この文章は誰にも読まれない
まず、あなたにお伝えしたいことは「この文章は長いだけで意味はない」ということだ。
したがって、「時間がない人」「時間を有効活用したい人」「隙間時間を学びに生かしたい人」は読むべきではない。すぐに別のページに飛び「意味のある素晴らしい文章」と出会うべきだ。そんなあなたを僕は、応援します。
もし、いや、今とんでも無くやることがないのだと、ただただスマホやパソコンを開いていたいのだと、何かをしているフリがしたいのだと、そんなあなたにはこの文章は少しだけお役に立てるだろう。ぜひお付き合い願おう。
最近読んだ、文章術の本にこんな絶望的な一文が書いてあった。
「あなたの文は誰にも読まれない」
「なるほど」
それが本当であれば、べつに「空メール」ならぬ「空note」をアップしてもいいんじゃないか?と思ったが、いや、それは指が震え「誤タッチ」でこのページを訪れてしまった「あなた」に対して、「あまりにも失礼ではないか?」
「おい、お前、さすがにそれは、人として良くないんではないか?」そう「もう一人の僕」から叱られたので、なんらかの「文字」は入力しておこう。
ん?ちょっと待てよ?
仮に誰も読まないのであれば、意味なんて考えず「なんでも書いて良いんではないか?」
そう思った瞬間、「もう一人の僕」がこう尋ねた。
「ほう、なんか書きたいことがあるのか?」
「あるか、ないか」と聞かれれば、「ある」
ただ、「読み手にとって意味があるか」と聞かれれば、「お口にチャック」である。
不意な問いを受け、なんだか文章を書きたくなってきた僕は、もう一人の僕を薬で眠らせ、この意味のない文章を書いてしまっている。
さて、「一人になった」ところで、本題に入るが、僕には今年で92歳になる祖父がいる。
祖父はもともと(3年前店を閉めた)代々続く「蒲鉾屋」を営んでいた。
朝早くから、遅くまで働き、僕たち家族を養ってくれた。
それだけでなく、その蒲鉾(かまぼこ)店がある「ビルのオーナー」でもある。
昔は「蒲鉾」は日本人の日常食であったり、結婚式などの祝事には、必ず「引出物」として渡された代物で、当時はかなり儲かっていたようだ。僕の曽祖父(ひいおじいさん)が「ビルを買い」、僕が生まれると同時に立派な一軒家をローンなしで建ててくれた。
また、祖父は長い間、投資信託をやる立派な投資家で、92歳になった現在でも、一定の収入がある「現役」である。
読書家でもあり、祖父の部屋には小説やら、難しそうな本やら、沢山の本が並んでいる。尊敬すべき立派な人物である。
ただ、そんな祖父だが、最近少し「ん?」と思う瞬間がよくある。
天気予報を見ながら「旧暦」や「月の引力」の話を何度も繰り返したり、(この二つは祖父にとって「パワーワード」である)、毎日1パックを3度に分けて食べている納豆の1/3を食べたことを忘れて、「ずれた」(ルーティーンが)と言ったり。
また、最近新たに起きている例を出すと、
今週末「僕の妹の結婚式(祝!)」があるのだが、祖父は高齢ということや、「コロナ感染」の心配もあるので、お留守番になった。
家に取り残すのも心配なので、「ショートステイ」で老人介護施設に滞在する予定であるのだが、
何度も「あら、、そういえばいつから施設に行くんやったかいな(博多弁)。」
と、1日に何度も、すでに4日に渡って尋ね続けている。
ああ、これは「あれ」なのだな。いわゆる「ボケ」というものなのだな。
僕はそう思っているのだが、そうでもないシーンも沢山ある。
僕の家族がトイレやお風呂の電気や、給湯器の消し忘れがあるとすぐさま、「あら、、誰か使いよるとかいな。」と指摘してくる。
ビル関係のお金の振り込みや、家賃の請求に関することは確実に覚えていて、
父や母に指示を出している。
もちろん多少ボケても僕にとって、素晴らしい祖父であることに違いはない。
むしろ、少しボケているくらいが人間味があって可愛らしいものだ。
これからも長生きで、心穏やかに残りの人生を楽しんでほしい。
そう心から願うばかりである。
そんな祖父が僕にはいる。
ふぅ。(達成感)
「何が、ふぅ。だ!」
まずい。「もう一人の僕」が目を覚ましてしまった。
「お前、これでいいのか?」「こんなもので他人のかけがえのない命の時間を奪っても良いのか?」(む、、)「人として、これは流石に良くないんじゃないか?」(むむむ、、、!)「悪いことをしたのだから、謝罪すべきだ。」
「はい」
「ごめんなさい。」(ん?、それだけか?)
「このたびは、僕のただ書きたいという、自己中心的な欲求により、あなたの大切でかけがえのない命の時間を奪ってしまいましたことを、心より、謹んでお詫び申し上げます。(陳謝)」
「わかったら、さっさと人様のお役にたて」
「はい」
〜完〜
ふぅ。(2度目)
いけない。約2000文字も「意味のない」文章を書いてしまった。
いや、別に、誰かを傷つけているわけでもないから、良いか悪いかで言えば、やや「良い」寄りの「微妙」なんじゃないかと、
いや、むしろ「文章がかけない」とか「何を書けば良いか分からない」という人に対して、「こんな文を書いている奴もいる、これに比べれば俺は幾分マシなんでは?」と勇気を与えている点で、むしろ「微妙」寄りの「良い」、いや、おまけで「良い」と言ってしまっても良いんではないかと、思ってしまっています。(無理やり)
「魔がさして」ここまでたどり着いてしまったあなたに
あーあ、時間を無駄に使ってしまったと「罪悪感」を覚える必要はありません。
あなたは人よりも「知的好奇心が強い人物」と言えます。
人は知的好奇心があるからこそ、学び、成長できるのです。
「わたしは、知的好奇心のある素晴らしい人間だ」そう自分を褒めてあげてください。
意味のないことは書いてはいけない。
そんなことは誰が決めたんでしょうか?
いや、むしろ街を歩けば「あなたにとって意味のない文章」で溢れているのではないでしょうか?
僕にとっては「美容エステ」の広告も、「探偵事務所の電話番号」や「ペットショップ新規オープン」のお知らせは、全て「無意味」です。
意味があるかどうかは「あなたが決めるのではなく、読み手が決めるのです。」
ですから「それはあなたの課題」ではない。そう思います。
どんな文が人の役に立つかわかりません。
もちろん、「役に立ちやすい文章」はあると思いますし、そんな文章を考え、書いてゆくことはとても意味のあることです。
ただ、「全ての人に、常に意味のある文章なんて無い」と思います。
だって、仮に日本人全員にとって意味のある文章でも、「アメリカ人」に渡せば、たちまち「無意味な文字の塊」になるわけですから。
気軽にどんどん書きたいことを書いていきましょう。(それが人を傷つけないか注意しながら)
かの中国古典の大家「老子」はこう言いました。
この世界にはもともと、善悪も優劣もない。
この世界においては何事も、ただ、そこにある。
そこには、美醜も善悪もない。あなたが、美しいものを「美しい」と思うことで、「醜い」が生じる。
あなたが、善いものを「善い」と思い込むことで「善くない」が生じる。
有を「有」とするから、無が「無」となるのである。
それらは、あなた自身が、作り出しているに過ぎない。
少し元の文と変えていますが、
つまり、「意味がある文章」があるから「意味のない文章」が生まれるのです。
しかしそれは、人それぞれの「思い込み」によって変わり、人によって「意味がある文章」は変わり、また、「どういう意味があるか」も変わるということです。しかも、それは思い込みで、実はただ目の前に「文章があるだけ」なのです。
少し哲学的になりましたが、
自分は「意味がない」と思い込んでいる文章でも、もしかすると人によっては「意外な意味を持つ」こともあるのです。
もっと気楽に生きていいと思うんです。
僕たち人間はよく物事に「意味」を欲しがります。
例えば、「自分の人生」、「起こった出来事(特に不幸なもの)」 似たところでは「自分のやりたいこと」
これらが「きっとある」と信じて、「意味」や「それ自体」を探したりします。
そして、迷うのです。
「自分はなんで生まれてきたのだろう。どんな意味があるのだろう」
「どうして、自分にこんな出来事が起きたのだろう」
「自分のやりたいことってなんだろう」
そうしばしば、迷い、悩み、苦しみ、時には、自分の価値を疑ってしまいます。
もう一度言います。
もっと気楽に生きていいんではないでしょうか。べつに「ない」と「価値がない」なんてことないと思います。
勝手に思い込んでいるんです。
「成功しないと価値がない」
「お金持ちにならないと価値がない」
「仕事ができないと価値がない」
「こんなことが起こるなんてなんて不幸なんだ」
「どうして自分にばかりこんなことが起きるんだ」
「やりたいことがない自分は価値がない」
そんなふうに。
もう一度言います。
もっと気楽に生きて良いと思うんです。
気楽に「意味なんてない」「そんなものない」と思って生きてみても良いと思います。
力を抜いて、心のままに過ごしてみれば、意外と見つかることもあります。
必死に「ある!きっとどこかにある!」と走り回るから疲れるのです。
疲れて、ないと思い込んで、「諦めて」しまうんです。
他人の「ある」を自分の「ある」にしてしまってはいけません。
周りの「成功者」をみて、それを「ある」としてしまったら、自分は「ない」と感じてしまう。
自分のやりたいことをして生き生きと生きている(職人やyoutuberなど)を見て、自分は「やりたいことがない」と感じてしまう。やりたいことがないのなら、「何もしなければ良い」と思います。
勉強することも、遊ぶことも、仕事を探すことも、何もかも。
心に余分なものが何もなくなった時、自然と自分なりの答えが姿を表します。
そう、僕が仕事を辞め、何もしないで過ごした結果、文章を書き出したように。
そして、「意味のない文章」を書いているうちに、こんな「思い」をあなたに伝えてみたくなったように。
他人や思い込みに執着せず、心軽やかに生きてまいりましょう。
それではまた。
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