ロッコとその兄弟たち(若者のすべて)
思い出したが、私はこの映画を見てミラノに行きたくなったんだった。あのRoccoがNadiaに別れを告げるあのDuomo。モノクロ映画であるおかげで、あの数多の塔の荘厳さが余計に際立っていて、また観光客は多いのにもかかわらず、なんとなく二人だけの世界に見せてくれるそんな効果もある気がする。しかしViscontiはなぜこの場所を選んだのだろう。あの二人が愛し合っているにもかかわらず、兄のために別れを告げる場所として。
BGMを聞いていると、あれなんかいつものヴィスコンティっぽくないなと思う人もいるだろう。あれどこか・・・フェリー二みたいじゃないか??そう思ったら、クレジットでニーノ・ロータの文字が!皆さんにはあのこれからの展開がゾクゾクするようなおしゃれなあの曲をBGMにこの文章を読んでいただきたい。
”Rocco e i suoi fratelli” (「ロッコと彼の兄弟たち」邦題:若者のすべて)はVisconti初期のレアリズモ映画の最後の作品ではないかと思う。設定は違えど「揺れる大地(La terra trema)」と通ずるところがある。(「揺れる大地」はある漁村を舞台に俳優を使わず現地の村民をそのまま使ってリアリズムを徹底させた映画。ドキュメンタリーのようでフィクションで、受けての捉え方はいろいろかもしれない)
※参考映画
ある一人の母親と四人の兄弟が南イタリアのルカニア地域の村から、ミラノへやってきた。一家の大黒柱の父が死んだので、ミラノで働く長男を頼ってやってきたのだ。しかし貧乏一家は早速泊まるところがない。市の退去者保護施設に住むことを狙って、家賃をわざと不払いにしアパートに住むことにする。長男 ヴィンチェンツォ、次男 シモーネ、三男 ロッコ、四男 チーロ、五男 ルーカは田舎育ちの朴訥とした、お母さん思いの男の子たち。シモーネ、ロッコを中心にみんなで家族を支えるために賢明に働くが、都会で生活することの厳しさや、汚さに触れ、だんだんと家族の形が複雑化、崩壊していく様子を描いている。
このようにイタリアの南北経済格差を描きつつ、ヴィスコンティの主題と言える家族崩壊が全面に登場するのがこの映画である。映画の最初は母親の目線で、息子たちはみんな良い子、あまりそれぞれの性格が特徴づけられずに話が展開していくが、その後一人ずつにフォーカスが当てられていく。シモーネは元々は善人として描かれるが、心も弱くだんだんと都会の汚さに触れ、女に溺れ、借金まみれになり犯罪に手を染めていく。この頽廃的描かれ方はまるで太宰治である(境遇は全然違えど)。一方ロッコも同じく故郷を愛する地味で朴訥とした優しい青年、シモーネと同じく賞金稼ぎのためにボクシングを始めるが優しすぎて、そもそも人を殴ることに罪悪感を感じ、気が進まない。また人に優しく、特に家族愛が強く、聖人のように人を許しすぎてしまう性格が、シモーネの悪事をエスカレートさせてしまい、結局彼自身の優しさが家族崩壊の引き金となってしまう。
ロッコがボクシングの試合の祝勝会を行っている際に、兄弟にこのように言うところがある。
「遠い先の話だと思うが、僕は故郷へ帰ろうと思うんだ・・・俺たちの国は、オリーブの国、月の恋しい国、虹の国さ。覚えているかい?左官の親方が家を建てる時、最初に通った人の影に向かって石を投げるんだ」
「どうして?」
「家の基礎を固めるための生贄さ」
冒頭にも書いたがロッコ(アラン・ドロン)が、ミラノのドゥオモで恋人に別れを告げるシーンがある。この時「ああ、ロッコは聖人なのではないか」と思った。隣人を愛し、どんどんと落ちぶれていく兄を許し、売春婦で兄の元恋人のナディアに足を洗わさせ・・・ヴィスコンティがそれを意識してこの場所を選んだのかどうかは定かでないが、(単純に彼はミラノ出身だったからこの場所が好きだったのかもしれない)このドゥオモのたくさんの尖塔にはそれぞれ聖人が立っている。(そして一番高い塔に黄金のマリアが光り輝いている)ロッコはまるでその尖塔の聖人の一人のようだ。どうしようもない兄のために愛する恋人ナディアと別れ、恋人に「兄を支えられるのは君だけだ」という。ここにこのセリフを文章で起こすと何とも使い果たされた珍クシャな言い方だと思ってしまうが、このシーンを見て貰えばわかる。なんて、辛くて、悲しく、人生の不条理に溢れた言葉だろう。
そして最後Nadiaはどう言う気持ちでシモーネに対して胸を広げたのだろう。覚悟があったのか、もうやるせなくどうでもいいような気持ちであったのだろうか。
ちなみにロッコ(アラン・ドロン)とこのシモーネ(レナート・サルヴァトーリ)は以前紹介した「高校教師」でも再共演している。
ちなみにヴィスコンティはデビュー作の「郵便配達は2度ベルを鳴らす」原題:”Ossessione"(「妄執」という意味。む、難しい!原作小説は同名”The Postman Always Rings Twice”)でネオレアリズモの先駆けとも評されるが、(ヴィスコンティ自ら主張したとも)彼の作品をネオレアリズモと言えるかどうかは意見が分かれるところである。ネオレアリズモの定義というのは曖昧なところも多いのだが、言葉の通り、よりリアリズムを追求しているところ(これは当時のハリウッド映画があまりに作りもので現実には不自然でありすぎたことに対するものでもある)、反ファシズム的映画で、より小さきもの(貧困層)の目線で撮られること、役者ではなく素人を使い、方言で話されていることなどが特徴である。しかしあくまで私の感覚だが、ヴィスコンティの映画は初期のものはリアリズムを追求しているといえども、上から見下ろすような、語り手がいるような作品が多いと思われる。ヴィスコンティ自身が、そこにはいるのである。
最近、寺山修司がこの映画に関して「神話的リアリズム」と評する文章を見つけた。神話的リアリズムとはどういうことか説明がなく、私にはよく理解できなかった。彼らの出身がギリシャに占領されていたルカニア地域であることが関係しているのだろうか。先祖の過ちを同じく繰り返すということであろうか。
今回またしてもNoteのスージー・ワイさんのMilanoのDuomoに関する記事を見て、この映画を思い出した。いつもインスピレーションをいただき感謝しています。
ヴィスコンティの「家族の肖像」も紹介しています>>
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