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『プシコ ナウティカ』を読んでは独り言・其の八

あの人はこういう人だから

と思って
自分の心に
言い聞かせることがある

心のざわめきを
どうにかして落ち着かせようと
もがく際によく起こることだ

それは

あの人との間で
何らかの衝突が起こった
ということでもある

そして

心が落ち着きを取り戻すと
相手の存在を
決めつけてしまったことに
罪悪感というと言い過ぎかもしれないが
得体の知れない後ろめたさを
感じることがあるのだ

日頃の薬局での仕事中に

あの方は認知症だから…

そういった言葉を
吐き出しそうになる

認知症だから仕方ないと
私の中で決めつけてしまったのだ

認知症であっても
認知症であることと
目の前で起きている事象との関係性を
結びつけるか否かは
また違った話なのである

それなのに…

それなのに…

そんなことを思っては

今日もまた

読んだんだか読んでいないんだか
積んだんだか積んでいないんだか
といった本達の中から一冊紹介し
心の琴線に触れた一節を取り上げ
ゆるりと書き記していきたい

今回はこちらの本を読んでは独り言

一昨日も
こちらの本を読んでは
独り言noteを書いたばかりである

まだ5分の1程度しか
読み進めていないが

大切な本を
ゆるりゆるりと
噛み締めるように
読み進めることができて

それはそれで
貴重な体験をしているなぁ

そう感じるのであった

さてさて

いつものように
引用する必要があるんだかないんだか
本来の引用の定義を考えては
自己ツッコミを入れつつ
noteの引用機能を用いて
引用させていただきたい

強制収容所や精神病院のような「全制的施設」においては、人は「人間である」こと自体を奪われる。「人間である」ことを奪われた人は、非ー人間となり、モノとして扱われる。バザーリアの妻のフランカ・オンガロは、一九六八年にゴフマンの『アサイラム』をイタリア語に訳しているが、それに付した解説のエピグラフとして、彼女もまた同じレーヴィの手記から一節引いている。
私たちの存在の一部はまわりにいる人たちの心の中にある。だから自分が他人から物とみなされる経験をしたものは、自分の人間性が破壊されるのだ。[レーヴィ 一九八◯ : 二一五]

松嶋健. プシコ ナウティカ ーイタリア精神医療の人類学. 世界思想社, 2014, 109p

物化するとまでいかなくとも
相手の存在を
ひとつの性質で括ってしまい

あたかも

その人全てが
その性質で成り立っていると
言わんばかりの対応を
しているのではないか

そう思うことがある

気にしすぎではないか
考えすぎではないか
と思われるかもしれない

もちろん

常にそう思うわけではないが
おそらく私自身が
何か一括りにされたくない思いが
強いのだろう

それは

私が生きてきた中で
過去の経験や体験が
そうさせるのだと思う

だからこそ

他者を一括りにしたくない思いがある

しかしながら

結局は一括りにしてしまっている自分を
発見しては若干の自己嫌悪に
陥ってしまうのであった

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