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師走、人の気持ちに寄り添い続けたい。

こんばんは、こんにちは、おはようございます。

悠です。(挨拶いる?と思いながら最近は書いている)

とうとう師走になったけど、毎年12月に走っている感覚がいまだにない今日この頃。

高円寺の道端にサンタ帽が落ちていた。
慌てん坊のサンタクロースがもういるみたいで、寒さの中に小さな火が灯ったような気持ちになった。

もうすぐ2022年が終わろうとしている中、ボクの生きていくテーマである、
「人の気持ちに寄り添う」という原点に改めて立ち返ってみたいと思う。





気持ちに寄り添う行為は優しさではないけど、優しさの一部だと思ってる。

優しさって言葉はあまりにも抽象的かつ大き過ぎて、何を挙げてもなんだかしっくりこない。
でも曖昧だからこそ、追い求めるべきだとも思う。

注)曖昧な関係は例外。


人の気持ちを理解するには、
"主観を脱却した上で、相手の状況や考え、立場を想像する事が必要"

正直かなり難しい。
「だって自分は自分でしかないし、それなのに他人の思考や気持ちまで想像するなんて、無理難題だ」と、元友人に吐き捨てられた事を思い出した。
申し訳ないけど、その人とは友人を辞めた。

でも諦めて自分の事だけ考えて生きていくのは少し違っていて、難しくても他人を理解しようとするその気持ちこそ大事なんだと思う。

理解しようとうする気持ちって案外分かりやすくて、それを察知してくれると、人は自分の気持ちや考えをちゃんと話してくれる。
ボクそういう人間味のある人間がとても好きだ。





"寄り添う"というのは、
"一緒に何かをするのではなく、ただ横にいてたまに世間話をしたり、自分が飲むついでにその人にもコーヒーを淹れる、そんな心地良い空気感"
こういったイメージをボクは持っている。

だからいつも自分の発する言葉はしっかり選び、相手がどうしたいのか、どうすれば良くなるのかを自分も一緒に考えたりしている。
あくまでも自発的に、かつ自分の意思で。

それに「〜してあげる」って言葉はできる限り使いたくないし、そんな気持ちで誰かと接したくないのが本音だ。

烏滸がましい人間がとても苦手。絶対にそんな人間にはなりたくない。
"こうなりたくない"を集めると、"こうなりたい"になるって事、最近気付いた。 


"相手の気持ちや考えを理解した上で、自分ができる小さな事をただ当たり前にする"

これが自分なりの人の気持ちへの寄り添い方。

無理して相手を優先し続けた結果、自分が壊れそうになって、突然壁を築いたうえに更に殻に籠るという経験が今に生きてきた。
誰も相手に無理して欲しいなんて思わない事、今時の小学生でも分かるはずなのに、それでも無理をするのは、頑張った自分を正当化したいからなんだよね。
大人ってやつは厄介だ。
きっと"頑張るベクトル"を履き違えてる。

祈りたい事はただ一つ、この先いくら歳を重ねても、この考えだけは年老いてしまわぬように。


冬の始まりを祝して、今夜はきのこ帝国を聴いて眠ろうと思う。

それでは、良い夜を。

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