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忘れられない母の一言。

私はコロナ前にトビタテ留学japanという文科省の留学制度を利用してイタリアのフィレンツェに3ヶ月間、芸術留学に行ったことがある。この制度は年齢以外に問われる事は何もなく、行く国と期間、親の所得に応じてかなりの額が国から支給されるので貧乏家庭の私でも短期の海外生活が叶った。(国からは約90万円支援してもらった)

現地で撮った写真

第一審査は書類審査で、自分は海外に行って何をしたいのか、何を日本に還元したいのか、得意分野は何か等を山程ある専用の作文用紙に書き、学校の先生を通して文科省に送られる。それが通ったら県外の面接会場に行き、ダンスが得意ならダンスを、絵が得意なら作品を面接官に見せる。そして第二審査が通ったら事前研修で大阪か東京の会場に赴き全国の仲間に会うのだ。

かなり大仰な分もらえる額は大きいので私は必死で頑張った。親もそんな様子を見て何か思ったのかビザやデビットカード、パスポートや荷造りの手助けをしてくれた。

しかしいつもならなんだかんだと口出しして邪魔をしてくるのになんで…と不思議に思い、イタリアに出向く前に「どうしてこんなに手助けしてくれたの?私が勝手にし始めた事だから無視してもよかったはずなのに」ということを遠回しに聞いてみた。

母ははっきりとは答えなかったが一つは私が未成年なので一人ではパスポート等の手配が出来ない事、もう一つは私の才能に芽が出るキッカケになればと思っているという事を言っていたか。母は毒親ではあったが、善意と愛はあった。ただひたすらに不器用で、祖父母のせいで自分を亡くした被害者の一人だった。

母は結婚記念旅行でヨーロッパを周遊したそうだ。ドイツやオーストリア、フランス、美しきヴェネツィアの思い出をポツポツと語ってくれた。そして最後にこう言った。

『あっという間だよ。必死で子供を育てて、気づいたら20年過ぎていた。次はいつ来れるかなって言ってからもうそんなに経っていた』

もちろん子供を産むという選択をしたのは母だから私が自分を責める必要はないが、それでもやはり母さんには母さんの、自分の為に生きられるはずだった別の人生があったのかなと思うと涙が頬を伝う。母さんはずっと祖父母の世話、父さんの世話、私達の世話…誰かと一緒に、誰かの為だけに生きていた。

母は某音楽大学を卒業した。そのまま東京、オーストリアに行きたかったらしいが祖父母に止められたと言っていた。そんなしょうもない事をする暇があるならさっさと就職しろと、そう言われたそうだ。

母は常に私に「あんたは海外が合っている、英語を学んでデザインとか絵を売ってネットでも稼いで、自分らしく生きなさい」と言っていた。才能を軽率に扱ったり、馬鹿にしたりしなかった。母なりの、最大限の愛情の表し方だったのかもしれない。

祖父母とは断絶、父とは離婚、兄は成人して寮で暮らし始め、私は出て行けと言われて現在生活保護。50歳手前にやっと本当の意味で一人きりになって自分と向き合えた母さんは、今も元気に生きているのだろうか。この季節に必ず一緒に聞いていた松任谷由実の「春よ、来い」を聞きながら、ぼんやりと母の事を思い出している。

ご一読感謝。

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