gekoの会

短歌同人「gekoの会」です。2017年発足。同人は貝澤駿一、永山凌平、丸地卓也、山川…

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短歌同人「gekoの会」です。2017年発足。同人は貝澤駿一、永山凌平、丸地卓也、山川創です。 毎月第一、第三土曜になにかしらの文章を更新予定です。

最近の記事

現代に起こす写生の説 永山凌平

はじめに  先日、某歌会の懇親会の場で、とある方から「文明や茂吉のリアリズムを面白いと思うか」と聞かれて一瞬答えに詰まってしまった。理由は2つあった。1つ目は文明や茂吉の歌をリアリズムとして面白いと思っているかどうかだ。筆者は彼らの作品を面白いと思っても、それを「リアリズムだから」と思ったことがないような気がしたのだ。2つ目は、1つ目とも関係するが、そもそも「リアリズム」が何を指しているのか不明確に感じたからだった。  リアリズムについては以前「リアリズムについて考えたこ

    • 歌会はエンターテインメントなのか 永山凌平

       「塔」2022年3月号に掲載されている橋本牧人による評論「短歌読解のリベラリズム」を面白く読んだ。簡単に要約すると、「短歌連作には一貫した主体がいる」というお約束を例に、読みにおける暗黙の了解(橋本は「コード」と呼ぶ)を外して読むことで従来のコードでは読み落としていた作品の理解を掬い上げること、「読み」を更新することで「詠み」の可能性を広げること、を主張している。特に最終段落の「ぼくたちは短歌の実作者である以上に、読者として短歌読解の既存のコードにときに乗っかりながら、とき

      • 〈死〉に対峙する短歌 貝澤駿一

        「ハリー・ポッター・シリーズ」には、「セストラル」という生き物が登場する。馬のような胴体に、巨大なコウモリのような翼を持ち、新学期にホグワーツへ向かう馬車を引くという役目を与えられている。ホグワーツの子供たちからは、それは〈馬のない馬車〉だと思われている。なぜならセストラルは、〈死〉を見たことがある者にしか見ることができないという性質があるからだ。この不思議な性質のために、セストラルは不吉極まりない動物だという不当な扱いを受けているのである。 「ハリー・ポッター」における死

        • 幾何学の歌―予告編 永山凌平

           文谷有佳里という芸術家がいる。ドローイングを得意とする作家で、作品では巨細の直線・曲線が紙のパネル上に――場合によっては紙以外のもの、例えば美術館の展示ケースのガラス上に――あるバランスを構築しながら躍動する。それは何か具体的な事物を描いたものではないし、線が何かを明確に表しているわけではない。そもそも文谷は下絵のたぐいをしないらしい。作家の経験や感覚に基づきながら即興音楽的に線を構築していく。  実は、筆者は学生時代に文谷さんの話を伺う機会があった。そのとき尋ねたのは「

        現代に起こす写生の説 永山凌平

          黄金の林檎に通じる文体 丸地卓也

           坂井修一の作品論は『ラビュリントスの日々』(一九八六)の解説で永田和宏が歌と学問の二項対立の問題を指摘したところから、反論・補論を展開するかたちで主に主題について考察が深められてきた。情報工学の研究者でもある坂井の活躍と、インターネットの普及は時代的に重なり状況論的にも語ることができるので、主題の論考が多くなるのは必然でもあった。しかし、坂井こそ文体を意識している歌人で、歌集を上梓するたびに文体も刷新している。初期の作品だと『スピリチュアル』(一九九六)のあとがきで「韻律へ

          黄金の林檎に通じる文体 丸地卓也

          孤児の文学 貝澤駿一

          曾祖父と曾祖母の名を確かめる墓碑に積もりし雪を払いて/田中拓也『東京(とうけい)』 おそらくこの作者は〈曾祖父〉と〈曾祖母〉に会ったことがないのだろう。優しく雪を払いつつ自らのルーツにつながるその名を〈確かめる〉という行為には、どこか好奇心旺盛な少年らしい趣きも感じられる。わたしがそう――つまり、おそらく40代~50代の男性である作者の歌にもそのような少年性を――直感的に感じたのは、この歌を読んである有名な文学作品の冒頭のシーンを思い出したからだ。 父の姓はピリップで、私

          孤児の文学 貝澤駿一

          1960年代の仮名遣い考 永山凌平

           1960年代の「短歌」(角川書店)を眺めていると、仮名遣いを始めとした表記の問題についてかなり熱く議論が交わされていることに気づく。ただ、誌面を読んだ当初の私はこのことに少し違和感を覚えた。例えば内閣告示の「現代かなづかい」や「当用漢字表」が交付されたのはともに1946年である。また、直接的には表記の問題に関わらないが、桑原武夫の「第二芸術論」が発表されたのも1946年である。いずれにせよ表記の問題のきっかけとなる出来事からは10年以上経過しているのだ。なぜ10年以上を経て

          1960年代の仮名遣い考 永山凌平

          受け継がれる空穂

           現代における窪田空穂の立ち位置を考えたときに、斎藤茂吉や北原白秋のように人口に膾炙されているわけではなく、佐佐木信綱や釈迢空のように国文学色も強くない、しかしいずれにも存在感を放っている。そして、空穂系といわれる結社は多く、渡辺順三や岸上大作などエポックメイキングな歌人も排出している、そんなイメージを持っている人が多いのではないか。空穂の歌人としての人生は、早稲田大学で教鞭を振るうようになるまでは、雑誌の編集者で生計を立てる傍ら、作歌、古典研究に時間を費やすという極めて現代

          受け継がれる空穂

          虚構の真実【後編】 貝澤駿一

          前回の記事(虚構の真実-前編)では、文学的〈虚構〉をテクストがそれ自体〈虚構〉的にふるまうものであると考えるテリー・イーグルトンの理論をふまえ、逆説的に〈虚構〉を〈真実〉であるかのように見せる作家の権力性にまで話が及ぶことになった。こと短歌作品においては、テクストは〈真実〉としてふるまうべきだという一種の信仰のようなものも認められ、その信仰によって〈虚構〉的であると価値づけられた作品に対する論争もしばし巻き起こっている。しかし、テクストの〈虚構〉性をあくまで文学的に解釈するの

          虚構の真実【後編】 貝澤駿一

          坂田・清原論争を振り返る 永山凌平

           この記事の読者は坂田・清原論争をご存じだろうか。坂田博義と清原日出夫により1960年から1962年にかけて「塔」誌上で交わされた往復書簡的な論争である。一般に「「何を詠うか」vs「如何に歌うか」の問題認識をめぐる両者の応酬」(『塔事典』「坂田博義・清原日出夫論争」の項)と理解されている。「塔」最大の論争と言われることもある(※1)ようで、半世紀以上前の論争ながら、現在でも数年に1回は「塔」誌上に話題が上がる重要な論争である。  一方で、「塔」の外でこの話題を見聞きしたことが

          坂田・清原論争を振り返る 永山凌平

          “推”進力 丸地卓也

           「歌壇」二〇二一年四月号の時評で平岡直子が以前ある人物から歌集を出さないかぎり歌人としては「無」なのだと言葉をかけられたことを述懐している。歌集は節目であり暗黙の了解でそのような風潮はみられる。一方で自費出版や謹呈文化への批判もたびたびなされてきた。内容としては経済的な負担の大きさと、読者と作者がほぼイコールで結ばれるジャンルの宿命、商業主義から距離を置くことで文学的本旨を遂げることができるなどの結語で結ばれてきたように思う。平岡自身も歌集がないと歌人ではないという発想自体

          “推”進力 丸地卓也

          虚構の真実【前編】 貝澤駿一

          前回の記事(永山凌平「リアリズムについて考えたこと」)を読んで、なかなか刺激的でおもしろい論考だと感じた。もっとも、記事内で取り上げられているクールベ(画家)やロラン・バルト(哲学者)の思想について僕は特に詳しくはないので、批判的に読み解けるほどではなくもどかしい部分も多かった。そもそも〈リアリズム〉という言葉の出発点が違っていたのだ。 僕は〈リアリズム〉という言葉を聞くと、すぐにチャールズ・ディケンズやセオドア・ドライサーといった名前を思い出す。いわゆる文学運動としての〈

          虚構の真実【前編】 貝澤駿一

          リアリズムについて考えたこと 永山凌平

           先日、小林剛の『アメリカンリアリズムの系譜』という書籍を読んだ。ヨーロッパよりも歴史の浅いアメリカ美術が、ヨーロッパの伝統的なリアリズムとは異なる特有のリアリズムの歴史を有しているという内容で、なかなか面白い内容だった。書籍の中では、ヨーロッパとアメリカのリアリズムの違いを論じるためにいくつかの視点が導入されているのだが、それらを読んで少なからず短歌のリアリズムについて考えさせられることがあった。本稿では『アメリカンリアリズムの系譜』を読んで考えたことを簡単に書き残しておく

          リアリズムについて考えたこと 永山凌平

          青の死―稲森宗太郎昭和四年の歌について― 丸地卓也

           稲森宗太郎は明治三十四年生まれ、咽頭結核により昭和五年に没した。早稲田大学文学部国文学科卒で、「地上」、「槻の木」に所属し窪田空穂に師事するなどこてこての空穂の系譜である。歌集は私家版を除くと遺歌集『水枕』をのみで夭折の歌人といって差し支えないだろうが、生きていればさらに知られた歌人になっていたに違いない。昨今の書籍では小高賢編『近代短歌の鑑賞77』(二〇〇二・六/新書館)で、内藤明が「同時代のものとしてのモダンな感覚は短歌的なものを一度遮断し、しかしそれは再把握・再構築す

          青の死―稲森宗太郎昭和四年の歌について― 丸地卓也

          感覚の話 笹川諒『水の聖歌隊』について 山川創

          世の中の一人ひとりに待望の歌集というものがあるわけだが、今年のわたしにとっては笹川諒『水の聖歌隊』がそうだった。笹川さんは短歌人会において、常に気にしている書き手のひとりだったからである。 椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって 巻頭の歌である。物理的には安定したとしても、この世には浅く腰かけているに過ぎないという浮遊感がある。それは「何かこぼれる感じ」につながるが、しかしこぼれるものが何かはわからない。あくまで感覚の上でのことだからである。 このよう

          感覚の話 笹川諒『水の聖歌隊』について 山川創

          <不在の感覚>が消えるまでー土岐友浩『Bootleg』『僕は行くよ』を読む 貝澤駿一

          2015年発表の土岐友浩『Bootleg』を数年ぶりに読み返す。もちろん、土岐の第二歌集『僕は行くよ』の情報が入ってきたからだ。改めて『Bootleg』を読むと、この数年の間に自分の中に出来上がってきた定型や韻律の感覚が、この歌集のそれとは相いれないものになっていることに気が付いた。 ーーーーーーーーー クスノキが風に吹かれて揺れているここで待ち合わせをしたくなる カーテンには鳥の刺繡が施され見えるということは隠すこと 一首目は「ここで待ち合わ/せをしたくなる」、二首

          <不在の感覚>が消えるまでー土岐友浩『Bootleg』『僕は行くよ』を読む 貝澤駿一