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余白の哲が支える

例えば好きだったバンドは解散するし、初恋の人は結婚してる。

可能性の話を出し続けても、結果は常に残酷であり運命と片付けてしまって良かったりもする。

たぶんこの記事は意味不明だと思うし、独りよがりの乱文になるね、ご承知おきを。


大学生の頃は社会に反抗する行為自体に酔いしれて、自分を認めない社会全体がおかしいって信じてやまなかった。
全身にyohjiyamamotoを纏って全力で中指立てる時期が確かにあった。
捉えきれなかった深淵からほとばしるそれは、まさに僕にとっての「黒の衝撃」だった。

でも仮にそれが無かったとしたら「遅れてきた反抗期」として、今更ひどい事態に見舞われていたのは間違いない。

思うに本質的には社会に対してではなく当時の無力でちっぽけな自分へのアンチテーゼでしかなかった。

たかだが高校を卒業しただけの何も無い自分をどうにか大人という枠組みに押し込みたかった、というのが本音だった。

その為に自己否定と自己承認の狭間をずっと反復横跳びしながらなんとか自我を保っていたし、逆にそうでもしないと保てなかった理由が確実に存在した。

周りと比較して劣っている自分がただ悔しかったし恥ずかしかった。




当時持っていなかった才能や努力、それに伴う肩書きや結果は僕の小さなキャンバスの遥か外に毅然とした態度で存在し続けていた。

特に保有や達成のような尺度でしか測れなかった要素に対しては、否応なく見えないフリをして、法廷での重罪人さることながら完璧なまでの黙秘を徹底していた。

つまり余白を視認する事すら拒んでいたという事。
これは「間違った余白の哲」だった。

羨望や憧れをバネにして努力をできる人が一定数存在するけど、これも才能であって全員には当てはまらない。そして自分にも当てはまらなかった。


余白の大小はその人の優劣を明確化しない、そしてキャンバスは無限の収縮をきっと止めない。
でも余白を慈しむ心は必ず忘れてはいけない。

これが僕を支える「余白の哲」

例えば大部分が余白で構成された極小のキャンバスにペンや筆で一羽の鳥が描かれていたとして。けれどその部分が壮大に深い場合もある。
これは何か一つを極めた人。

例えば大きなキャンバスに少ない余白で斑に綺麗な海や星空が描かれていたとして。けれど局所的に緻密性には欠ける場合もある。
これは幅広い能力と沢山の友達がいる人。

能力だけが自分を肯定する訳じゃない。
出来ない・持たざるがより自分を自分たらしめる。

そしてこれが「余白の哲が支える」という事。

出来なかったら誰かに助けてもらえばいいし、持ってないなら代替品をつくればいい。そんな日々を愛せたなら理想にまた一歩近づくよ。




なんだか今夜は頭の中の雲みたいな考えを拙く言語化しただけだった。
色んな人が考える「余白の哲」を知りたくなった。

余白や矛盾はより豊かにしていってくれるものだって思えたら、これ以上の喜びはきっとない。

それではおやすみなさい。

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