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PERFECT DAYS

事実というものは存在しない。 存在するのは解釈だけである。

フリードリヒ・ニーチェ

特に哲学が好きではないけれど、好きな言葉はいくつかある。

当たり前のように「宗教」という概念が数千年もの世界史を支えてきたように、僕らにとっても心の拠り所が必要なのは明白だ。

先日、映画「PERFECT DAYS」を観て上記のニーチェの言葉が降ってきた。

"完璧な日々"とは一体、何なのだろうか。

きっと全員が抱いた疑問なんだろうけど、自分も例外なく凡庸に思案してしまった。

ニーチェの言葉を引用しつつ、"完璧な日々"について少しだけ綴っておこうと思う。





映画「PERFECT DAYS」はトイレ清掃員の変わらない日常を描きつつ、そんな日常に相反して、刻々と移ろいゆく感覚や感情の機微を主人公のセリフではなく、その表情や眼差しによって実に繊細けれども大胆に描いている。

ルーティンに塗れた生活と、毎日異なる車内で流す曲が対比のメタファーに感じられた。

一方、現実のボクらの生活は日々の積み重ねである。

故に同じ現実(事実)に対して、いつも通りの感覚を、やがては無関心になってゆく。
日常にありふれた"一過性の美しさ"に対してまるで不感症に陥っていく。

そしてみな口を揃えて言う、「人生は退屈だ」と。


映画「PERFECT DAYS」で最も重要なのは、木々が風に揺れ動く光や影などの一過性に想いを馳せ、今この瞬間の感情と記憶を結びつけるといった、本来ボクらがあるべき姿が数多く描かれていた、という点。

例えば自然などの一過性の現象は事実だけど、それが記憶と結びつくという現象は事実ではなく、あくまでも個人の解釈に過ぎない。


ここで冒頭のニーチェの言葉を思い出してほしい。

極端だけど、自分の世界は事実ではなく己の解釈だけで構成されている。

例えば天気が曇りでも、自分にとってはとても快適だと解釈すればその日はパーフェクトになる、ただし逆も然り。

身の回りに起こる現象に対して、自分自身の感覚を素直に照らし合わせる事で、様々な経験や感情を発見できる。

そしてそれは豊かさに繋がり、やがてはPERFECTな日々と呼べるものになるだろう。

同じ日々の積み重ねにおいて、解釈の解像度を上げればそれはやがて最高な日々に繋がりうる。

諸行無常、移ろいゆく季節と同じように、変わりゆく感覚や感性をどうか大事にしていきたい、そんな解釈を忘れないように。





ある程度は都合よく解釈しないとやってられないってのも本音だけど、幸せに暮らしている人ってみんなそうだし、その方が素敵だって事は覚えておきたい。

どう解釈するかによって、人生は簡単に変わる。

2月も終わるね。
明日から社会人に戻る訳だけど、積み重ねる日々の中に小さな発見をしていく、そんな解釈を忘れずに生活していこうと思う。


それではおやすみなさい。

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