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寂しかったから世界が色付いた

完璧に満たされた人間って怖いなと思う。

完璧な人間は存在しないけれど、それでも満足してる人は一定数存在する。

"足るを知る"

掴みたい思考と追い付けない自分がつまらなそうに手を繋いでいる、ずっとそんな感覚が影のように付きまとってくる。

大切な友人やパートナー、愛する家族がいても寂しさを感じる人は多い。
なぜだろうと自問自答して悩む事も多いだろうけど、それは杞憂だと漠然と伝えていきたい。

ボクは「孤独」と「寂しさ」は全く別物だと思っている。

何故なら孤独は前提だからね。




何かを持ってしても埋められない寂しさにこそ、可能性を感じてる

「手放す事で満ちてゆく」と藤井風は歌う。

各種SNSを中心にインターネットを介して膨大な情報が莫大な人の間で毎秒行き来している。
無論そこに意味はほとんど無い。

noteという媒体も同じで、誰かの頭の中の思考の断片が不特定多数の脳に到達する事もしばしばある。

でもこれに限っては人を救う奇跡は幾度もあるし、もはや奇跡ですらなく必然に近いと感じている。

誰が何を突き飛ばそうが、
"ボクらは言葉で作り上げられている"からね。


それでも悲しい事に何事においても限界がある。

生きてるうちに出会う人の数は多く見積もっても3万人と言われているように、咀嚼して吸収できる情報や感覚も価値観も生まれた瞬間から決まってる。

限られているからこそ、
(余分なものを)手放す事で満ちてゆく。

仏教では執着などを手放す事を「放下」と言っているけど、余分な執着に苦しみ悩むのであれば手放す事で報われるらしい。

言わずもがな藤井風は仏教であり、釈迦の生まれ変わりに近い存在なのかもしれい。


でもふと考えた。
手放す理由はおそらく他にあるんじゃないかと。

やや逆説的だけど、
人は多いから手放すのではなく寂しいからこそ手放すんだと思う

手放す事で向き合える自分の領域が増える、いや"戻る"が正しいかな。

そしてきっと無意識に他の何かでその領域を埋めようとして、寂しさをなんとかしようとしてしまう。

実際、ボクも厭世的な価値観を手放して代わりに少量の楽観を手に入れる事ができた。
過去にこびり付いていた生きづらさはさほど感じなくなった。

結局、厭世的であり続けるのがただ寂しかったから手放したんだと思う。

でも寂しさのおかげでだめにならずに済んだ。

寂しさで作られたメガネを介する事によって、世界に少しずつ色彩が溶け込んできた。

孤独を愛して、正しく寂しくあり続けられて本当に良かった。

過多で埋め尽くされた現代を生きる上で手放す事は絶対的に必要で、そのためにきっとボクらは永遠に寂しくあり続けるべきなんだ




勇気が無くても寂しささえあれば、手放す事だって終わらせる事だって容易くて、そうしてボクらは見える世界をほんの少しだけ変えられる。


どうかこのまま、清く正しく寂しくあり続けられますように。

それではおやすみなさい。

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