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教育とは“人格教育”でもある

元々日本の”教育”というものは、苦手なことを少なくし、
人格を磨くことを美点としていました。

これは日本が中国から文化や思想を取り入れていく中で根付いてきたものです。

私達日本人の根っこには人格や行動を磨くといった感性があるのです。

だから日本の学校には”道徳の時間”があるのです。

海外では日本ほど道徳的教育に取り組んでいません。
例えば、ヨーロッパ圏の国では、学校はあくまで知識や学問を教える場。
しつけや人格教育は家庭の責任だと割り切って考えています。

ですが、日本や韓国・中国は、学校で道徳や人格を教育することを重んじています。
日本の子ども達は家庭外の、学校や幼稚園・保育園の場で勉強や経験だけでなく、人格を磨くことと、生き方も実は学んでいるのです。

外の世界でそういった知識的な学びと道徳、生活する中で必要なことを学びますが、その土台となるのは家庭です。

外の世界に出る前に子ども達はまずは家庭の中で物事を知り、生活で必要なことと道徳的なことを学び、経験を積んでいきます。
その土台があった上で、保育園や幼稚園に行き、小学校、中学校、高校、大学へと進んだ先でさらなる学びと経験を得て、生きる力や道徳心が養われていくのです。

ですが、現代社会はその家庭で築かれる土台が不安定になってきているのを実感します。

十分に家で学べていないまま外の世界に出てしまう子が増えました。

幼稚園、保育園でよく聞くのが、
『園でトイレトレーニングしてくれる』
『お箸の持ち方、使い方は園で教わってくる』など
そう思って、家では練習せず、園の先生達に任せてしまう保護者が増えているという話です。

『園で練習してくるから、できるようになって帰ってくるはず』
『先生が教えてくれるもの』
と、思っている保護者が増えているのです。

私が保護者の方と子育てについて話していても
「お箸の持ち方は練習していますか?」
『してないです。まだ園で習ってきてないと思います」
と、あっさり言ってしまわれる方が多いのです。

そういった身辺自立や生活に必要なことは、園から学びがスタートするものではなく、家庭からなのです。
園の先生だけでなく、家族がまずは教え、家族が毎日取り組む中で一緒に協力してくれる存在・場として、保育園・幼稚園・学校があるのです。

外で教わってくるから任せれば良い、ということではないのです。

ちょっとした身の回りのことのしつけ、身辺自立をうながすしつけ、
そういったものは人任せにするものではありません。

まずは家族が、頭を凝らしながら、どう教えれば身に付くかな、できるようになるかなと考え実践してみなければなりません。
それでも難しく、うまくいかない・子どもに合った方法が分からない時に外の世界の人達に教えてもらい、ヒントを得て、また実践するのです。

そういったしつけを通して、頑張る家族の姿を子どもは見ながら、教えられたこと・経験したことを我が身に吸収し、自分の力としていくのです。

そのしつけの合間に見られる家族の心の在り方、考え方、ものの捉え方、そういったものも全て受け取り、子どもの人格が磨かれていきます。
大人が見せる振る舞い一つで子どもの心の在り方、認知、思考、感受性、常識、自分や他者をどう捉えるか、思いやりの度合い等、多くのことが良いようにも悪いようにもなっていきます。

子どもが最初に関わる人間、最初に手本とする人間は必ず親です。
親の在り方次第で子どもの振る舞いも人格も、大いに変わります。
人間とはこういうものなのだ、こう振舞えばいいのだと、親を中心とした家族を基準にして、子どもは自分の世界観をつくり始めます。

家族が物事に対して手を抜くことが多ければ、子どもも手を抜きやすい子になります。
家族が慎重に物事を確認するタイプであれば、子どもも慎重なタイプになります。
家族が人の悪口ばかり言っていれば、子どももすぐ人の悪口を言って、人の粗探しが上手になってしまいます。
家族が”ありがとう””ごめんなさい”をきちんと言わない人であれば、子どもも言わない人になります。

蛙の子は蛙、まさしくそれです。

我が子に、人に迷惑をかけることなく、すべきことはきちんとでき、自分の力で何でもこなせるようになってほしい…
そう願う親が大半であるにもかかわらず、
願うだけで、しつけの面で今一歩やりきれていない人が増えたのが現代社会です。

理想の子ども像、理想の将来像はあるのに、そこに向かうために教えるべきことがそもそも何であるか、そこが分かっていない人が多くなりました。
分かっていたとしても教え方が分からず、外の世界にその点を委ねてしまうようになったのです。

難しく考える必要はないのです。
何でもまずは自分達で試しながら、トイレトレーニングでも、スプーンやフォーク・お箸の持ち方でも、身に付けてほしいことを練習させれば良いのです。
すぐに人を当てにしてはいけません。

まだ小さいからと抱っこばかりせず、自分で歩かせてみるとか
いけないことはいけないと、言葉がまだ通じない子であっても、親の表情をしっかり見せて、こちらの様子や気持ち・雰囲気を伝えていくとか
何でも良いから子どもにこちらから働きかけてみましょう。
言葉以外のことでも幼い子どもに伝えられること、伝わるものは多くあります。

一生懸命な気持ちは必ず子どもに伝わっていきます。
そのストレートな一生懸命さを受け取ることで、
子どもの方も、一生懸命この人に応えようと頑張ってくれるようになるのです。

人任せにしてしまうと、子どもも人任せにして、自分で自分のことをしなくなります。

自分で靴を履くとか、ちょっとしたことだけでもです。

「自分で靴履いてね」
(できないよ。だってまだ靴の履き方習ってないもん。
 大人が履かせてくれるんでしょ?)
と、普段から教えたり、チャレンジさせたりしていないと、子どもの無意識ではこのような思いが生じてくるのです。

『できないです。まだ園で習ってないので。先生が教えてくれるんでしょ?』と言う大人と一緒ですね。

人格を磨く、経験を磨くというのは、自分で考え行動していくことが重要です。
それが重要だということを大人が身をもって示し、子どもに伝えていくことから始まるのです。

論語にはそういった身の立て方、我が身の律し方、生き方の多くが語られており、それらを学び、取り入れてきた中で日本という国が成り立っていきました。
ですが、今や私達の根っこにある、日本という国に成る上で得てきた中国古来からの教え、論語や古典等で語り継がれてきた人としての生き方・在り方・道徳を知ろう、学ぼうとする人は残念ながら乏しい時代となりました。

古典等から語り継がれてきた、現代人が今に至るまでの様々な生きるための土台を知らず、今のことばかりに注目が向いてしまった時代です。

『今が楽しければそれで良い』
『今を生きる』
なんてことをよく聞きますが、それはそれで良いとしても
過去の学びや経験、教わったことの大事さを忘れず今を生きているかどうか。
それによって生き方の充実度合いが変わってくると思います。

以前のことなんてどうでもいい、将来も別に考える気にならない、そんなことより今好きなことをして、楽しくはしゃげたら良いということでは、ただの行き当たりばったりですね。

子育てのことにかぎらず、自分自身のことも、
生きる術や豊かな人格とは何ぞや、どう身に付け、磨いていくべきか
そういったことを考えなければ、過去も現在も未来も、
得るものが乏しい人生となってしまいます。

オムツ一つのことでも、お箸の持ち方一つでも、ちょっと人に甘えて自分で教えていくことを後回しにすると、そのツケはどこかのタイミングで必ずやってきます。

『いつまで経ってもオムツが取れない』
『お箸や鉛筆の持ち方が下手で、食事や勉強で困っている』
『何をするにも不器用で、効率が悪いし、行動が遅い』
『言わないとしてくれないし、人に甘えてばかり』
こんな感じで子育ての苦労が生じてくるのです。

そうなった時にすぐに教えなおすなり、鍛えなおすなりして早々に改善できれば良いのですが、大体は上手くいきません。
子どもとの戦いになって、時には子どもに根負けして、知らず知らずのうちに子どもに尽くし過ぎてしまう…
そんな状態で子どもは育ち、大人になっても困った部分が残って人に迷惑をかける言動が目立ったり
勉強も仕事も本気で努力しようとせず、あまりお金が稼げない生活になったり…

これらは極端な例ですが、でも気を付けなければいろんな弊害が出てくるのです。

今をとりあえずの対処でやり過ごしてしまうと、その時は助かるかもしれませんが、数年後はもっと困ります。

我が子の2年後、3年後、5年後、10年後、それよりもっと先の将来の我が子や自分達を想像せよ。
苦労しているか、そうでないか。
苦労していると想像されるなら、早めに自分達に必要なことを迷いながらでも取り組んでいきましょう。
たとえそれが、オムツや箸の持ち方等、些細なことと思うようなことであってもです。

しつけ、という漢字は”身を美しく”するという意味合いがあります。
身を、振舞いを、美しく整え、律していくためには、
しつけというものはとても大事に行われていくべきものなのです。

日常生活に必要なスキル、人として生きる術、道徳的なこと、それらは家庭から学びが始まります。
その学びが早ければ早いほど、
家族で考えることが多ければ多いほど、
後々は絶対に成長し、自分の力で考え、工夫しながら頑張れる人間になっていきます。

教育とは何も勉強のことだけではありません。

生きるために必要なことを考え、自分だけでなく、他者や社会もひっくるめて役に立つことは何かを追求し、徳性豊かな人格を生涯磨き続けていくこと。
そのきっかけとヒントを示しつつ、いかにそれが難しく、それだけに価値が大きいということを先人が言葉と行動で伝えていくこと。
それもまた教育なのです。








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