短編小説:(1)国取り
五月の風の爽やかなある日の午後。その四つ辻では、人々がゆったりとした足取りでゆきかっていた。
心許なげに歩く市女笠を被った旅の二人連れ。貴重なものでも運んでいるのか、ゆっくりと荷運びをする牛車と牛飼い。年老いた夫婦と娘と思われる三人連れ。遠くまで遊びに行くと見受けられる子供達。京の街は穏やかな空気に包まれていた。
うちら親子四人は四つ辻のかどっこの対角に場所をとり、その時を待った。人の往来が一瞬途切れたと見えた瞬間、ここぞとばかりに曲舞々のお父と唄い手のお兄が曲舞と唄を始める。
若草色の直垂を着て、短い烏帽子を被り扇子を持った二人は、大きな声と踊りで行きかう人々の目をくぎ付けにさせた。
お兄は今様の「春過」を歌い始めた。
お父は扇を片手に軽やかに舞っていた。直垂の袖を勢いよく振り、足元も深く沈んだかと思えばすぐに軽い跳躍を見せる。扇の使い方も巧みで、ひらひらと舞う扇はまるで体の一部になっているかのようだ。ゆっくり回転したかと思えば次の瞬間には高く宙に舞い上がり、ふわりと着地する。おどけた顔をして、軽やかな動きと共に片足で小刻みに跳ねながら扇を振ると、子供達から自然と笑いが起こった。長い唄と舞で四つ辻はますます華やかになっていく。
声変りが落ち着いたころから、お兄の声は深みを増して声の通りも良くなり、聞く人を引き付けるようになった。お父も負けてはいない。お父の舞は体の重心がいくら高くとも低くとも軽やかさを失わない。小さなころからの鍛錬のなせる業だろう。道行く人々が舞を見ようと足を止めはじめ、お父とお兄の周囲には少しずつ人垣ができてきた。
お父とお兄の曲舞と唄が終わり、できたばかりの人垣が少し崩れ始めると、やおらお母が立ち上がった。うちへの唄の合図だ。
お母は黒の高い烏帽子を被り、お父やお兄と違って浅黄色の水干と大口を着ている。長い髪は足元まで届かぬよう、首の付け根と髪の先端の方で少し結ってあった。白拍子姿の細身のお母が立つと、腰に差した鞘は堂々と長く見えるのが不思議だ。
今日の朗詠は「暮春」だった。お母の準備が整ったところでうちは唄い始めた。
うちの少し高めの声では唄に負けそうな気がするが、お母の堂々とした踊りは人目を引いた。
水干の両方の袖を左右に一杯広げて両袖を見せる。そして自然な動きで開いた腕をゆっくりと閉じていき、体に少しのひねりを加えながら動く。するとそこには先ほどまで強そうに見えたお母が、今度はたおやかな姿勢で次の動きの準備を始めている。お母の動きはとにかく滑らかで、次の動きと止めの間がまるで自然な日常の仕草かの様に見える。そのため、きっかけを逃すと唄いと合わなくなってしまうのだ。
うちはお母の動きを見逃すまいと、真剣に眺めながら唄を続けた。気が付くとお母は足を目いっぱい折り曲げて膝をついて低い体勢をとり、そこで軽くのけ反りながら両の腕を広げて袖を開くと、またさりげなく片手を下に滑らせていく。この動きはよほどの鍛錬がなければ足元がぐらつくはずだ。重い水干を着ていてもお母の動きは途切れることなく続く。この低い姿勢から、ゆっくりと起き上がり、いつの間にか何事もなかったかのように立ち姿になっているのだ。大口の長い裾がじゃまにならないのが不思議でたまらない。
うちが最後の歌詞を唄い終えた時、観衆からは拍手と歓声がかかった。うちらの前に置いてある鉢には、いくばくかの投げ銭が投げ込まれる。それを拾うのもうちの仕事だった。
その日の投げ銭の中には、今まで見たこともない銀貨が入っていた。
はた、と顔を上げると、立派な狩衣の男性がこちらを見下ろしていた。
「先ほど踊った白拍子は、そちとどのような関係にあるのか」その男性は尋ねた。
「私の母親でございます」
「殿が気に入った故、今晩屋敷に参れ。三条の東の屋敷と言えば分かるだろう」
三条といえば、大臣も住む立派な建物がある。東の屋敷は、川のすぐ傍の大きなお屋敷のはずだった。
その日うちらは四つ辻で五度、舞と唄を披露した。投げ銭も多く、これなら明後日までの食事は何とかなりそうだった。それにしても銀貨が手に入ってお屋敷にも呼ばれるとは、今日はめっぽう運が良い。お母とお屋敷に行くための支度もあるので、うちらは一度家に戻った。
家に着くと、お兄がそっと小さな声でこぼした。
「お母と組んでいるおめえは良いよな、多恵。お屋敷に上がれて。お父と組んでいるとなかなかそんな機会もない」
お兄の気持ちも分からないわけではなかった。お父は根っからの今様好きで、時の先端を行く唄を好んで踊りに使った。舞も自分で考えた動きを組み込み、観衆の反応を見ながらあれこれ工夫を凝らすことを好んだ。その様なお父と組んでいると、なかなか大きなお屋敷に呼ばれる機会はない。
お兄が本当は朗詠が好きなのはうちが一番良く知っていた。勉強熱心なお兄は、暇があれば四つ辻に立ち、他の唄い手達の唄を聞いては覚えている。時々こっそり河原に一人で出て、覚えたての唄の稽古に励んでいることもあった。
しかしお兄の声を気に入っているお父は、お兄を放そうとはしなかった。お兄の唄だと踊りに重みが増すというのがお父の考えだった。お父には何度か今様を謡いたいと頼んでみたのだが、答えはいつも同じだった。お兄の声の方が良い。女の声ではだめだ、と。うちはその返事に辟易していた。
物心がついた頃から、うちらは四つ辻で唄や舞を披露していた。お父とお母は共に相模の国の出で、祖父母もやはり曲舞々や白拍子を生業にしていたと聞いている。お母の自慢はご先祖様の一人に鶴岡八幡宮で舞を奉納した人がいる、という事だった。
「鎌倉ではね、ご先祖様達は鎌倉の鶴岡八幡様や他の神社や仏閣で舞を披露したんだよ。鎌倉には昔々、静御前様といった踊りの名手もいらっしゃった。それをうちらが今に引き継いでいぐんだよ。相模の古都の芸の美しさを京の人に見てもらう。見物の人たちから喜んでもらえると、こんなに嬉しいことはないよ」
お父とお母は相模の国に飽き足らず、旅芸人となって西を目指した。目指すのであれば国の都と決めていたそうだ。
都で自分達の芸で生きる。
都で一番の芸人になる。
都を取ればこの国を芸で取ったようなもの。
ならば天下を取ってこの国で一番の芸人になろう。
そうした大きな心持でお父とお母が京へ着いたのはお兄が三歳の頃だと聞いている。うちは家族が京についてから生まれたのだが、外とのつながりがあまりなく、家でも相模言葉を使っているせいか、うちは京言葉がうまく話せなかった。そのせいか、小さい頃は友達も少なかった。
※神奈川方言の一人称について
https://noel-media.jp/news/1138?page=2
それ以前に、うちとお兄の生活は舞と唄一色だった。道が人の往来で忙しい朝の時間帯は舞と唄の稽古を両親からつけてもらい、午後からは両親の仕事を手伝った。
稽古の時、お母は厳しく、舞の形にこだわった。相模の国で培った舞の形を私達に伝えたい一心だったのだろう。一方、お父はうちらが工夫をする度に上機嫌になった。うちらが即興で作った動きを、自分のその日の仕事に取り入れるような器用さがあった。そんな正反対のお父とお母は、うちらの芸についてよく揉めていた。伝統を守るか、現代の空気に合わせるか。二人の口論はいつもそこに始終していた。
「いつも言ってんだろう、白拍子の芸はすでに猿楽に盗られてんだ。おめえの芸はこのまま廃れていぐのは明らかだべ。早ぐ俺の芸に転向したらどうだい」
「そうは言っても、あんた。鎌倉様からここまで引き継いできた芸だよ、ここで廃れさせちゃあご先祖様に顔向けができない。それにあたしの舞に喜んでくれる人は多いんだよ」
「時は変わっていぐんだ。おめえの芸も確かに見どころはある。ただ見る側の事もちったあ考える必要があるべ。猿楽がこれだけ人気な世の中だ、あべこべに白拍子が真似して踊っていると受け取られかねないべ」
お父がいくら言っても、お母はかたくなに先祖から受け継いだ技を継承していくことにこだわった。
お兄はお母の意見に賛成で、古くからあるものを継承していくことに重きを置いていた。うちはその反対で、今様や自分の工夫から生まれた動きや声がどこまで人の心を動かせられるかに興味があった。
午後の仕事の時はうちら兄妹がお父の今様に合わせて踊ることもあった。昼から夕刻までの長い時間、何度も繰り返し舞って、小さい頃は一日の終わりにはへとへとになることもあった。
仕事と稽古以外の時間は、他の芸人たちの仕事を見て覚えていった。猿楽や傀儡子の人形芝居、曲芸、軽業。四つ辻で行われるあらゆる芸事が私たちの指南書となった。うちが特に好きだったのは猿楽で、人を笑顔にさせる楽しい筋書きと猿楽士達の軽やかな動きが気に入っていた。同じ辻で猿楽が始まると、衣装を着けていることもすっかり忘れて見物人の一人になってしまう。お母には悪いとは思うが、好きだと思ったものは止められなかった。
暮れ八つの時が来て、うちとお母はお屋敷へと入っていった。
使用人の入り口をたたくと、家の使用人の一人が応対に出てくれた。
うちらは中に通され、屋敷の狭い廊下を通って庭にでた。
「庭のお白洲の上へお上がんなさい。今から火を持ってくる。旦那様はもう部屋にいらっしゃるので、お静かに」そう言い残して、使用人は庭の奥へ去っていった。
庭には他の演者達がすでに控えていた。猿楽士達に傀儡子達が顔をそろえている。
庭にかがり火が炊かれ、演者達は順番に演目を披露していった。うちらは三番目、最後の出番だった。
猿楽士の演目は豪華だった。百年以上前に観阿弥・世阿弥という親子が基礎を作り上げて発展してきた芸だが、軽業に加えておかしみのある動きや物語の筋立てがいつ見ても心地よい。きれのある動きが素晴らしく、さぞかし鍛錬されているのではないかと思う。豪華な衣装や小道具もそろっており、お白洲の上でもまるで別の世界を見ているような錯覚すら覚える。唄の声も響きも朗々として、楽器の演奏も従え素晴らしいものだった。
お母のお供でお屋敷にて芸を披露することは度々あれども、同じ時に他の演者の方々の舞を見る余裕はなかなか無い。ましてや今演じられているのは私の大好きな猿楽だ。目の前で繰り広げられる幻想的な世界に、うちは全身を目にし、全身を耳にして集中した。
お母に言わせると、これも「白拍子から技を盗んだ」ということになってしまうようだ。
しかし、盗む事ならうちらもやっているのではないだろうか。日頃から四つ辻に立って他の芸人達の技を見て勉強しているうちらは、彼らから何らかの影響を受けているはずだ。
自分の持つ芸は無から生まれるわけではない。影響を受けたものを自分なりに解釈し、自分のものとする。即興で行った芸が個性的に見える時があるのは、その人が経験してきた動きや感情がそこに吹き込まれているからであって、その芸は外からの影響が多分にあるのではないだろうか。仮に舞や唄が個性的であるとすれば、それは個々人の体格や声質、気質、運動神経、物覚えの良さ、物の感じ方や表現力などから来るのかもしれない。
そうすると白拍子の舞も、他の舞や動作などから影響を受けているはずであって、お母の言うようにご先祖様の時代から全く同じ舞が受け継がれているとは言えないのではないだろうか。舞も踊り手の表現力や運動神経などによって印象が異なるだろう。後世に名を遺す踊り手達と同じような表現力や運動神経の舞手が澱みなくいれば話は別だが。
自分を振り返ってみると、お父の曲舞の影響は多分に受けているし、他の辻芸人から目で学んだ様々な動きが心に焼き付いている。この影響はおそらく自分から無くなることはないだろうし、お母の言う伝統を継承するには、うちは他の芸事に影響を受けすぎているようにも思う。
その晩、お母とうちは昼間に披露した「暮春」を再度披露した。お屋敷のご主人様のみならずご家族の方々にも気に入っていただけたようだった。使用人の方からご褒美のお土産をいただき、うちらは家路についた。
帰りの道すがら、うちは先ほど見た猿楽を思い出していた。
お父の舞とお母の舞。そして猿楽。うちの大好きな踊りや唄を融合させて、もっと何か大きなものを表現してみたい。そしてもっと大勢の人たちに楽しい時間を過ごしてもらいたい。色々な芸を持った人たちと一緒に新しい芸を作る。それを国中巡って大勢の人たちに見てもらう。芸人達だけではない。衣装や小道具、楽器に舞台と取り揃え、大勢で国中を旅してまわるんだ。
夢は膨らむばかりだが、お父とお母が芸で国を取るために都を目指したのとは反対に、うちは国中をめぐって芸で国を取りたい。
などと思ったところで、一日や二日で何かが変わるわけではない、今は目の前のことに精進して、これから自分がどうしていきたいか考えなければ。
まずは自分の今様をお父に認めてもらう。そこから始めよう。
お兄の様に河原で稽古をしようか。
「多恵、何してんの。早くおいで」
そんなことを考えていたら、足が遅くなっていた。うちは慌ててお母の後を追った。
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