1960年代の仮名遣い考 永山凌平

 1960年代の「短歌」(角川書店)を眺めていると、仮名遣いを始めとした表記の問題についてかなり熱く議論が交わされていることに気づく。ただ、誌面を読んだ当初の私はこのことに少し違和感を覚えた。例えば内閣告示の「現代かなづかい」や「当用漢字表」が交付されたのはともに1946年である。また、直接的には表記の問題に関わらないが、桑原武夫の「第二芸術論」が発表されたのも1946年である。いずれにせよ表記の問題のきっかけとなる出来事からは10年以上経過しているのだ。なぜ10年以上を経て改めて表記の問題が論じられているのか。理由はいくつかあるだろう。

 1点目は福田恆存による『私の國語教室』(1960年)の影響が挙げられる。本書は現代仮名遣いを始めとする戦後の国語改革批判であり、当時はかなり影響力を持っていたらしい。賛同するにせよ反発するにせよ、国語改革を評価しなおす時期であったことは確かだろう。

 2点目は1961年3月に起きた国語審議会の分裂事件である。これは、ローマ字化や漢字廃止などを支持する表音推進派と表意派(表音慎重派)との間で対立が激化し、表意派委員の脱退が起こった事件である。この事件は社会的にも大きくクローズアップされ、文芸や教育に関わらない人々にとってさえ国語国字問題はもはや無関係な話題ではなかったという。

 3点目は先述した私の違和感とは逆説的ではあるのだが、時間が必要だったということである。つまり、短歌を現代仮名遣いで表記するということに向き合い、作品で実践し、理論を構築するまでに10年以上の時間が必要だったのだと思う。実際、結社単位で見てみても、「現代かなづかい」から10年近く、あるいはそれ以上経ってから現代仮名遣いに統一した例が複数見られる。例えば、未来(1955年に現代仮名遣いに統一)、塔(同1956年)、ポトナム(同1960年)などである。

 以上のような理由もあり、1960年代の歌人たちにとって表記の問題は改めて向き合わなければならない命題だったのだろう。さて、本記事では1960年代の「短歌」を読みながら、現代の目で気になった話題について整理してみたいと思う。なお、主に対象とするのは1960年7月号の小特集「短歌表記の問題②」、1961年9月号の「特集・現代かなづかいと短歌」、1966年9月号の「特集 用語・用字」である。なお、以下では簡単のため現代仮名遣いを新かな、歴史的仮名遣いを旧かなと記す。

1.新かなは文語体に適用されるべきか

 内閣告示「現代かなづかい」は、まえがきで「このかなづかいは、主として現代文のうち口語体のものに適用する。」とはっきり断っている。旧かな派が短歌において旧かなの使用を主張する最も主流な根拠である。例えば木俣修が

だからいってみれば文語を用いて表現することを本体としている短歌にはこの現代かなづかいというものは適用されることのないものであるといってよいのである。
/木俣修「歴史的かなづかいを短歌に守るということ」(「短歌」1961年9月号)

と断言しているようにである。一方で、新かな派にも言い分はある。果たして短歌がどこまで文語であると言えるのか、という点だ。これについては新間進一の分析が的確だ。

 一体、現代短歌は
(一)純然たる文語詩なのか、
(二)口語的発想や表現を一部交えた文語詩なのか、
(三)また文語的発想や表現を相当多く残存した口語詩なのか
(四)それとも文語・口語の意識をすっかり超越した地点で作られているのか
ということを考えてみると、その辺の解釈が結社により人により微妙な差異があり、混雑した様相を呈しているように思われる。現状において、大体(二)に落ち着くのであろうが、その場合でも文語意識がどこまでに作家主体に潜んでいるかということは、大きな問題であろう。
/新間進一「現代短歌と現代かなづかい」(「短歌」1961年9月号)

 一方で、新かな派である吉田漱はより直接的に

現代短歌というものは、もう口語的な発想だ、というようなことを考えるわけです。大体文語というものを現代短歌の上ではあまり厳密に考えていないわけで、文語・口語を対立的に考えない、現代短歌の上で、詩語、というふうに考えていくということが一つと、それからかなづかいの問題もむしろ口語的な問題にひきつけて考えていること。
<中略>
つまり、文語といってはいいすぎがあるということですね。
/「座談会・現代短歌とかなづかい」(宇野隆保、玉城徹、島田修二、吉田漱、篠弘)より吉田漱の発言(「短歌」1961年9月号)

と発言している。新間の言うように文語的・口語的の解釈は結社や人によって異なるものだが、「現代かなづかい」の「主として現代文のうち口語体のものに適用する」という一文に「だから短歌に新かなは不適だ」とする声と「だから短歌に新かなが適用されるべきだ」という両方の声があるのは興味深い。

2.「出づ」「出ず」問題

 旧かな派からよく聞かれる新かなの問題点として「出づ」「出ず」問題がある。旧かなであれば「出づ」はイヅだから「出る」の意味、「出ず」はデズだから「出ない」の意味であると区別できるが、新かなで「出ず」はイズともデズとも読めるので意味を確定できない、という主張だ。もちろんこれは代表的な例であって、つまるところ新かなには語義との断絶があるため意味の区別が難しくなる、という問題に帰結する。これについては新かな派も苦労したようだ。例えば「未来」では

「出(い)づ」と「出(で)ず」と新カナでは區別出來ぬ。「入(い)る」と「居(ゐ)る」も同樣。このような場合本誌では、常識的に判断して、意味不明となる場合は、原則を捨てて暫く舊カナに從うのも止むを得ないとする。
/「未来」1955年10月号「後記」より岡井隆の記述

と明示している。つまり、新かなでも場合によっては部分的に旧かなである「出づ」を認めるとしている。このような対応は「未来」に限ったことではなかったようで、宇野義方は「まことに中途半端な処置」と批判している(「現代かなづかいと短歌」・「短歌」1961年9月号)。

 「出づ」「出ず」問題については、新かなを採用するからには「未来」のような姑息な対応ではなく、別の克服の仕方がされるべきではないか。これについては篠弘の次の意見に同意したい。

 これ(「出づ」「出ず」問題)に対してはいろんな克服のしかたがあって、両方ともひらがなにして「いず」にしたらいいじゃないかとか、あるいは「出(い)ず」と書いてルビをふればいいじゃないかというような意見もあったわけですが、これなどは新かなが作歌に滲透してくるにつれて、むしろ「出(い)ず」という言葉がなくなるという克服のされ方があるのじゃないか。
/「座談会・現代短歌とかなづかい」(宇野隆保、玉城徹、島田修二、吉田漱、篠弘)より篠弘の発言(「短歌」1961年9月号)

これには重要な視点が含まれている。新かなで「出ず」が不便だからこれを避けるということは、単なる表記の問題とも思われた新かな/旧かなの選択が、語や文体の選択に影響を与えるということだ。新かな派には、新かなによって新しい発想を主張する者もあるが、篠の発言はそれが十分あり得ることの証左になっている。この新かなによる新しい発想については章を改めて触れたいが、4章で触れることにして、やや遠回りになるが3章ではいったん別の話題を扱いたい。

3.旧かなの持つ陰翳

 旧かな派からは、旧かなには新かなにない陰翳があるという主張もよく見られる。例えば、木俣修は柿本人麻呂の「あふみのみゆふなみちどりながければこころもしぬにいにしへおもほゆ」や大海人皇子の「むらさきのにほへるいもをにくくあらばひとづまゆゑにわれこひめやも」を引きながら

「近江」は「あふみ」という表現によって、近江の国を感じ、「夕」は「ゆふ」によって夕方を感じとってきたのであって、「おうみ」「ゆう」ではもはや「近江」も「夕」もまっとうに感じとることはできないというのが実際である。また「おもほゆ」を「おもおゆ」、「こひめやも」を「こいめやも」としてはもはや作者の感動をじかに感受することはできないのである。
/木俣修「歴史的かなづかいを短歌に守るということ」(「短歌」1961年9月号)

と主張している。三国玲子が「新かなでは言葉の匂い、ニュアンス等が十分に発揮されないような気がする。」(「短歌」1966年9月号「アンケート・かなづかい」より三国玲子の回答)と言ったときの「匂い、ニュアンス」もこの類だと思われる。

 他にも、春日井建の言う「「硝子をひろはむか」と「硝子をひろわんか」の微妙な陰影の差」(「新カナ時代における短歌の旧カナ表現」・「短歌」1961年9月号)や高安国世の言う「「食らふ」「かくろふ」「わづらふ」「たゆたふ」などの語尾はそれぞれ、クラウとクロウ……タユタウとタユトウなどの両方のひびきを感じることのできる語で、<中略>文語に独特な含蓄のある音韻」(「その使用と発想との関係」・「短歌」1961年9月号)などは同類の主張である。

 ここで注意しなければならないのは、上記のような主張のほとんどが和語や文語ニュアンスの強い動詞であることである。1960年代当時でさえ現代的なモチーフは漢語や外来語が少なくない。つまり、現代的なモチーフによって詠われた短歌は必ずしも旧かなの「匂い、ニュアンス」が生きるものではなくなっていた。野中涼が岡井隆の「喘ぎつつ立つ人体はさびしくも或る鳥類に似つつ孕める」の「人体」や「鳥類」という語の現代性を指摘している(「短歌のコトバと認識」・「短歌」1966年9月号)が、このような現代的モチーフを詠み込みながら全体として和語・雅語のテイストや完全な文語脈を維持するのは難しい。旧かなの持つ陰翳というのも、モチーフの選択や文体によって活きたり活きなかったりするのである。

4.新かなによる新しい発想

 さて、「新かなによる新しい発想」の話題に戻りたい。当時の新かな派の歌人たちが夢見ていた新しい発想とは何なのか。主張をいくつか引いてみよう。

 新かなの採用によつて、作品の内容にも新しい魅力が加わると思います。語調や表現方法は、当然姿をかえてゆきます。平明で、あじわいの深いものを、ぼくたちはめざします。新かなになれば、古語などは、不調和になり、用いにくくなりましょう。詩的練度が高いという理由で、古語や雅語で一首の魅力を持たせる時代は過ぎたかと思います。
/坂田博義「「塔」の立場」(「短歌」1960年7月号)
新かなで「居る」が「ゐる」でなく「いる」とかくことで、「ゐる」にはなかつた感じが生れていると思う。<中略>現代かなの使用は、一つの今までに無い感じをもたらしただろう。
/吉田漱「「未來」の立場」(「短歌」1960年7月号)
 現代短歌は現代語(単に口語短歌というのではない)で、という考え方のもとに作歌していますので、新かなづかいです。現代の生活感覚に忠実でありたい。旧かなづかいでは作品のニュアンスがどうも文語脈に傾いてしまいます。
/「短歌」1966年9月号「アンケート・かなづかい」より加藤克巳の回答
文語は文語でも、もはやぼくたちは文語という特別な意識をもたず、口語的発想によりながら、ただ文章をひきしめ、五七五七七のリズムを生かすため、だらだらした口語をさけて文語を用いるので、この場合の文語はもはや古典を読む際の文語の感覚とは異なった感覚にもとずいている。だから新カナを用いてもさほど違和感はなく、むしろ新カナ使用によって、文語的発想や表現に代る新しい発想や表現を生み出す一つの機縁にもなるのではなかろうか、というのがぼくたちの考え方であった。
/高安国世「その使用と発想との関係」(「短歌」1961年9月号)

 坂田の主張は、結果として3章で触れた和語や文語脈と旧かなとの相性の良さ≒新かなとの相性の悪さへの反論となっている。新かなが和語や文語脈に合わないのならば、むしろ新かなを採用することでそれらから距離を置き、新しい表現を模索しようという主張である。加藤が「文語脈に傾いてしま」わないように新かなを採用するのも、古語を避けることもそうだろうし、2章で触れた「出ず」を避けることともつながるだろう。吉田の「ゐる」と「いる」の「感じ」の違いも、単なる視覚的な違いだけではなく、「ゐる」ではなく「いる」がマッチする文体の模索という側面もあるのではないか。

 新かながもたらす新しい発想とは、新かなを積極的に用いることによって新かなにはそぐわないと言われていた旧来の表現を避け、新しい表現を求めることだったのではないか。旧かなを新かなに変えるだけで何かがすなわち変わることはないが、古典的モチーフから現代的モチーフへの変化、文語脈から口語脈への変化などの志向と両輪駆動することによって、「新しい発想や表現」をもたらす重要な機縁たり得たのではないだろうか。

5.まとめ

 1960年代の「短歌」を通して仮名遣いについて考えてきた。当時は福田恆存による国語改革批判があった時代ながら、短歌界ではむしろ新かな派が10年以上の実践を通して信条・理論を強めている印象を受けた。しかし、2021年現在においても旧かなは廃れていない。むしろ岡井隆や馬場あき子など、後年になって新かなから旧かなに戻した作者も少なくない。このことは旧かなの持つ古語や文語脈との相性の良さでは説明できない。1960年代にこれ以外のスタンスで旧かなのメリットを説いた歌人はあまりいなかったが、数少ない一人に春日井建が挙げられる。春日井の主張を最後に引いて本稿を終わりとしよう。

 僕個人について言うならば、文語や旧カナは、むしろエキゾチックな修辞を展開させてくれる新鮮な用語でさえあった。それらが日本民族の伝統に支えられた言葉だというような認識は薄い。というよりも、そんなことは問題ではなかった。戦後教育によって現代カナづかいの習慣に染んでいる僕にとっては、文語や旧カナ表記をする心理状態には、非現実的なものへの参加という、様式文学にふさわしい美意識が相当量ひそんでいるようであった。現実に反目する次元においてのみ魂の志向は完全に自由だったのだ。
/春日井建「新カナ時代における短歌の旧カナ表現」(「短歌」1961年9月号)

2021.7.17 gekoの会 永山凌平


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