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*11 パンの歴史を遡る聖地巡礼の旅~ギリシャ、エジプト~

 ミュンヘンへ向かってカイロを発つ飛行機の中、断片的な旅の記憶が高速かつ鮮明に蘇った。自動的に都合良く編集の施された映像のその名場面の何れにおいても己の姿を認めた時、我が事でありながらにわかには信じ難い不思議な感じがして、そしてまた他人事の様に見えた御陰で新しい実感が首元まで満たしてきた。果たして私はこの旅、もとい冒険を経て、当初の目的通りギリシャとエジプトの古代歴史的一面を存分に味わう事が出来たと言えた。

ギリシャ・アテネ

*1

 ミュンヘン空港へ向かう電車の乗車券を前以て購入した際、日頃のドイツ鉄道の混沌ぶりに備えて一本早めたのがまさに功を奏した所から私の冒険は始まった。案の定電車は二十分程度も遅延した。
 
 空港へ着く迄の間、電車の中で英語の勉強に勤しもうとは頭で考えながら、なかなか思うように体は動かない。不安も希望も緊張も計画も一つの頭で処理しないといけなかったんだから、そこに英語の入り込む隙間は限られていた。そうは言っても不安の元凶の一端の英語だったんだからこれは私の生皮に他ならない。結局旅中、コミュニケーションと言う点において絶えず頭は大変であった。
 
 空港には随分早く着いた。事前にチェックインを済ませていた私だったから二時間もあったって、ユーロをエジプトポンドに換金するより他に愈々いよいよする事が無かった。まあでも搭乗口の前で堕落ゝゝだらだらしているのも興に欠けたから、りに空港内を散策した挙げ句、マクドナルドに入って腹を満たした。数年前に初めて一時帰国をしようと考えた際、このマクドナルドで食事をした後財布を置き忘れ、現金も飛行機も逃したという事件があって以降、この空港から発つ前にマクドナルドへ寄るのが殆ど習慣の様になっていた。己への注意喚起を為すのだろう。

 ミュンヘン空港からアテネへ向かうのは、元々然程不安がってもいなかった。昨年にパリへ行ったのとも変わるまい、一つ新しい体験をすると人間は同様の経験への恐れを無くせるらしい。それからギリシャに行く事も初めてであったがそれについても然程緊張を覚えなかった。全くと言って見栄を切る訳にもいかないが、ドイツと同じEU圏内であるという事が矢張り心強かった。この辺りにも昨年のパリ旅行、それから過去に南イタリアを訪れた経験が活きたと言えよう。   フライトは二時間程度であった。窓側に座っていたから飛行機の中から地中海も見下ろせた。「古代ギリシャの時代、地中海近辺では何だ蚊んだ」と散々想い巡らせた地中海の上空を己が越えてゆくのが愉快であった。 

 空港に着いてからの手続きも幸い大変簡易的であった。もっともこれは後のカイロ空港を知って尚強く思う訳であるが、果たして私は合法的に空港を抜けただろうかと記憶を思い出せないくらいすらすらと空港を出て地下鉄の駅まで向かった。ただ空港を抜けた途端に浴びた猛烈な地中海近辺らしい日光が大変心地良かった事は強く記憶している。
 

*2

 地下鉄に乗って一先ず宿泊先を目指した。一度の乗り換えを挟み、おおよそ一時間くらいでオモニアOmonoia駅に着いた。地上に出ると噴水が上がっていて、それが日光に良く映えていて、まさしく私が見たかった地中海近郊らしい景色だと感動したのも束の間、そこからホテルへ向かう路地が兎に角治安の悪そうな荒廃ぶりであった。間違っても一人旅をしようとする女性に勧められない一角の様に映ったが、私の胸は存外不思議と跳ねていて平気に歩いた。ここに私の好きなイタリアの路地の雰囲気も宿っていたと考えた時、地中海に面する土地同士、何か通ずるものがあるのだろうと推察出来た。
 
 
 時刻はもう夕方六時頃であったから、部屋に荷物を置くなり散歩がてら夕飯を食べに出掛けた。日が暮れると町は一層怪しげであった。
 
 ギリシャ料理の店だと聞いて入った店には求めていた料理が置いて無かった。已む無しに、それでも魚介を食べたかった私は焼いた烏賊いかをギリシャのビールで流し込んだ。付け合わせに出されたパンは黄色がかって、独特な柑橘の様な匂いがしたから、練り込まれていた粒も檸檬の種じゃないかと興味がったが、恐らくヒマワリの種で、然し風味は不断身近に感じるパンのそれとはまた違った。それはそうと食事中、テラス席に座った私の真正面で店員の女性が立って待機していて少々落ち着かなかった。

 私を席に案内してくれたのもこの女性であった。その際、メニューはQRコードで読み込むんだと言う説明に加えて何だか早口で英語を喋った。私はそれをまるで聞き取れず、二度三度と聞き返した後、やっぱり何でもないですと言うような事を気の毒そうな顔で言い残し店内に入って行った。そうして私が言われた通りスマートフォンにメニューを映し出すと「dishes of today」と言う文字を見付け、そこで私はさっきの彼女は本日のおすすめを私に伝えようとしていた事が理解出来た。私はそれですっきりしたが、彼女の方ではそれから料理やパンや飲み物を運んで来ても、いつまでも気の毒そうな顔を浮かべていた。それでも最後私が店を出る時になってわざわざ店内から出て来て「バイバイ」と言った彼女の表情は晴れやかであったから、外国人を相手に接客をするのは大変だなあと他人事の様に思いながら手を振って店を後にした。

*3

 翌日は朝からアクロポリスに行こうと決めていたが、その前にパン屋に入って朝食を取る事にした。店内に入ると左右、そして真ん中に長いショーケースがあった。向かって左手に食事パン、右手にはサンドイッチやサラダ、そして真ん中にはケーキが綺麗に並んでいた。それらの間を抜けた先にある階段を上って、私は店内を見下ろせるような位置の席に腰を下ろした。ふと周りに目を配るとチェス盤がテーブルになっている一角を見付け、ウィーンのカフェ文化の歴史で伺えた交流の場としてのカフェの立ち位置の名残を見た気がした。

 間もなくして店員が来た。私はギリシャ風ブリオッシュとコーヒーを頼んだ。ツレーキTsourekiと呼ばれるこのパンはイースター用のパンとされているらしかった。確かにもう直にイースターである。少しして穀粉用のスコップに乗せられてツレーキが運ばれてきた。視覚的満足度の高い提供方法である。コーヒーはポットに入って出て来た。結局三杯分も入っていたが、私は難なく飲み干した。

 パン屋を出て地下鉄に乗り三駅ほどでアクロポリAkropoli駅に着いた。名前にも分かるようにそこからアクロポリス迄は直ぐであった。少し歩いただけで、向こう彼方、崖の上に神殿らしい姿が聳えているのが見えた。私は南スロープに設けられた入口を通過し、愈々アクロポリスの敷地内に足を踏み入れた。既に古代の空気がそこには流れていた。

 歴史の残骸が転がる間を縫うように上へ上へと目指して登って行く。神秘的である。それと同時に確かに人為的でもあった。人為的である事が神秘的であるとした場合、神が人の形をしていたって矢張り不可思おかしくないのだと思った。ぐんぐん上へ登っていく。途中ゝゝとちゅうとちゅう写真を撮る為に足を止める。何処を撮っても同様に非現実的で写真を撮る事の価値を見失いそうにもなったが、これから現実に戻ってゆく私の為に写真を撮った。またぐんぐん登っていく。

プロピュライア

 到頭上まで来た私をプロピュライアと呼ばれる門が出迎えた。何という言葉で以て形容するのが相応しいか全くもって見当の付かない、それでいて絶えず湧き上がる感動が確かに腹の底から旋毛つむじを突いた。古代ギリシャを想像した時に真っ先に思い浮かぶエンタシ石柱スの隙間から、眼下に広がるアテネの街へ向かって古代の風が吹き抜けるようであった。そしてしんでもせいでもない私が風とは反対方向にエンタシスの間を抜けて行くと、大変な存在感を持つパルテノン神殿が目に飛び込んで来た。ああこれが、写真や映像でしか見る事の無いと思っていたパルテノン神殿か。

 万感の思いを胸に、様々な角度から神殿を見上げた。「神殿」と名の付く場所が現実世界のものとは思われなかったが、実際こうして目の前に見上げているのは現実の世界であると思うとなお神秘的であった。敷地は案外と広く、パルテノン神殿が最も有名であるだけで他にも神聖らしい建造物やその名残などがあった。丘の上であるから当然アテネの街を一望出来た。ある一角には凛々しく旗捲はためくギリシャ国旗もあった。結局売店があるでもカフェがあるでもないアクロポリスの聖域を一通り見た後も尚ぶらついた。何とも帰るのが惜しく思われて用も無くベンチに腰掛けたりもした。ただその場を離れ難いようなそんな感じを受けていた。

 ようやくしてアクロポリスを下る事にした私は、登って来た道とは反対側を下って行った。時間も午前十一時頃だったか、団体の観光客や遠足の学生などで、私が来た時よりも随分賑わっていた。随分下って来て、公園の様な駐車場の様な辺りへ出て来た時、突然左の方から「Hello」という声が聞こえた。振り向くと小学生くらいの少女が複数人で座ってこちらを見ていた。この内の一人が「Hallo」と言ったのだろう、私も彼女達に向かって「Hallo」と返すと彼女達はわっと盛り上がったから私も思わず笑った。何がそんなに可笑しかったのだろうと思いつつ、私も彼女達くらいの年齢の時に外国人に挨拶をして返事が返って来たら屹度きっと興奮して先生なり親なりに話していただろうと思うと腑に落ちた。
 
 
 アクロポリスを下ったすぐ傍にアレオパAreios pagosゴスという岩石の丘があった。どうも登れそうだったのでそこも登って行くと、アテネの街はおろかさっき迄居たアクロポリスを下から一望出来た。こうして見てもまた圧巻であった。今年は随所で瞬発力が必要になるだろうと言う見立ての元にカンフーシューズを履いているが、ここに革靴で登っていたら二度三度と転んでいただろうと思う程岩丘の表面はごつごつと、そしてつるつるとしていた。

 然しアクロポリス周りにはトイレが見当たらなかった。愈々私もトイレを目指さねばと岩丘を降りて街の方へと向かった。街の建物もドイツとは異なったがイタリアの雰囲気は矢張り感じられた。古代アゴラ、ロマーンアゴラといった史跡も街中にあった。これらの敷地内にはわざわざ入らなかったが、柵の外、路上からでもよく見えた。こうした史跡の他、古代の残骸が街中に点在しているアテネには、古代から地層の如く歴史文化が蓄積し、突出した古代の一部がそれらの地層に埋もれる事無く現代にいまだ顔を出し、絶えず古代の香りをこの街に残しているのだろう、という印象を受けた。そんな古代アゴラの前のレストランに入って少し休憩する事にした。

*4

 用を足すついでに、コーヒーでも飲もうかと考えながらメニューを開くと、スヴラSouvlakiキと言う文字が目に入った。こちらはギリシャの串焼きの肉料理だ、と私は事前にインターネットで見ていたから是非食べようと目星を付けていた。この時、天気も大変良く二十度近い気温であった。私は結局コーヒーを止め、代わりにスヴラキとビールを注文した。昼飯にはやや早かったが、アクロポリスを見上げ、古代アゴラを前に、地中海特有の爽やかな日光を浴びながらギリシャ料理を嗜む恰好のチャンスを逃すわけにいかなかった。

 大変美味しかった。これなら幾らでも食べられる、という表現を昨今良く耳にするが、これなら幾らでも食べられる様な気がした。そして地中海の日光も私にとっては殆ど調味料であった。イタリアのパスタにもこの調味料が富段ふんだんに使われていて美味しいのである。満足した私はその足で近くのモナスティラキMonastiraki square広場を目指した。

 歴史的雰囲気の漂う広場であった。ここで言う歴史的雰囲気とはなかなか説明に難しいが、白い一枚布を体に巻き付けた服装のギリシャ人が行き来している姿が思い浮かぶ様であった、と意解して頂きたい。建物の隙間から見える彼方には、正しく市街を統治するが如くアクロポリスが鎮座していた。
 
 
 旅行先で土産物屋に入るのが大変好きな私は、モナスティラキ広場から続く御土産通りを散策した。大抵置いている物は似通っているのであるが、どうしても隈なく見たくなってしまう性分である。
 
 ずうっと歩いて行って、一つ取り分け大きい店舗を見付けたからそこに入った。そこで土産を物色していると店員の爺さんが声を掛けて来た。一先ず見ているだけだ、と言うと「Where are you from?」と聞いて来たから「Japan」だと言うと急に日本語を喋り出したから驚いた。この驚きは単に嬉しがるだけの驚きでは無かった。どうも日本語を少し喋れる外国人には警戒心が働いてしまう私は何となく話を適当な方面に逸らそうと、「But I live in Germany now.」と続けた。すると間髪入れず「Das ist auch schön.それも良いですね」と今度はドイツ語で帰って来たのには愈々いよいよ嬉々と驚かざるを得なかった。
 
 それから私は彼とドイツ語で話した。御土産に関する質問もドイツ語で出来たのは全く助かった。そうしてこれ迄拙い英語で遣り繰りしていた鬱憤を晴らすが如く世間話もした。色々と勧めても来たがまあ要らない物は要らないと言って、大変納得のいく買い物が出来た。
 
 
 私がドイツ語に安堵したのを察知してか、私が店を出る時になって「もし何か困った事があればここへ来なさい」と安心感を与えてくれたのは、頼る頼らないに関わらず心強かった。

 店を後にした私はそのままキダシネオンKidathineon通りの方を通って一度ホテルに戻る事にした。その道すがら、再三執拗しつこい様であるが地中海特有の日光が燦々さんさんと降り注ぐ美しき真白な一角にカフェを見付けて、殆ど何を考えるいとまも無くテラス席の黒の椅子に吸い込まれた。
 
 メニューを開く。エスプレッソでも頼もうかと考えていた私は、その下にギリシャコーヒーの表記を見付けて好奇心が刺戟しげきされたから、店員が席に来るなり直ちにギリシャコーヒーを注文した。どんなものだろうかと想像を浮かべながら待っていると、その想像と異なる小さなカップが運ばれて来た。エスプレッソに似たものかな、と思って手を掛けて気が付いたが、そう言えば注文の時点で砂糖はどうしますかと聞かれた事を思い出した。エスプレッソであればこちらで勝手に砂糖を入れるのだが、と思いつつ一口啜ってみると、何とも味わった事の無い粉っぽい渋みが口の中に広がった。調べると成程、随分独特なコーヒーであった。口に合う合わないよりも体験する事が大事である。その上真白く輝るアテネの街を眺めながらギリシャのコーヒーを啜っているわけであるから贅沢である。

*5

 アクロポリスに始まって街中写真を撮り過ぎたスマートフォンと己の充電を兼ねてホテルで少し休憩をした後、今度はアテネ中央市場を目指した。古代ギリシャでパンが発展を遂げたと言う話があるが、ハーブがパンに使われるようになったのもその頃であり、また最古のハーブと名高い四つのパン用ハーブを本場で買いたかったのである。これも一つの目的であった。ホテルからそう遠くなさそうであったから歩いて行ったが、矢張り中心市街地ではない辺りの道沿いは怪しげであった。
 

 そうして辿り着いた中央市場にも怪しげな雰囲気が漂っていた。とても綺麗とは形容し難い外装であったが、それでも賑わっている様ではあった。足を踏み入れるにも勇気の要る様な不穏なアーケードの中をそれでも行くと、大きく精肉、鮮魚、ハーブと言う様に敷地が区画されていた。私が最初に足を踏み入れた場所は精肉部門であった。
 
 市場らしい雰囲気の中、ずらっと並ぶ屋台の前には店員が立っている他に兎や豚がその姿を残したまま肉となってぶら提げられていたりした。この辺りは異国情緒である。内臓も露になって並んでいた。こうした情景を気味悪がる記事も事前に見てはいたが、苦にするほどでも無かった。
 
 それから鮮魚部門の方へ回るとこちらは所謂鮮魚市場の様相で掻い摘んで言う程珍しい事も無かった。しかしこう立て続けに見ると、鮮魚市場の方が見慣れていると言うだけで、豚や羊や兎が丸々の姿を残して肉となってぶら提げられているのを態々わざわざ不気味がる事も無いように思う。魚も兎も施されてる仕事は殆ど同じである。寧ろ兎が魚の様に皮の付いたままの姿でぶら下がっていた方が君が悪いだろう。

 アテネに居を構えていたとすれば買って帰りたいほどに魚は安かった。生憎あいにく旅行者ツーリストの身であったから鮮魚部門もつらつら通り抜け、そのまま市場の外周にあるハーブの店を見て回った。店頭には綺麗に色とりどりのハーブ、スパイスが並んでいた。出来る事なら生涯に渡って使えそうな容器に入ったハーブをと思っていたが、どのハーブもビニールの袋に入れられた簡易的な包装であった。そして私は当初の目論見通り、コリアンダー、フェンネル、アニス、キャラウェイの四つを購入した。地中海で手に入れたこれらのハーブを使ってパンを作ってみるのが楽しみである。

 さてまだ時間はあったから、市場からまた散歩がてらふらふらと歩いた。歩いている内にまた市街地に戻って来た。時刻も夕方に差し掛かって来ていて、矢張り幾ら平気な顔で居ても慣れない場所で一日歩いた成りの疲労を感じた私は、偶然見付けたパン屋に入って一休みする事にした。パン屋とは言えケーキが美味しそうであったからコーヒーとケーキを頼むつもりでいたのであるが、いざカウンターに立つとクーロリKoulouriと言うギリシャのパンが目に入ったから結局そのパンとコーヒーを頼んだ。余談であるが、アテネでカプチーノを頼むとあらかじめ砂糖の量を聞かれて、砂糖の入った状態で提供される。ギリシャコーヒーの名残だろうか。

 クーロリは想像していた以上に軽い食感であった。また胡麻の風味も爽やかであった。クリームチーズとハムを挟んだものであったが、このクリームチーズの舌触りもパンの食感と合って心地良かった。
 
 
 休憩に入ったは良いがさてこれからどうしようかと考えた。同じ景色を何度も散策するのも浪費する体力に見合わない気もしたし、夕飯には早過ぎた。カフェに居続けるにしたって限度がある。そうしてインターネットを漁っていると、考古学博物館がある事に気が付いた。その上普段は昼までの営業であるらしかったが火曜日だけは夜八時までやっているという風であったから、火曜日であったこの日、行かないわけにはいかなかった。古代ギリシャを感じるのはアクロポリスだけになるだろうと考えていた私に、もう一段深くまで古代へ近付ける機会が飛び込んできた。
 

*6

 考古学博物館に入るとまず古代の時代の装飾品や食器などが飾られていた。説明書きがギリシャ語と英語のみであったから、真剣に英文を読んでみるが、どうしてもわからない固有名詞が連々つらつらと並ぶ。それらは軒並み古代の時代の地名や人名であった。そういう名詞についてはインターネットで検索しながら見て回った。線文字Bと言う古代のギリシャ文字についてもそこで知った。

 装飾品の飾られたところを抜けていくと、石像や銅像が沢山並んでいた。私としても古代ギリシャと言えばこうした石像などのイメージであった。例えば昨年ルーヴル美術館を訪れた時などもそうした石像や古代エジプトの展示などもあったのであるが、当時の私はまだそこへの興味が薄く記憶に殆ど残らなかったのは今になって悔やまれた。

 視覚的に言えば確かにどれも同じに見えた。何処に違いがあり、何処に価値が宿るのか、という疑念は僅かながらあった。然し視覚的思考を越え、概念的思考でそれらを見た時、猛烈な興味関心が音を立てて沸き上がった。技術と言う観点でもなく、また材質の云々でもなく、石像銅像を透かして見た古代ギリシャという時代が実在していた事実と、紀元前に既に育まれ文化を構築していったギリシャ神話というものへの好奇心が物凄かった。そして居ても立ってもいられずインターネットでギリシャ神話について調べると、ベンチに座って暫く読み耽った。そんな私の好奇心の地盤には言わずもがなパンの存在があった。パンの歴史的革命が起こった古代ギリシャと、今目の前に並ぶ石像や線文字B、更にはアクロポリスとの繋がりが見えた時、何とも言えない感動を覚えた。
 
 夜はホテルの最寄り駅でギリシャ料理を食べた。ムサカMusakkaである。私は茄子なすが大変好きであるから、アテネでは是非これを食べる積でいたのである。それからここでもビールを飲んだ。Nymphというこのビールが美味しかった。

 ムサカを食べても尚食べ足りない気がした私はもう一品頼む事も考えたが、結局近くのパン屋でホウレン草とフェタチーズのパイを買って食べた。このスパナコピSpanakopitaタもギリシャらしいパンである。こちらも美味しくいただいた。

*7

 翌朝はゆっくりめに眠った。そして余裕を持って荷物をまとめチェックアウトを済ますと、地下鉄に乗って空港行の電車が通る駅まで行ってそこの周辺で朝食を取ろうと考えた。街を歩くにもキャリーケースが邪魔になるから、朝食をゆっくりとってそれから空港へ向かおうと考えていた。所が最寄りの駅へ行くと午前九時だと言うのにシャッターが降りていた。さてどうした事だろうかと思いつつ、一先ず目的の駅までは歩いて行けない距離でも無かったからキャリーケースを転がしながら歩いて行く事にした。

 空港行の電車の走るシンタグSyntagmaマ駅に着くとそも同様に閉まっていた。何が起こっているのだろうか。私はインターネットでアテネのニュースを調べた。どう調べたら引っ掛かるのか試行錯誤しつつ、漸く見付けた記事に鉄道のストライキという文字を見付けた。何という悪運であろうか。丁度この日にストライキがぶつかるとは全く計算外である。一度その事態に焦ったが、気だけがはやっても時間の進行速度は変わらないんだからと、計画通り朝食をとる事にした。

 このパン屋ではクーロリに加えて小さいクロワッサンとチョコレートの詰まった丸いパンも頼んだ。道端のテーブルに着いて朝食を取った。煌びやかな街角の優雅な朝食よりも、やや薄汚れた不穏な道端でパンとカプチーノを口にする朝の方が矢張り私は落ち着くのかもしれないと思った。
 
 
 結局私は早めにタクシーを捕まえて当初の予定よりも早い時間に空港へ向かった。運転手にも「全くついてないよ」などと零したが、結果的に電車が走っていない為にタクシーで早めに街を出た事が功を奏した。空港内でのパスコントロールから手荷物検査に掛けて想像を越える程長い時間を要した。

 長蛇の列に並ぶ顔の多くがアラブ系であった時、私は到頭エジプトに行くんだと言う不安と緊張と興奮で体の内側がどうにかなりそうになっていた。はらはらする、と言うのはこういう時の心情を指すのだろう。兎に角想像も付かない見知らぬ土地へ向かう事がこれ程気力と体力の要るものとはすっかり忘れていた。屹度初めてドイツに来た時も同じ心持であったに違いない。アテネの感動、余韻に浸る暇無く心臓と頭は恐怖に興奮していた。長い行列を終え搭乗ゲートまで来ると、幾らか気持ちが落ち着いた。言わずもがな、もう後には戻れないとなった時、逃げ場が無くなった時、腹が決まると案外人は落ち着くものである。



エジプト・カイロ

*1

 自分の人生において初めて、海外から海外へと飛行機で渡った。それを言うとドイツからパリなりギリシャなり行ってるじゃないかと思う者もいるかもしれないが、ドイツはっくに居住地である。飛行機が飛んでしまえば不安は一旦引いた。万が一飛行機が墜落しても助からないとあらば態々不安がる必要も無いし、却って変に命拾いする方が厄介であるから、何れにしても自分がどう足掻いても何ともならない事態については案外気が楽な性分であった。然し実際のところ私を乗せた飛行機は無事にカイロ国際空港へ降り立った。いやはや既に万感である。

 飛行機が止まると其処からはバスに乗って空港へ移動した。ただでさえ英語に不安のある私も戻れない所へ来てしまったからにはどうにかするしかなくなったわけである。空港に着くとそれほど困らず入国出来た。滞在ビザを発行して貰う時も、ユーロで払えるかなどと係員と多少の遣り取りを交わしアテネに居た時と然程変わらない落ち着きのまま居たが、いざ空港スタッフに「何かお困りですか」と突然声を掛けられた時などは、まるで文法のなっていない英語ばかりが泡を吹くように口から出て来るばかりで参った。その癖態度は毅然と落ち着いているんだから何とも奇怪である。
 
 空港でSIMカードを購入し、何だ蚊だと時間が過ぎて空港を出たのは到着から四十分と経った頃であった。空港から外へ出ると沢山の人間が、それぞれ名前を書いた紙を掲げて人を探している送迎らしかった。それに混じってタクシーの勧誘も大変多かった。私はその群衆の中に自分の名前を見付け、無事に送迎の運転手と合流すると彼に連れられて駐車場へ降りた。想像していたエジプト人のイメージよりもずっと気弱そうな大人しい男であった。私を待っている間に隣の男とキスをしていた所を見ると、同性愛者の肩身の狭さでこうも気弱い猫背なのだろうかとも思った。
 
 
 駐車場へ行く間に「長く待ったか?」と彼が私に聞いて来た。私はSIMカードや滞在ビザ取得でそれなりに時間を食ったという事を拙いながらに伝えると、どうも彼の方でも到着が遅れたらしかった。その原因はその後すぐに分かった。カイロの道路は大変混沌としていて酷い渋滞であったからである。

 空港を出てすぐは案外快調に車は進んだ。私もまるで非現実的な茶色い景色をずっと眺めていた。暫くして道がぎゅうぎゅうに込み始めて来た。運転手に聞くとラッシュアワーなんだと言った。それにしたってこの混沌ぶりは交通ルール順守が言い付けられている日本人からは到底想像の及ばない事の様に思う。信号も無ければ規制も無い、道路上に車線は存在している様ではあったが、隙間があればぐいぐい車が入り込んだ。方々からクラクションが飛び交う。まさに混沌カオスである。結局空港からホテルまでは一時間以上も掛かった。途中運転手は車を止め売店によると、私にと苺とマンゴーのジュースを買って来てくれた。私の最初のエジプトの味であった。

 ホテルに着くと複数人の男が入り口前でたむろしていた。その内の一人が笑顔で私を出迎えると、キャリーケースをロビー迄運んでくれた。エジプトはチップ社会だと聞いていたが、運転手にチップを渡す間も無く彼は行ってしまった。
 
 ロビーは四階にあった。エレベーターを降りると爽やかな青年が私を出迎えた。それ以外にも五人くらいの男女がそのロビーのソファーに腰掛けていたが、今思うと彼らも職員だったのだろう。青年はアラブ訛りの英語でどんどんと説明を進めていった。そして部屋にも案内してもらった。部屋は一人で泊まるには贅沢過ぎるほど広かった。窓からはピラミッドも拝めた。ただ交通のクラクションは何時までも喧しかった。

 一通りの説明を終えると、彼は私にツアープログラムを勧めて来た。それさえ最初私は早口のアラブ訛りの英語に置いて行かれて何の話をしだしているんだか解らず、それでも何かしら契約を結ばされそうな時の感じがあったから何度も聞き直して、漸くツアーの斡旋である事がわかった。ここからが大変長かった。
 
 まず私には事前に計画していた予定というものがあった。この翌日の朝からピラミッドへ出向いた後、カイロ市内へ出て考古学博物館を訪れる。そうしてパン屋を見付けたらパンを食べ、腹が減ったらレストランへ入ってそれだけ出来たら満足という位には考えていた。即ちどこでも一人で行って自由にエジプトを満喫する積でいたのである。それだから最初の内は単に勧められたツアーを断り続けていた。所が向こうもそう簡単には納得しなかった。
 
 私は伝えたい事がどうしても彼の様な反射神経で英語で喋れるわけでは無かったからGoogle翻訳でドイツ語から英語に変換し、という方法も使いながら三十分くらいの押し問答を繰り広げた。その内、私には私の計画があるからという私の主張を汲んだ彼が「マネージャーに電話して君の計画通りのツアーに変更出来るか確認してみる」と言って電話をし始めた。本来のプログラムとは全く異なる私の希望に沿ってでもツアーを付けたいらしかった。そうしてその変更は出来るという話になった。それから二日後の早朝にまた空港までの送迎が必要であった私は、それも込みの約束でどうだと持ち掛けた。すると彼はまた電話をして確認を取ると「本来二十ドルの送迎を十五ドルにして付けよう」という結論を出して来た。
 
 よしこれで決まりだ、と彼が握手を求めて来るのを二三回抑制し、何度も最終確認をした私に「もう今、決まったじゃないか」と呆れた態度をする彼と、四度目で漸く私は握手をした。予定外の費用である事や自由時間が無くなると言うデメリットはあったが、空港からホテルへ来る迄の間で見たカイロの街の混沌ぶりを考えると、それくらいのデメリットがあろうと其々私の目的としていた観光地を車で運んでくれると言うだけでもメリットが大きい様に感ぜられたからであった。
 
 
 それにしても随分友好的な青年であった。少々距離の詰め方が早い様にも思われたが、あれだけの討論の後、私も私で何となく彼に対して安心感を抱いていた。漸く部屋で一息つくと、少し腹が減っていたからホテルを出て近くを歩いてみる事にした。いざ外に出てみるとアテネに感じた治安の悪そうな雰囲気とは比べ物にならない不穏さがあった。愈々女性一人で歩いていようものなら何処かへ連れていかれそうな物々しさがあった。改めてツアーを取って良かったと思った。

 少し行くとパン屋があった。屋台か小屋か、兎に角御世辞にも綺麗と形容し難い店の店頭にパンを見付けたから眺めていると、少年が一人「Hallo」と近付いて来た。私も挨拶をした後或るパンを指差して「What is this?」と聞くと、少しもじもじするなり「No english」と言った。成程それはそうである。てっきり私は、私の事は棚に上げた上で、世界共通言語の英語があればある程度の所は回れるものと考えていた節があったが、そうは言ってもアラブ語が中心のエジプトである。こうした街の商店では英語を話せない人も居るだろうと言う予測の立てられていないままカイロへ来たのは私の手抜かりであった。
 
 然しパン屋である事は間違い無さそうだから、私は結局正体の分からないパンを一つ買った。記念に店の雰囲気をビデオにおさめていると、少年も興味津々に店の中から覗き込んできた。私が親指を立てると彼も同じように親指を立てたので、なんだか私は嬉しくなって笑った。
 
 少し散歩をしたが余りに気が気でなかったから割とすぐに部屋に戻ると、ロビーの例の青年にこのパンは何だと聞いてみた。「パン屋の少年は英語が分からない様だった」と言うと「だろうね」と言って、このパンはアグワと言う名のナツメヤシのペーストを詰めたパンだと教えてくれた。それほど甘みの多くないペーストであった。またパンの風味も、私の知る小麦のパンの香りとは少し違った。然しこの辺りの違いは単に優劣では無く、その土地の物として食べるのが礼儀である。

*2

 翌朝目を覚ますと朝から道路が喧しかった。体を起こして窓の方へ行く。ピラミッドを眺め朝を感じるとは何とも信じ難い体験である。

 ツアーは九時からの約束であったから、その前に朝食を食べようと最上階の部屋へ行くとまだ誰も居なかった。そして朝食の出される雰囲気さえ無かった。すると頭に例の頭巾をかぶった少女が何処からともなく現れ「朝食ですか」と聞いて来た。ホテルの朝食と言えばビュッフェ形式になっているのがこれまで相場であったから、その状況に幾らか狼狽した。然し朝食込みのプランで宿を取っているからまあ大丈夫だろうと思って席に着いて待っていた。その部屋からはなお良くピラミッドが見えた。

 暫くして御盆に乗せられて朝食が運ばれてきた。大変質素なメニューであった。その中に例のエジプトパン、アエーシも矢張りあった。それからターメイヤと呼ばれるそら豆のコロッケの様な物もあった。御盆といい器といい学校の給食を思い出した。このスタイルの朝食は初めてであったが、そもそもヨーロッパとも異なる文化圏で何を求めていたんだと自省して食べ進めた。本物のアエーシは私が自分で作った物よりもずっとひらひらと軽く味わいも濃く美味しかった。

 朝食を食べていると青い頭巾を被った女性が近付いて来た。そして私の傍で足を止めると「How are you?」とも「おはよう」とも聞こえる言葉を掛けてくるなり、「あなたのガイドです」と日本語で言って来た。アテネでも感じたが矢張り日本語を喋る外国人には警戒心の働く私は、それでもこちらからは英語で挨拶をして、朝食を食べ終えると彼女の待つロビーへ時間通りに出た。
 
 
 彼女は過去に日本語を勉強した事があるらしかった。それだから全ての会話は出来ないまでも、幾つも日本語を知っていた。流石にこちらから日本語で話し掛ける様な真似はしなかったが、何かにつけて日本語で話し掛けて来た。下へ降りると車が止まっており運転手も乗っていた。成程、ここでも二人分のチップとなるわけか、と私は腹の底でそんな事を考えていた。
 
 ツアー料金はそれで払った。然しエジプトはチップ社会である事や、ぼったくり、しつこい勧誘のある国だと事前の調査で頭に入っていた私は、その点への警戒がこの時から大きく働いていた。チップの相場もわからなかったが、チップの為に必要以上に人員を増やしているんじゃないかと言う疑いも、この運転手を見て脳裏に浮かんだ。

 そうしていざピラミッドへ向かう、かと思いきやある建物の前で突如車が止まった。そうして「エジプトのコットンは有名なの」という説明と共に誘われたその建物の中は、エジプトコットンを取り扱う店であった。シーツ、民族衣装、Tシャツ、ターバンと色々あったが、店に入ると其処の店主も日本語でおはようございますと言ってきて警戒心は益々高まった。
 
 腹の底で、何を勧められても安易に頷かない、と言うのを反芻はんすうしながら店内を店主とガイドと回った。ターバンの所では「一度被って見たらいいじゃない」と言われ、彼らの成すがままに私は頭にターバンを巻かれた。ひょっとしてこのまま買う様に勧められるのかと警戒しつつも、折角の記念に写真を撮って貰おうと店主に言うと「十ドルだ」と、本心か冗談か分からない事を言ったので私も「十ドルか、それは高いな。よし自分で撮ろう」と御道化て鏡に映る自分の姿を撮った。そうして何か言われる前にそそくさとターバンを外して、これは要らないと言った。「要らない」と言うと「どうして、とても良い物よ」が必ず付いて来た。それをまた断ると言うのが大変労力を要した。

 結局その店ではTシャツを一枚買った。これは私がそもそも買いたかった御土産であったから良いのであるが、五枚買ったら一枚おまけする、という言葉も一々柔らかく跳ね返す必要があって骨が折れた。早速面を食らったまま車に戻ると、車は愈々いよいよピラミッドへ向かった。

*3

 ピラミッドの直ぐ前の駐車場などに車を停めるものと思いきや何だかよくわからない所で車は停まった。そうしてガイドに誘われるままにある小屋に入ると、男が一人待ち構えていた。待ち構えていたのは一人であったが、建物の周りなどにはその仲間らしい人達が矢張りたむろしていた。

 建物に入ると、どうもピラミッドの建つ敷地内を回るツアーの案内であった。端からツアーに組み込まれているものとばかり思っていた私はここでもまた腹を打たれた様であった。三つのコースと、それから馬か駱駝らくだが選べるという話であった。当然最長コースは最も高かったが、折角この非現実世界へ来ておいて潔々けちけちするのも馬鹿だと思った私は、この小屋から引き返せない以上最長のコースを駱駝らくだで回る事にした。
 
 さてこれで終わらないのがエジプトの分業ぶりである。私が案内を飲んで外へ出ると、一つの馬車の元へ案内された。私は駱駝らくだと言った筈だが、と思いながらもそこにいた男の言うがままに馬車に乗ると、そのままピラミッドの近くへと私を運んで行ってくれた。そうして馬車はピラミッド入り口前の駐車場に泊まると、ここで少し待つようにと言われた。この男が入場券を取って来てくれるのを待つのかと思えば、何でも他に入場券を取りに行っている男がいると言う話であった。抜かりない分業ぶりである。

 少ししてまた知らない男が入場券を持って来て挨拶をすると、その男について入場ゲートを通った。目の前には既にピラミッドが広がっているが、そんな事よりも神経を張らなければならない事が多過ぎて感動している暇も無かった。そうして入場ゲートを抜けた先には、さっき馬車で運んでくれた男が待っていた。君一人で済む仕事じゃないかと腹の底思いながら居ると、入場券の男は「それじゃあ私はこれで」と帰る素振りを見せた。そして続けて「私はこれで帰るんですから、チップを」と来たもんだ。さあ愈々いよいよだなと思った私は財布を出したが、全く嫌味なくチップの相場もわからなければエジプトポンドとユーロの換算を脳内で出来るまでの情報も把握せずに来てしまっていたから、ぱっと手に取った五ポンドを渡した。彼はつい笑ってしまう位呆れた顔で受け取ると、そのまま「Thank you」と言って帰って行った。後で分かったがこの時のチップは二十二円くらいな物であった。流石に悪い事をしたなと後になって思った。

 さあそしてようや駱駝らくだの旅の始まりである。最早当然の様に、この駱駝らくだを引いて行く役割の男も別にいた。この時点で私は少なくとも彼ら二人分に対するチップが必要というわけである。ツアー料金とは別に大変な出費である。駱駝らくだに乗った私と、それを引く男と、それから馬車の男も馬に乗って三人でピラミッドを回った。どうも引く男は英語が喋れないらしく、説明はいつも馬車の男であった。
 
 
 然し折角駱駝らくだに乗って砂漠をゆき、ピラミッドを見上げる経験など生きている内に屹度無いんだから、どうにかして意識をそちらへ向けた。御陰でのしのしと駱駝らくだでゆく内は本来の興奮で満たされていた。然しそれも、馬車の男が「ブロ、写真を撮ってやろう」と声を掛けて来る度に少し委縮した。御陰で素晴らしい写真が撮れたのは事実であるが、兎に角一秒足りと気を抜けないままピラミッドを観光した。

 ピラミッドは勿論、スフィンクスの横も駱駝らくだで抜けた。その頃には駱駝らくだに乗るのにも随分慣れていた。駱駝らくだはそれなりにコツが要った。

 さて出発地点に戻り駱駝らくだの旅が終わるとチップの話である。私はその時実際手持ちが少なかったから、ATMに案内してくれと言った。それで馬車の男が私を馬車に乗せてATMのある所へ連れて行ってくれた。駱駝らくだを引く男には後から渡しておく事にすると言った。然し結局案内されたATMで私のカードは使えなかった。対応していなかったのか、機械が壊れていたんだか、それすら判然としなかった。その時私の中の我慢の一つが小さく弾けるのが分かった。そうして財布の中にあった六十ユーロを馬車の男に渡して、これをもう一人の彼と分け合ってくれと言って片を付けた。

 それでまた馬車に乗せられて最初の小屋の所へ来ると、ガイドの女が大層笑顔で「どうだった?良かったでしょ」と聞いて来た。感情を振り回されると言うのはまさにこの事であった。ピラミッドも駱駝らくだも大変良かったから、胸を張って良かったと言いたい反面、金をばら撒く旅行客として転がされている様な気持ちもあったから実に複雑であった。それでまた駱駝らくだ分の料金を支払う為に建物の中に連れていかれると、そこにも五人ほど恐らく身内であろう人間が座っていて、壁の棚にはシーシャだか香水だかオイルだかの瓶がずらっと並んでいた。
 
 そんな所にぐたっと腰掛けていると、また知らない爺さんが「こんにちは」「元気ですか」と日本語で言いながら近付いて来てすぐ傍に座った。衰弱しきった少女を禿鷹はげたかが狙っている情景を切り撮った有名な一枚の写真があるが、私はこの時の自分の置かれている状況にその写真を思い浮かべた。
 
 案の定爺さんは香水やオイルがとても良いんだと紹介して来た。私の隣に座るガイドも同調してオイルを褒めた。そして私に「少し試してみる?」と聞いて来た。好奇心の前に圧倒的警戒心が立ちはだかっていた私の心情で、とても従順に「はい、試させて下さい」とは言えなかった。これを試すにも金がかかるんじゃないかという妄想が脳ではなく腹の底から湧いて来た。
 
 暫くの間、香水もオイルも要りませんというのを繰り返した後、漸く駱駝らくだツアーの支払いの男が来て清算を済ませた。もうこの時点で一体幾ら余計に出て行ったんだか定かではなくなっていた。そうして店を出る。車に乗り込む。私は随分衰弱していた。この運転手もガイドも私に対して大変愛想が良いが、その腹の底が周囲の人間を通して見透かせるようで向けられる笑顔すら恐ろしかった。

*4

 さあもうさっさと考古学博物館を見て早めに終わりにしましょうと言いたいほどであった私を乗せた車は、まだ考古学博物館でもない場所に停まった。そしてガイドは私をある建物の中に誘導した。
 
 エジプトにはパピルスという紙がある。古代エジプトの時代から使われていた紙でカミガヤツリという植物から作られる。そんなパピルスという紙に古代エジプトらしい絵を描いた工芸品を売る店であった。中には客はおらず、その代わりにやっぱり六人ほど店の仲間がいた。このたむろはエジプトの何処でも見られた。店に入った瞬間に私の脳内に浮かんだのは、またここでも要る要らないの問答をしなければならない辟易とした気持であった。
 
 勧められたウェルカムドリンクも、とてもじゃないが受け取る勇気は無かった。壁に掛けられた絵をぐるり見ていると「すいません」と日本語で女性の声がした。すると一人の若い女が、日本語でパピルスの作り方を説明すると言うのが始まった。完璧な迄の日本語の説明であったから、当然好奇心を全開にして聞きたかった。聞きたかった、のである。それがどうにも出来る心境ではもう無かった私は、話を頭で聞きながらも心に起こる警戒センサーだけは絶やさず稼働させ続けた。
 
 そうして説明が終わると、案の定御土産にどうですかと勧められた。それも日本語の少女のみならず、屯していた他の男からもである。今正直に申し上げると、これを買って帰る事には大変興味があった。装飾として、またエジプトを訪れた記念として決して悪い御土産では無かった。所がもう平常心ではなかった私は、わざわざ一つ一つの勧誘を断るので精一杯で冷静に品物を吟味し、値段を考慮する余裕が無かった。一度断っても二手三手が来るのである。それも巧く私の良心を突くのである。挙句私は「興味がないもので」と言わざるを得なかった。これは最早この店に限った事では無く、またこの言葉を吐く時が自分自身最も心労が大きかった。何故なら興味はどこまでもあったからである。

 そうして店を出て車に乗り込むと、ガイドから「ヨガやリラックスに効くエジプトのオイルが体験出来るのよ。是非試して御覧なさい」と誘われて、既に車はその店の方へ向かっている様であったから、もう私はこの段階からNoを出して、是非博物館へ行きましょうとなるべく大人しく言った。然しガイドの推しは大変強かった。「買ったり支払ったりとかも無いわ、ただ五分くらい試すだけよ」と言う言葉を、本来の私であれば快く信じ、エジプトのオイルも快く試したい所であったが、如何せんこれまでの経緯が私の警戒心をここ迄引き上げてしまっていた。結局ガイドが折れ、私達は考古学博物館へ向かった。ガイドは「私達はあなたに楽しんで欲しいだけなのよ」と再三言っていたが「I know」より他に返せる言葉も見付からなかった。

*5

 考古学博物館へ行く途中、運転手が道端へ車を停めると小さな商店で水を買って来ると言った。「君も何か買うかい」と言われたから、私も車を降りて運転手と共に商店へ入り、水とリンゴジュースを手に取った。支払いは運転手がしてくれた。パピルスの店からここ迄、随分長い間車に乗っていたから、私の方でも気持ちが幾らか落ち着いていた。落ち着いていた、と言うよりも台風一過みた様なものであった。不断携えている感覚や思考を散々破壊された後の落ち着きは、諦めと別称する方が相応しかった。それだからこの時も、どうせ後でチップを渡すんだから甘えよう、という考えに変わっていたのである。

 相変わらず混沌とした渋滞で車の進みは悪かった。混雑で有名らしいタリハール広場の込み具合を見て、スペインのトマト祭に行った時の人混みを思い出した。
 
 漸く博物館の前に着くと、運転手は私とガイドだけを降ろしてまた交通の波の中へ入って行った。冷静になって考えると、この運転手の労力が大変なものであると同時に彼がいなかったらと思うと、果たして私はどのようにカイロを観光していたんだかまるで思い浮かばなかった。

 二重三重の手荷物検査の後、考古学博物館の中に入った。ツタンカーメンの黄金のマスクがある事でも有名なこの博物館に、英語が解らないなりにもガイドの付いた状態で回れた事は大変良かった。本物のミイラ、棺桶、装飾品、古代エジプト文字、壁画、石像。あれほど遠い存在だと思っていた古代エジプトの世界に、今こうして触れられている事は何とも感慨深かった。そしてまた、パンの起源である時代を感じられた事は私の生涯において大変価値のある事であった。そしてアテネの時同様、エジプト神話や古代エジプトについて益々興味が湧いた。

アヌビス神

 一通り見た後、御土産も物色した。折角だから何か買おうと思っても、ガイドがいる分何となく自由が利かない。彼女も頻りに何が欲しいの、どういうものが良いのと聞いてくれたが、先ずそこを考える所から私は時間が要るのである。その時、博物館を見て回った時に一際目を奪われた物を思い出した。それを改めてガイドにアヌビスと言う神様である事を確認すると、それに纏わる御土産を中心に物色した。然しなかなか心惹く物が見当たらなかったから「まあやっぱりいいです」とガイドに言うと、「他の御土産屋さんも行く?ここよりも良い物が安く買える所があるから」と勧めてくれたが「いえいえそんなお手数掛かるんで結構ですよ」というニュアンスを声と表情に作って「No Thank you」と答えた。

 「お腹は空いていますか?」と博物館を出た所、車を待つ間にガイドが私に聞いて来た。確かに朝食を食べて以来何も食べていない事に気が付いて、そうだなあと考えた後、エジプトの良いパン屋を知っていたら是非行きたい、と答えた。エジプト料理も食べてみたいという思いはあったが、もう少しパン屋を見てみたかった。彼女は「知ってるわ。それじゃあそこに行きましょう」と言って予定が決まった。時間的にもこれが最後のアクティビティになるだろうと思った。

 渋滞を抜けて漸く車が停まったのは、パン屋の前では無くATMであった。これも私が随分前から口にしていた事であったから、彼女はそれを覚えていてくれていた。チップを払うにも手持ちが無かった私はどうしても現金が要った。そこのATMでは無事に現金を引き出す事が出来た。エジプトポンドとユーロの換金レートも画面に表示されたが、ガイドがそれを見て手元の計算機と照らし合わせて、「おかしいわ、随分割高よ」と注意をしてくれたが、この期に及んで金銭感覚も平常で無かった私は、現金を手に入れる事が先決だからと、「No problem, It’s OK」と言いながら現金を卸した。

*6

 さてそれじゃあパン屋へ行くのかなと思いガイドについて行くと、ATMのあった所からすぐの所の怪しげな店の中に入っていった。骨董品を扱う店か、宝石屋か、一見分別が付かなかったが、どうやらアヌビスの御土産を買えそうな店に連れて来てくれたらしかった。ここも相変わらず複数人の屯があったが、もうそんな事には慣れっ子である。奥へ行くと一人の女性が、飾り棚からアヌビス神を模った御土産を次々並べてくれた。すると店の反対側からは「こっちにもあるぞ」と、一人の男がアヌビス神の大きい土産も見せてくれた。この頃になると、彼らは本当に親切心で動いているんだろうと理解出来るまでになっていた。

 並べて貰った大小様々なアヌビス神を見比べながら迷っていると、何処からともなく大柄な一人の男が現れた。その男もまた日本語で挨拶をして来たが、ガイドが「彼はドイツ語を喋るのよ」と言うと、その大柄な男はドイツ語で喋り始めた。あの時の解放感は凄まじかった。漸く気持ちを、思いを満足に吐き出せる時が来たと思った。
 
 少し話した後、その男はアヌビスを模った首飾りを勧めて来た。自分の想定を越える高価な土産を出して来て、警戒心は矢張り反応したが、説明を聞いてみると、古代ギリシャ文字で自分の名前を入れられるというものであった。それで靡くのは少々幼稚臭いが、説明を聞き、自分でも熟考した後、結局その首飾りを買う事にした。無論値段も馬鹿みたいに高価なものでも無かった。それにパピルス紙を逃し、エジプトオイルを逃して来た私自身、如何にもエジプト旅行の記念となる様な物も欲しかった。私は観光地では変に格好付けずちゃんと観光客をしたい派なのである。

 その首飾りは十分くらいで出来ると言うから、それを待つ間、大柄な男のドイツ語の説明でその土産物屋をぐるり見て回った。ここでも香水やオイルの一角があり、彼のドイツ語の説明を聞いた後、少し手首に垂らして貰って香りを確かめた。それから店内のツアーが終わると「作業場を見せてやる」と言われ、地下の作業場に通された。この時の私は、大金を巻き上げられる事や命を裁かれる事を覚悟した上でついて行った。

 小さな作業場には男が二人作業していた。大柄な男はドイツ語で説明しながら、煙草に火をつけた。折角だからと私もカメラを回して様子を撮影したりしながら、ちょっとした世間話を大柄な男とドイツ語でした。結局私は金や命をせびられる事も無く地上に帰って来て、出来上がった記念の首飾りを受け取った。会計をしてくれた男も日本語で「ありがとう」などと言ったが、この頃になると私も一々日本語に怯える事も無くなっていた。

ガイドの書いた日本語

 店を出ると、その道向かいの様な所にパン屋があるのが見えた。そこに行くのだと言う。運転手とガイドと私は、交通規則もマナーも信号も見当たらない混沌とした車道を、運転手の慣れた身のこなしを真似る様に渡った。何時しか三人でわいわい盛り上がる場面も増えた。

 そのパン屋はあまりエジプトらしさの無いパン屋であった。綺麗なケーキも並び、そう言えば看板にもパティスリーだかブーランジェリーだかと書いてあった所を見ると比較的今風なパン屋なのだろう。そこにはエジプト菓子と呼んだら良いのか、小さいケーキの様なものも置かれていて、一欠け店員から渡されて試食した。午前の私であれば屹度ここで警戒心を震わせていたに違いなかった。猛烈に甘い味を想像していたが、思っていたよりも大人しい味だった。そしてパンのコーナーは大変少なかった。私はチョコレートの掛かったパイとピザとクロワッサンを買って店を出た。それら三つを買って二ユーロ程であった。これまで書き触れて来なかったが、エジプトの物価は大変安かった。そしてギリシャもカイロと比べてはいけないが、ドイツに比べたら驚くほどに安かった。

 パン屋を後にし、また渋滞の隙間を縫って道路を渡ると、愈々車はホテルに着いた。九時から五時の八時間のツアーは、体感で言えば殆ど二日分に感ぜられた。最後車を降りる前に運転手に随分なチップを渡した。この時の私は快かった。そしてエレベーターに乗ってロビーを目指す間に、ガイドにも幾らか渡した。本来はツアー料金に含まれているのかも知れなかったが、私の拙い英語に付き合い通してくれた事やサポートへの感謝の気持ちに、自分なりに加減をして渡した。

 ロビーに着くと昨晩三十分にも渡って討論をした彼が相変わらず爽やかに出迎えてくれた。「どうだった?」と聞かれた私の口からまさか「散々余計な金を払わされて堪ったもんじゃない」などという罵詈雑言は飛び出す事無く、ピラミッドも博物館も良かったと親指を立てて言った。そして忘れる前に翌朝の空港への送迎の確認だけ済ますと私は部屋に戻った。「ありがとうございました」と言うガイドの日本語と、「また何かあれば何時でも声を掛けてくれ」と言う青年の英語に、結局邪念は混ざっていない様に思われた。

*7

 部屋の中で漸く解放された脳で、この日一日を振り返ると共にエジプトの社会について考えてみた。運転手にもガイドにも、ツアーを押し勧めて来た青年にも一切の邪念なく、只観光客に楽しんでもらいたいという親切心のもとに駱駝らくだのツアーに通し、パピルス紙やエジプトオイルの店を案内し、御土産を選んでくれていたのだとすると、果たして何が私の心をああも揺さ振ったのかと言えば矢張りそれは社会の仕組みにあると思われた。ここで私の経験の内、三点が考察の鍵となった。

 一つ、エジプトにはチップの他にバクシーシと言う文化がある。持つ物が持たざる者へ与えるのは当然、と言う文化である。ピラミッド近辺には写真を撮る事や、御土産の押し売りをする人間が多く、実際私の元にも馬車の上に入る時でさえ御土産を売り付けようとして来た者が居たほどであったが、彼らは皆そのバクシーシを求めているらしかった。
 
 二つ、エジプト人は仲間の結束が強いんだか、皆兄弟なんだか、兎に角何処へ行ってもたむろしていた。何処から何処までが仲間で知り合いなのか他者からは皆目見当も付かなかったが、どの店に入っても皆ガイドや運転手の仲間らしく挨拶を交わしていた。これはそういった組織の繋がりのある店を中心に回っている、という見方も当然出来るが、人と人の間に態々仕切りを設けない、という姿勢であるとも言えそうだと私は思った。
 
 そして三つ、私がエジプトに来た最初の夜道で見掛けたパン屋の英語の喋れぬ少年である。その一帯の家は殆どが古かった。言葉を選ばずに言えば汚く襤褸ぼろであった。これも単に文化だと纏める事も出来るが、英語の喋れない少年の事をホテルのロビーの青年は「まあそうだろうね」と言うあたり、そしてまたこの青年が英語を十分に話せるあたり、そこに格差というものの存在が垣間見える。ここで一つ目の話に戻る。
 
 つまりバクシーシというものが直接的な金銭授与に限らず、もっと概念的に根付いている物だとした場合、ホテルという明確な“持つ者”がその周辺の“持たざる者”へ“仕事”と言う形で恵みを与えている構図が容易に伺える。ガイドも「フリーランサー」と言っていた。送迎の運転手もどうもホテルが手配したUberの配車ではないかと見受けられた。するとその“恵み”はさらに下り、ピラミッド回りを案内する男や駱駝らくだを引く男へとそれなりに正規のルートで流れていく。彼らの収入がこのバクシーシであるとするならば、そのバクシーシが得られる“仕事”を彼らの所へ運んでやるのも“持つ物”であるホテルの仕事なのかもしれない。即ちホテルが一括で“恵み”を受け取りそれを“持たざる者”へ配っていくのとは大きく異なる仕組みである。
 
 あくまでも彼らに一切の邪念が無いとした場合、これらのしつこい迄の分業はホテルから流れ出たバクシーシであり、そこを流れる観光客を裏切る事は決してしないという事で彼らの中では合点がいっているのだろう。畢竟、私がこの日の午前に感じた心の混沌は、不断の文化と言うフィルターを通して見たエジプトの文化に異常に警戒心をたぎらせた私の、いわば自業自得であり、不断の常識を捨てこの文化や社会の仕組みを理解しておけば、端から腹底を煮やす必要も無かったのである。

 散々考えた末に腑に落ちた私は、自分の態度や心情を反省し、また後悔した。警戒心無く、猜疑心なく、彼らの親切心を真摯に受け取るべきであったと。私の心が曇っていたばっかりに常に疑いの目で皆を見てしまっていたと。慣れない土地で警戒心は無論必要であるが、それと同時にその土地の文化を良く理解する事も重要だと気が付いた。今回のエジプト旅行で言えば、文化や言語の異なる地への旅行をする者として私はこの旅行自体を随分舐めて居たと認めざるを得ないと思った。然し乍らそれらを経験出来たのもここに来たからである。
 
 全ては経験である。私はこの言葉を信じて頼る事が多いが、万事どちらに転んだところで全て経験である。そういう意味ではこのエジプトでは期待以上に多くの経験が得られた。ピラミッドやツタンカーメンで霞まぬほどの経験である。

 最終日の朝、約束通り朝七時に送迎を出して貰った。朝の道路は流石に混雑無く、空港までスムーズに進んだ。さあこれで到頭冒険を達成して、ドイツに生還し達成感を味わおうと内心一部で安心していた私であったが、なかなか思う様にはいかなかった。

 空港に入ると既に空港中に長蛇の列が成されていた。手荷物検査のチェックであった。無論手荷物に不安の無い私は、ただ長い時間並ぶ事を苦にするばかりでそれ以外は尚も平気であった。そうして自分の番になり難無く安全性を示すと、その先にパスコントロールの列がまた長く伸びていた。随分並ぶ必要があるんだなあと辟易しながらそれでも根気よく並ぶより他に無いから列に入って並んでいた。そうして遂に自分の番になって係員にパスポートを渡し、事前チェックインしておいたオンラインチケットを見せると「このボーディングパスでは駄目だ」と突き返された。「Why?」と聞く。すると後ろに並んでいた男が「紙のボーディングパスで無いと駄目なんだ」と説明してくれた。いやいやそんな事聞いていないじゃないかと思いながら、それでも搭乗時間まで悠長にしていられるような時間も無かったから、急いでさっき迄並んだ列を引き返しチェックインカウンターを見ると、既にミュンヘン行のチェックインは終わっていた。
 
 どうしようかと歩き回っている内に、セルフチェックインの出来る機械を見付けた私は急いでそこで手続きをし、何とか紙のボーディングパスを手に入れると、さっき並んだ列を「Sorry」と言いながら次々追い越し先頭へ躍り出た。搭乗時間も迫る中、批判も覚悟である。
 
 そうして再度同じ係員の所へ戻って来てボーディングパスを出すと、「出国時に必要なこの紙はどうしたんだ」と、フライト番号や氏名やパスポート番号やらを書き込まなければいけない紙の存在を知らされた。いやいやさっきの内に言ってくれたらいいじゃないかと思いながら、また来た道を引き返した。一体どこで手に入るんだかもわからなかったから、手の空いていそうなチェックインカウンターに聞くとそこですんなり手に入った。オンラインチェックインの意味など無いじゃないかと思いつつ用紙を記入すると、また私は大急ぎで長蛇の列をごぼう抜きにした。何だってこんなキャリーケースを持ちながら人の列を何度も追い越さなきゃならないんだと、遂に三度係員の前に出ると、今度こそ出国を許可して貰った。
 
 そこから搭乗ゲートのある方を目指して行くと、第三ターミナルと掲示板にあったと思ったが搭乗口の方向が第二ターミナルの方であった。不安がりながらも信じるしかない私が只管進んで行くと、第二ターミナルでまた身体と手荷物の検査があった。どれほど厳重なんだと思いつつ大急ぎで並んだ御陰で、間違って女性専用レーンに一度並んでしまった。
 
 手荷物に不安の無かった私はそこの検査もさっさと抜けると、もうすぐそこにある筈の搭乗ゲートへ早足で急いだ。駱駝らくだに乗った故の筋肉痛も御構い無しである。それで愈々いよいよ搭乗口に着くと、掲示板の表示はミラノ行であった。もう既にミュンヘン行の搭乗が始まっている筈だったのにミラノ行の表示である。係員に聞くと、ミラノ行が発った後だ、と言われ、そこで漸く落ち着いた。

 最後の最後でばたばたとしたのは最早私らしかった。全ては経験である。
 
 そうして私は遂にパンの歴史を遡る聖地巡礼の旅を終えた。ドイツに着いた時の達成感は想像に難くない筈である。各地でパンも食べた、古代も味わった、然しそれ以外にも貴重な体験を多くした。大変収穫のあった五日間であった。
 
 火曜日にはドイツ在住歴が丸八年となった。当時の私も言語も文化も違う所へ丸腰で行ったと思うと、八年経ってもやってる事は一緒である。この八年で得た経験が今の私をアテネやカイロへ飛ばしたと思うと、これから先の八年は八年後の私を何処かへ飛ばす為の下積み期間になるのだろう。私がどれだけ背伸びをしたところで古代迄遡る重厚な歴史に敵う筈等無いのであるから、今与えられた命をただ直向きに燃やして行く間で出会う様々な人や経験くらいは大切にしていきたいものである。


※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
※旅の様子などはYouTubeにあげる予定です。


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