダマスカスで作られた金属化合物のガラス製品の技術が、9世紀のメソポタミアで陶器の作成に応用された結果できたものとされ、同時期には鋳型での吹き込み形成や部品の付け足しで装飾された透明か不透明なガラス細工も生産されている。

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