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自意識は過剰であれ

発信するという事は誰かを傷付ける行為だ。

殊に僕は"相手に何かを押し付ける行為"がひどく嫌いだ。

それは押し付けられて嫌だった記憶や、されてる人を見て落ち込んだ経験が沢山あるから。

「自分がされて嫌な事をしない」

バカみたいに簡潔なロジックであると同時にあまりにも自己中心的な展開に、本当はどうしたら良いか分からなくなる時がある。

けれど想像の範囲内で相手を傷つけてしまうと理解できていたならば、掲げた武器はその場でおろすべきだ。

「であれ」という言葉は、全てを諦めた人の最後の悪足掻きや唯一の祈りに思えた。

不意に抱きしめたくなる程、語感と語彙が愛おしい。




先日、人生に対する苦悩を友人に多少話す機会があった。

「自意識が高過ぎるから心配事ばかりに意識が向いてる、普通はそうはならない、要は考え過ぎだ」

彼はきっと彼なりに僕を励まそうとしてくれていた。
言葉は置き去りにして気持ちだけ受け取った。

普通の人は仕事や生活など目の前の事に集中してるから悩む余地が殆ど無いらしい、という事を知った。


その上で僕はこれからも悩み苦しみ続ける人生を選びたい

ただ自意識が過剰であるからこそ、好きになれたものや価値観がある、そして最終的に今の自分を構成できた。

加えて僕はそれをひどく大切にしている。

言葉にできない領域や例えば「愛」や「優しさ」のような追求すべき概念を諦めるような生き方は絶対にしたくない。

これは意思であり覚悟であり、ひいては自身への宣戦布告でもある

表現されうる言葉より言わなかったりしなかった事への意味が大きく作用している事に、世界はまだ気付いていない。


自分自身と対峙する為に自意識は過剰であるべきだ。そうあり続けてほしい。

アダムとイヴは自身が裸であるという恥の自認から始まった。

必ず自分というフィルターを経由しないと他人に辿り着けない。
待ち合わせが出来たら良いのにね。

客観だってただの主観の集合に過ぎない。
だったらその主観を突き詰める事で成し遂げられるものに命を燃やしたくはないだろうか。




「私なんて」「僕なんて」って言ってる人ほど、自己愛が強かったりするのは何故なんだろう。

きっと僕は自分がかわいくて仕方ない。
甘んじて受け入れてくれるのであればどこまでも。


それでは良い夜を
おやすみなさい

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