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海のはじまり 最終話

食べることは、生きること。
生きて、次の命を育むために、まずは自分が健康でいることの大切さ。
まずはこれが基本であって、基本がなければ応用もできない。
はじまりは曖昧で、終わりはない、生きる者の「使命」とも言える。

最終話は、脚本家・生方美久氏のメッセージが
より色濃く反映された「応援」の回であったと思う。
全ての「親」へ向けて、
若い子育て世代へ向けて、
これから一緒に人生を歩もうとしているカップルへ、
そして若い世代を見守る「外野」の人たちや年長者世代へ向けて、
それぞれの「こうあってほしい」または「こういうスタンスもあるよ」という姿が描かれている。

水季、海、夏の3人で「普通に」暮らしている、夢。
目を覚ます夏。
隣に海はいない。

夏がいないと気づき、しょぼくれる海。
「自分で帰らないって言ったんでしょ」と朱音に嗜められると、朝ごはんいらないと言う。
朱音はおにぎりを渡す。
かつて水季にもそうしたように。
「元気がない時は、お行儀悪くてもいい」
「元気がなくても食べなきゃダメ、生きていかなきゃいけないんだから」

夏の母はロールキャベツを作って持ってくる。
夏が小さい頃好きだったロールキャベツ。
強引に何度も「食べな」と勧める。
多くの人が母親から言われたであろう「ちゃんと食べなさい」は、
生きていくための、生きていてほしいと願う「愛情」
であった。

海は弥生に電話する。
水季は夏の話をたくさんしてくれた。
夏がいないときから夏のことが好きだった。
だから、夏と水季の話をたくさんしたかった、と告げる。

弥生はコロッケを作りながら夏に電話をして、海からの伝言を伝える。

弥生は堕胎したとき、その経験を、子供の存在を忘れようとしたが、
余計に寂しくなったという。
だから、「いた」ことは忘れないようにした。
いなくなっても、いたことは変わらないのだから。

夏が海を迎えに行く。
いなくなって寂しいのは、いたって知ってるから寂しいんだ、と。

夏は水季がいなくなって、寂しいと言う。
海の周りの大人たちは、水季がいなくなって寂しいが、
それを表には出さなかった。
海の手前、そうすることは憚られた。
海はきっとそういう相手がほしかったのだ。
「くま」にとっての「やまねこ」がそうであったように。

若い子育て世代に向けての、こうあってほしいというスタンスは、
とにかく「周りに甘えてもいい」ということだろう。

夏は海を連れて帰る。
日曜日、急に仕事になった夏。
1人で待つという海は、少し心細いことを隠せない。
「いや、甘えよう」と周囲に頼ることを選択する。
津野が来る。
弥生が来る。
大和が来る。
海のためなら、多くの大人が、集まり、世話を焼く。

今、「頑張って」暮らしている若い世代のママやパパにとって、
周りを頼ることは決してハードルが低いわけではないだろう。
ワンオペやシングルなら、尚更だ。
自分が頑張らなきゃ、私がなんとかしなくちゃ。
そうやって本来2人分の責任を1人で背負いこみ、疲弊している
それでも、周りに頼りにくい状況があったとしても、
それでも頼ることをためらわないでほしい、
というメッセージのようにも見える。
そして、周りにいる大人たちは、
いつでもサポートするための「回路」を開いておくことも大切だろう。
無遠慮に構うのではなく、押し付けるのではなく、
ただ回路を開くだけでいい。
サポートをすることを面倒なことと捉えるか、
楽しいと捉えるかは、自分次第である。

弥生と夏、付き合いたての頃。
弥生はつい寝てしまう。
夏は自分と一緒にいても楽しくなかっただろうと気にしてしまう。
だが弥生は、自分の楽しいは自分で決めます、
寝てしまうくらいリラックスしたのは私の楽しいなのでお構いなく、と言う。
自分のことは自分で決めること。
相手の気持ちを勝手に決めてしまわないこと。

昨今のSNSでの誹謗中傷など、
くだらないことで心が傷ついてしまう人が多くいる中、
こうした、ごく当たり前のことを当たり前だと示すこと、
それもドラマの中でさりげなく語ることに、とても意味があると私は思う。

ドラマでは「外野」と表現されていた人たち、
子を持たない選択をした人たちに向けては、
「外野」も必要だということが描かれた。
野球でも内野だけでは試合にならない。
内野が取りこぼしたボールは外野がカバーすることで上手くいく。
外野がいなければ、試合は成り立たないのだ。


人一倍「外野」の自覚がある津野は一足先に帰る。
帰り際、海が追いかけてきて「ママは津野くんの事、好きだったよ」と言う。
津野は海をギューっと抱きしめる。
津野は思い出す。
海がもっと小さかった頃、抱っこして水季と3人で歩きながら帰ったことを。
なぜ、1人で産むことにしたのかと、津野が聞く。
もし、海を水季が1人で産まなければ、津野と出会うことはなかった、
という水季の気持ちは、きっと津野にも届いているし、
海も寝たふりをしながら感じていたのだろう。

水季から夏への手紙が読まれる。
海を夏に託す言葉が綴られている。
「親から子どもへのいちばんの愛情って、選択肢をあげることだと思う」
だからこそ、水季は自身が病で先が無いことを知った時、
選択肢を残すために、夏の存在を海に知らせていたのだろう。
「海には自分の足で、自分の選んだ道を進んでほしい」
「夏くんには大きくなっていく海の足跡を後ろから見守ってほしいです」

いなくなっても、いたということは消えずに残ることを
大切にしてきた水季は「思い出を捨てないでね」
夏と別れてからの夏が過ごしてきた時間も大切にしている。

最後に、
「人は2人の人から生まれてきます。1人で生きてくなんて無理なんだよ」
と言う。
人間という言葉は、人の間と書く。
父と母との間に生まれ、人間として生きていく。
それはずっと変わらず続いてきたし、これからもずっと続いていく。

夏自身も誰かと生きていくことで幸せになってほしいと願う。
頑張っている「親」は頑張ることが当然と思っているし、
周りも「親なんだからなんとかしろよ」と圧をかけてくる。
頑張る渦中にいる親自身は、自分が無理をしていても気づけないでいる。
そんな頑張りすぎている「親」たちへ、
1人で無理をしないで、周りを頼っていいんだと、
そして自分自身も幸せになる権利があり、
幸せを求めてもいいんだよと

エールを送っているように思えるのである。


朱音は水季が亡くなるまで姿を表さなかった夏に対して、
非常に不器用なコミュニケーションをとってきたが、
ここにきてようやく「ごめんなさいね」と謝ることができた。
最後に言ってもいいと思えた言葉は
「娘が自分より先に死ぬことを想像してみて」
だった。
関係ができてきて、水季や海を大切にしている人間に対してでないと、
言っても伝わらない言葉であった。
若い子育て世代を見守る立場の年長者の、
こうあってほしいと思えるスタンスを描いていると感じた。

海岸を歩く夏と海。
第一話の冒頭で水季と海が海辺を歩くシーンと重なる。
右から左へと進む。
第一話では過去へ向かう進行方向であったが、
最終話では、進行方向は同じまま、水季と夏が入れ替わり、
これからも変わらず海を見守り続ける
ことを示していた。

いのちのはじまりはあいまいで、おわりはない、
終わらない営みが続く
のだ。


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