悠
日々感じた感覚をできる限り言語化、烏滸がましいけどどうか誰かを救えますように。 夜更かしのお供にどうぞ。
記録と歴史
好奇心の赴くままに、ありのままに。 "有閑"という名の時間の中でやってみた"遊戯"をゆるーく書いてく。
最近の話。 週に50~60時間ずっと部屋に引きこもって、無機質な物質を眺めたり叩いたりしてる。あ、仕事ね。 そこには朝も昼も夜も天気も季節も関係なくて、世界から隔離されたただの空洞しかない。 だから昼休みには少しの散歩をする事にした。 どこまでいっても人間らしい生活を続けていきたい。 多分フルリモートの働き方が向いてない。 その流れから土日も散歩はしてて、今日は散歩ついでに寄ったファミマでBRUTUS最新号「一行だけで。」を脳死で買った。 単純にタイトルにやられてしま
振り返ると普通の学校に進学して普通のサラリーマンになっていた。 非凡とは無縁な人生を歩んできた。 何かに特化してそれを武器に戦える人を羨んだ時間はかなりの割合を占めている。 自己紹介で「特技」を書く時、必ず一度ペンが止まる。 何かに特化した強みがない。 胸を張れない自分が悔しい。 でもその塩梅を含めてこその自分だと胸を張って言えるだけ大人にはなれている。 タイトルはアイルランドの作家オスカー・ワイルドの有名な言葉。 どう捉えるかはきっと受け手の想像力に依存する。
結果論と過程論、どちらを重視するか。 仕事に限っては結果論として、ある程度の成果物や数字が価値の尺度となる。 けれど人生は仕事じゃない。 生きる事は何かを完成させることが目的じゃない。 他者と人生を歩む場合、残念ながらお互いの事を100%理解し合うのは絶対に無理だ。 同じ人間は存在しない、してはいけない。 理解し合えないのに社会的な生き物だなんて、随分と酷な矛盾を押し付けられたものだと憂いていた青い十代を過ごした。 正直、恋と愛とか全く分からない。 区別じゃなく
発信するという事は誰かを傷付ける行為だ。 殊に僕は"相手に何かを押し付ける行為"がひどく嫌いだ。 それは押し付けられて嫌だった記憶や、されてる人を見て落ち込んだ経験が沢山あるから。 「自分がされて嫌な事をしない」 バカみたいに簡潔なロジックであると同時にあまりにも自己中心的な展開に、本当はどうしたら良いか分からなくなる時がある。 けれど想像の範囲内で相手を傷つけてしまうと理解できていたならば、掲げた武器はその場でおろすべきだ。 「であれ」という言葉は、全てを諦めた
トレンドの波に乗って新しい音楽がどんどん出てくる。 仲の良い友人がここ数年ずっと言ってる。 「最近の音楽で良いと思えるものが何もない。結局過去の自分のお気に入りばかり繰り返し擦って、最終的にそれに満足しきってる。」 変化に弱くなる、ある種これが"老い"なのかもしれない。 日々、音楽に限らず処理しきれない膨大な情報が押し寄せてくる。 むしろこちらから取りに行ってることの方が多いかもしれない。 取捨選択する能力がより一層必要な時代がこの令和だと痛感してる。 先日29
完璧に満たされた人間って怖いなと思う。 完璧な人間は存在しないけれど、それでも満足してる人は一定数存在する。 "足るを知る" 掴みたい思考と追い付けない自分がつまらなそうに手を繋いでいる、ずっとそんな感覚が影のように付きまとってくる。 大切な友人やパートナー、愛する家族がいても寂しさを感じる人は多い。 なぜだろうと自問自答して悩む事も多いだろうけど、それは杞憂だと漠然と伝えていきたい。 ボクは「孤独」と「寂しさ」は全く別物だと思っている。 何故なら孤独は前提だから
例えば好きだったバンドは解散するし、初恋の人は結婚してる。 可能性の話を出し続けても、結果は常に残酷であり運命と片付けてしまって良かったりもする。 たぶんこの記事は意味不明だと思うし、独りよがりの乱文になるね、ご承知おきを。 大学生の頃は社会に反抗する行為自体に酔いしれて、自分を認めない社会全体がおかしいって信じてやまなかった。 全身にyohjiyamamotoを纏って全力で中指立てる時期が確かにあった。 捉えきれなかった深淵からほとばしるそれは、まさに僕にとっての「黒
多めに見積もっても伝えてるのは本音の3割ほど。 友達には不誠実だと言われた。 信用してない訳じゃなくて、全員に対してそうなんだ。 結局これは自分自身の問題。 外部とのやり取りについて、自分を他人に押し出す事に怯え続けてる。受け入れられない事への防御壁があまりにも鉄壁すぎる。 ありたい姿になれない日々に葛藤しつつ、けれども本音は全てここに置いてる。 いつの日かこのnoteに書いた内容を誰かに話せたら良いな、そんな願いを込めて。 ちなみに「自己肯定感を上げれば良い」と
こんばんは。 世間的にはGW後半戦、終わりゆく連休に憂鬱が膜を張っているような感覚の今晩この頃。 "「結局それは恵まれているんだよ」の一言で片付けたくない" このタイトルに対して幾ばくかの遣る瀬無さを覚えつつキーボードを叩いている。 まず前提として不幸の概念は自分の想像の範疇を超えられない。 だから全てに対して「主観的にしか測れないからもっと視野を広げようよ」なんて言うつもりは毛頭ない。 会話のキャッチボールとしては粗雑も甚だしい。 けれど悲しい事に人の苦悩の大
毎春思う、飽きる前に散りゆく桜は思考をもたないはずなのにどうしてそう賢いんだ。 「春が二階から落ちてきた」と、伊坂幸太郎の小説の冒頭句がよぎる。 出来ないことばかりに目が行くボクら人間(狭義で言うとに日本人)は、自虐の日々を噛み締める時も多々あるだろう。 裏を返すと、いや裏の裏つまり表に戻る訳だけど、自虐は自己愛だ。 数年前まで自虐思考に陥る要因は、いわゆる自己肯定感の低さと自己承認欲求の高さという本当の意味での負(ネガティブという意味)からくる、 "負の相関関係"だ
「有閑遊戯」と題して、人生の夏休み延長戦(無職期間)にやった事を恥もなく書くシリーズ、今回は第四弾。 今月から社会復帰はしたけど、引き続き限られた時間の中でやってみた事も含めて「有閑遊戯」として記録していくね。 システムエンジニアという仕事柄、今回はITに関連する資格の話になってしまうから興味ない人はスルーしてね。あと全部初心者向けで簡単な内容。 取得した3つの資格の概要と学習方法や費やした時間、感想をそれぞれざっくり書くのでよければ参考にどうぞ。質問とかあったらコメン
特に哲学が好きではないけれど、好きな言葉はいくつかある。 当たり前のように「宗教」という概念が数千年もの世界史を支えてきたように、僕らにとっても心の拠り所が必要なのは明白だ。 先日、映画「PERFECT DAYS」を観て上記のニーチェの言葉が降ってきた。 "完璧な日々"とは一体、何なのだろうか。 きっと全員が抱いた疑問なんだろうけど、自分も例外なく凡庸に思案してしまった。 ニーチェの言葉を引用しつつ、"完璧な日々"について少しだけ綴っておこうと思う。 * 映画「
物量≠豊かさに気付いてしまい、最近は実際に断捨離して何とか豊かさを実感しようと必死になってる。 いや心がすでに豊かじゃない。カムバック心の豊穣。 さて本題。 今回は少しだけ込み入った内容を書こうと思う。 タイトル通り約2年ぶりの社会復帰が決定し、残りの無職期間をどう過ごすか考える事で、時間を浪費している今日この頃。 だからこそまずはnote書いちゃおう☆って気持ちで陽キャになりきってる。 入社は来月の3月1日(金)、いや猶予が短すぎる。 劇団社会人としてまた死なない
こんばんは、灰色の夜です。 今年も皆さん大変お疲れ様でした。 2023年大晦日、今年の振り返りなんて出来る余裕もなく、去年の記事の続編を書こうと思います。(大変身勝手) 結論、1年経っても自分の根幹は変わってないよ、そんな話。 * 去年の12月に書き殴った記事は、ボクの根底を恥ずかしいくらいありのままに綴ったもので、40近くいいねをもらったけど、正直理由は分からない。 けどこの気持ちが一人でも多くの人に届いていたら嬉しいな。 上記の記事を要約するとこんな感じ。
なんだか久しぶりの投稿。 今年の下半期は苦しくてnoteも書けなくて、でも苦しいからこそ少しでも感情を言語化したくて、これを書いている。 あ、ドラマ「いちばんすきな花」すごく良かったね。生きづらい人達の内面を誇張せず透明に代弁してくれるような内容で、構成や脚本も素敵だった。 * 最近のこと。 離職してから1年経った先月から転職活動を始めた。 遅いよってね、うん、本当に遅かった。 あと滅茶苦茶しんどくて結果もズタボロ。 (3桁の求人に落ちてる、本当に笑えん) ちょう
様々な現実に打ちひしがれて気付けば秋。それでも僅かな前進を胸に、日々なんとか生活してます。 もう少し落ち着いたら記事が書けるかな?少しだけ待っててね。