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循環と持続可能性の話(その3)

はじめに。
持続可能性なんて言葉を聞くようになって随分と時間が経つ。
最近ではサスティナブルやSDGsなんて言葉もよく飛び交っている。

実は私はこれらに懐疑的というか、ちょっと違和感を感じている。
それは山での体験が源流となっていて、自分の根底に地下水のように流れている。

先日、コテンラジオのポスト資本主義シリーズで「持続可能性なんてない。あるのは循環だけだ」なんて話が出てきたの聴いた。

それをきっかけに改めて自分の考えをまとめてみようと思い、持続可能性と循環の話を書いてみる。


「その1」と「その2」はこちらからどうぞ


外敵が起こす森の変化

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嘉永6年(1853年)に浦賀沖に黒船が来航した。
もしも永遠に黒船が来航しなかったら。
江戸時代はどれだけ続いていただろうか?
少なくともあのタイミングで滅びたりすることはなかったのかもしれない。

人類の歴史で外敵によってどれほどの変化が起きてきたのだろうか。
多くの国が滅びたり、絶大な権力を誇った支配者が地に落ちたりしただろう。

この変化は人類だけではなく、自然界でも起きている。
そして、自然界での外敵の襲来の多くは人間によってもたらされている。


春日山原始林にやってきたのはナンキンハゼとナギだった。

ナンキンハゼ-樹木

ナンキンハゼは街路樹としてよく使われる樹で、ハート型の葉が秋には綺麗に紅葉する。

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ナギはご神木として使われ、災難除けなどに用いられる樹だ。

ナンキンハゼもナギも元々は春日山原始林には無かった種だが、街路樹として、ご神木として人間の手によって持ち込まれた。


この樹のどこに問題があるのかというと、どちらの樹も鹿が食べないのだ。

春日山原始林の在来種であるドングリの樹たちは鹿に食べられ、ナラ枯れに襲われている一方で、鹿が食べなければナラ枯れもしないナンキンハゼやナギが勢力をどんどん拡大していく。

江戸時代までの日本の原風景が外敵の影響によって失われたように、春日山原始林の照葉樹林という姿も外敵によって失われつつある。いや、外来種は人間によってもたらされたものだし、そもそも鹿の数が増えすぎたのも人間が保護したことによるものだし、外敵のせいにするのはかなり身勝手なことかもしれない。


それまではバランスが取れていた森の状態が、鹿が守られることによってバランスを崩し始めた。鹿を捕食するものがいない。増えすぎた鹿の食糧が無い。ドングリや草花が食べつくされる。虫や小動物の居場所がなくなる。次世代の樹が育たない森。ナラ枯れによって親木が失われる。鹿が食べない外来種が勢力を伸ばしてくる。

種の繁栄が生物の目的だとしたら、ナンキンハゼやナギは人間の手を借りて拡大できていることは何ら悪いことではない。鹿だってそうだ。

人間の行いは愚かではあったが、誰がすべてを予測できるだろうか?

それに宗教的な営みや文化的な営みは人間が文化的進化をしてきたからこそ起こりえたことであり、それは人間が人間らしく生きる意味でも必要なことに違いない。

この流れをいつ誰が止めることができたのであろうか?



諸行無常

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時代が移り変わるように、森の姿が変わるように、ず~っと同じものなんてないのだ。

持続可能を実現するためには、生まれては消滅しなければならない。都合よく何かを存在させ続けるためのシステムはあり得ない。


春日山原始林には本当に巨木・巨樹と呼ぶのに相応しい馬鹿でかい樹々が山ほど生えている。この大きな体を作る材料は根っこから吸収しているわけではない。

巨樹の体を作る炭素原子は空気中の二酸化炭素から得ているのだ。

光合成の仕組みを考えると当然といえば当然なのだが、この目の前にありながらも見えはしない空気の一部が、樹になっているというのは何とも不思議ではないだろうか。

その植物を動物が食べれば、空気だった二酸化炭素の炭素原子は動物に変わる。そして、また呼吸によって二酸化炭素となって空気に戻る。(めっちゃ簡単に言うとこんな感じ)

そこにあるのは持続可能ではなく「循環」なのだ。

水も海だったものや、雲だったものや、雨だったものや、川だったものや、植物や動物だったものが、いつの間にか私(人間)になっていたりする。

流れる雲を見て、あれもいつかは自分になっているのかもと考えると、この世にあるのは循環だとわかるし、空気や水を汚してはいけないと感じる。


持続可能性。

それは確かに自分たちの暮らしを守るためには必要な考え方なんだろう。でも、そんな都合のよいものは存在しない。ただ。持続可能性なんてあり得ないといって、破滅に向かえと言ってるわけでは決してない。

そうではなくて、生まれ滅びるのが常であり、普通であり、変化し続けるものなんだと理解する。

それができないと余計に歪みを生み出していく。流行りのSDGsも儲かるからやっているだけであって、地球環境のことを考えるとか言うならさっさとその企業が滅びたり、人間が減ったほうがいいだろう(笑)


永遠に続くものなんてない。ありもしない持続可能性のために「今」を犠牲にする必要もない。(だからといって積極的に地球環境破壊しろってことではない。胡散臭いものに引っかかるのやめようぜってことね。世の中は色んな理由をつけて「今」を犠牲にさせようとしているので注意が必要)


つまりは、循環を意識して生きるほうが僕は幸せに生きられるな~。というお話でした。

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