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個の尊重と孤立の関係性

こんにちは天照のSOMAです。
本日はタイトルの通りニュースでもよく取り上げられ最近何かと話題の個の尊重について書いていきたいと思います。

コラムともエッセイとも違うポエムに近いようなものだと思って流し読みして頂ければ幸いです。

昭和・平成前期の価値観

まず初めに個人を尊重する前は一体なにを尊重していたのかについてから考察していきます。

これは様々な本や文献でも書かれていますが、昭和、平成初期の価値観では人は役割が最も尊重されていました。

例えば大企業の役員、社員である事や、有名国公立に通っている、身近な所で言えば町内会の会長だとか常に肩書きで人は評価されていました。

僕が病院で接していた高齢者の方々も会話の中であの人は〇〇の元役員、息子さんが〇〇大学卒らしいなど、肩書を軸に評価していました。

また家庭内では良き夫、良き妻のロールモデルが存在し、それぞれに違った役割が世間からも、また親族や家族からも求められていました。

この役割を重要視する方法では各々の性格であったり、趣味、嗜好、夢が蔑ろにされており、あくまで決まった道をどれだけ正確に走れるのかが一つの評価指標になっていました。

価値観の変革

ではなぜ前時代から現代の価値観へと変化していったのかを次は考察していきます。

前自体から大きく変わったものとして、情報革命です。

当たり前すぎて実感がない人も多いと思いますがインターネット、スマートフォンの普及で人々は爆発的に情報量が増えていきました。

SNSが2008年のTwitterを皮切りに様々なコミニュケーションツールが誕生し日々情報を受け取り続けています。

僕はこのSNSの普及こそが新たな価値観へと変化していった大きな要因であると考えています。

以前はメディアの主役といえばTVでした。
それは日本だけでなく海外でも同様です。

そのため、TVで働く男・支える女のような番組が多く放送された事で人々は統一された成功のイメージが植え付けられていったと思います

実際に昭和のテレビ番組を調べていると、深夜まで仕事するサラリーマンのドキュメンタリーや大企業の恋愛ドラマなど多くの番組が見つかりました。

それは決して悪い事ではなく、視聴者もその像を求めており、メディア側も視聴率が取れると確信して制作していたと思います。

エナジードリンクのCM

しかし、SNSの対等により人々は知人以外の意見を知ることが出来るようになりました。

ここから個の尊重への歩みが始まったと考えられます。

以前から芸術家やアーティスト、スポーツ選手、俳優、女優などは個人としてのキャラクターを使って仕事をしていました。

あくまでそれはTVや雑誌の中に留まっていましたが、SNSではより身近に感じる事が出来ました。

他人とは違う自分の考え方や、世の中へのアンチテーゼなど様々な疑問、主張を行い他者との差別化を図っていきました。

現在では匿名や実名に関わらず個人規模でもありとあらゆる所で自分らしさの発信が続けられています。

働く女、家事をする夫、ゲームする老人、化粧をする男、働かず稼ぐ方法、楽して〇〇万、主婦でも出来る副業など自分らしさを主軸にここ数年で同じ様な何十回も見たであろう投稿でSNS中が溢れています。

また、自身の主張をする方法として、現在問題視されている、誹謗中傷や棘のある発言をTVに放ってみたり、上司に一泡吹かせたり、夫・嫁を辱めたり、迷惑行為を撮影したり、ルサンチマンもあいまった、様々な方法で自分らしさをアピールするようになりました。

ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情[1]。そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」のこと

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ルサンチマン

この様な歴史から推察すると、あくまで現代の価値観は昔の価値観を否定する事で成り立っている場合も多いのではないかと思います。

また批判的な物の方が所謂インプレッションが多く目に触れる機会も増加しています。

それは思春期に親が鬱陶しく思えたり、親戚の集まりに行きたく無くなったりするような行動に近いと考えることもできると思います。

心理学的な観点からは反抗期とは自身の成長に心が落ち着いていない場合や、他者に疑問を持つ事や攻撃・批判をする事で自身のアイデンティティーを確立する時期と言われています。

アイデンティティー即ち自己同一性を獲得する手段として、様々な方法で現代人は主張を繰り返しているだけに過ぎないと言うことです。

アイデンティティーとは
自己がつねに一貫した存在であるという内的な体験を自己同一性、アイデンティティーという。 エリク・H・エリクソンが規定した自己同一性の定義には、自分による主観的な自己という意味だけではなく、身分証明書にたとえられるような社会や他者が承認する自己、すなわち客観的な現実性を持つ自己も含まれる。

結果的には役割という形で与えられていたアイデンティティーを自らの文化で崩壊させながらも新たなアイデンティティーを確立するために毎日毎日情報発信したりしている訳です。

この様な不完全さが意識的、本質的には無意識のうちに現代社会に大きく広まっていると僕は考えます。

エリクソンの発達段階

個人の尊重と孤立

ここまで書いておいて今更ですが、僕は個人を尊重すべきであると考えているという立場は明確にしておきます。

他人から押し付けられた役割を全うする義理などないでしょうし、自分の選んだ道を自分の歩き方で進んでいくのがより幸福な道であると僕は考えています。

ただ、自己選択には苦痛が伴うという事実も我々は受け入れなくてはいけないと思っています。

自我消耗という問題点

人間は1日に決断出来る限界が個人差はありますが決まっています。

有名な話だとAppleのスティーブ・ジョブズはこの決断力を使わないために、同じ服を着たり、同じ食べ物を食べたりしていました。

10年以上同じ服を着るジョブズ

現在ではルーティーンといった形で同じことを繰り返す事で脳を無駄に消費しない生活様式が紹介されることも多いです。

役割に依存する事が出来ないということや役割が批判される中では、何をするにしても、自分らしさや脱ステレオタイプ的判断を迫られています。

その結果多くの人が自我消耗と呼ばれる状態に陥り、発信を辞めひたすらスマホで他人のライフスタイルや発言、時には思想をインプットしています。

個人:役割の良好な関係

真に我々現代人が目指すべきは自身としても望ましく、役割としても周囲から尊重される様な状態を目標にするのが良いと僕は考えます。

理想論ですが、どちらも生きてく上、アイデンティティー確立するためには必要な因子です。

どちらかを極端に切り捨てるような考え方では長期的にはいずれ不幸になってしまいます。

個人100:役割:0の状態では自己主張ばかりが強く、友人、家族、親、上司、部下、どの立場でも上手く生活する事は出来ません。

それを僕は孤立であると思っています。

別に孤立しててもいいでしょと言う沢山のイイねを貰うインフルエンサーは孤立していません。

真に孤立しているのはそれを信じている人です。

人間の脳は人とコミニュケーションを取り、喜怒哀楽を経験する事で成長しています。

孤立という状態は社会保障や食料問題が解決された現代でしか見られない状態です。原始人なら1ヶ月持ちません。

現代社会が誕生したのは長い人類史で考えると定規で数センチ程度の小さい期間です。

20万年も前から積み上げてきた我々の脳がそのような新たな現象に瞬間的に順応することなどあり得ません。

そして、先程例に挙げた様な芸術家やアーティストなどの芸能人は孤立していません、孤高の存在であるだけです。

彼らもアーティストとしての自分といった確かな信念や役割を持っています。そして良き理解者やファン、スタッフなど多くの人との関わりの中で信念を突き詰めています。

ここを一部分だけ切り取り、我々の様な一般人が同一化して間に受けてはいけないと思います。

何万人に一人の輝かしい栄光をSNSが出現した事で身近に感じ、上澄だけをコピーしても実際の自分とはまた違うただの劣化版になるだけです。

友達なんかいらない
親なんか他人
会社なんかやめた方がいい
上司は無能
日本はオワコン
政治は腐ってる
学歴意味ない
読者は価値がない
テレビは嘘ばっかり
インスタは盛ってる
YouTuberは面白くない

この中に現代人のアイデンティティーを埋めるものは何一つ入っていません。

ただひたすらに目立つものや前時代を否定しているだけで、どの箇所にも貴方らしさや個を象徴するものは見られません。

否定する事が唯一の自己表現になってしまってちるので、ただ考える事に疲労して駄々を捏ねてるようにしか見えません。

それはより孤立を強める行為です。

今こそ役割を獲得するべきである

これもまた【べき】なんて言葉を使ってしまうと押し付けがましくて、個人を尊重出来てない〜うんぬんのポイントになってしまいますが、今はやりの提言として読んで貰えると助かります。

役割を持つことは自尊心を満たすためにとても重要な働きを持っています。

それは親になり真面目に働くようになった人や社会に出て立派になったと言われてる人なんて何十万人もいる事からも立証出来ます。

帰無仮説を棄却するような論法で表現すると

Q.親になっても働かず暴力を振るう不真面目な人だっているが?

A.親という役割を放棄しているため役割が成長や社会性獲得に必要という仮説の否定にはならない

といった様になるでしょうか、これでミニひろゆきさん達も納得してくれると思います。

また僕は獲得するべきであると表現しているように誰かに与えられるものではなく自分から得るものであると考えています。

それは前時代の嫌々結婚し家事を強制される生活ではなく、自らが望んだ役割を持つ事が重要だということです。

そしてそれに伴う苦痛や洗礼もしっかりと浴びるべきです。自己選択による疲労や思わぬ落とし穴も乗り越えられる物として、しっかりと受け切る方がいいと思います。

また悩みながらも我が道を進むということ自体が生きるという誰もが答えを見いだせない行動になると思います。

そうする事でこそ、個人としての意思、そして役割がバランスよく持てる様になり、結果としてアイデンティティーが確立されると思います。

例として結婚を挙げましたが、それは仕事でも趣味でも、ボランティアでも友人関係でも家族関係でもなんでも良いと思います。

誰が誰を好きになっても推していてもいいです彼氏という役割や彼女という役割を欲していてもいいです。

そして一点、役割という物は他者から認識されて初めて成り立つものなので、他者の役割を認めるという所に関してはもっと寛容になっていければいいと思います。

そしてお互いの役割、個人を尊重し合えれば少しは明るい未来になるかと思います。

僕は父という役割を持ってして、保育園へ息子を迎えに行ってきます。

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