感覚の話 笹川諒『水の聖歌隊』について 山川創

世の中の一人ひとりに待望の歌集というものがあるわけだが、今年のわたしにとっては笹川諒『水の聖歌隊』がそうだった。笹川さんは短歌人会において、常に気にしている書き手のひとりだったからである。

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって

巻頭の歌である。物理的には安定したとしても、この世には浅く腰かけているに過ぎないという浮遊感がある。それは「何かこぼれる感じ」につながるが、しかしこぼれるものが何かはわからない。あくまで感覚の上でのことだからである。
このような浮遊感は、この歌集に通底するものである。

増やしてもよければ言葉そのもののような季節があとひとつ要る
飼い慣らすほかなく言葉は胸に棲む水鳥(水の夢ばかり見る)
こころが言葉を、言葉がこころを(わからない)楽器のにおいがする春の雨
こころではなくて言葉で写しとる世界に燃えたがる向日葵を
噴水よ(人が言葉を選ぶときこぼれる言葉たち)泣かないで

「言葉」に対する感覚や認識が様々なかたちであらわれる。
一首目で欲しているのは特定の言葉ではなく抽象化された「言葉そのもの」であり、しかもそれを字や音ではなく季節、いわば肌感覚として受容したいという。強い希求である。
二首目、しかしまた、主体にとって言葉は飼い慣らすほかないものである。だがそれは容易ではないだろう。ここでは言葉は水鳥に喩えられるが、水の夢は水鳥の不在を強調するかのようで示唆的である。
三首目、穏やかな春の雨がもたらす楽器のにおいは直接的には嗅覚を、そしてその楽器に紐付いた音が聴覚を刺激する。その中にあって、言葉とこころはどちらが先にくるものか、わからないが自問し続ける。
そして四首目で「こころではなくて」とあえて書かれていることは、前の歌から一歩進み、どうあっても言葉によって世界を写しとるという決意表明のようにも受け取れる。
五首目。実際に書かれたり話されたりした言葉よりも、そこからこぼれた言葉の方がはるかに多いことだろう。それを打ち上げられては落ち続ける噴水の姿と重ね合わせる。「泣かないで」というフレーズは、それでも言葉を選び続ける自分自身に向けられているかのようである。

こころを面会謝絶の馬が駆け抜けてたちまち暮れてゆく冬の街
優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊
感情を静かな島へ置けば降る小雨の中で 踊りませんか
雨、そしてクリシェを避けてたどり着く画廊は長い手紙の代わり

そうして「選ばれた」言葉によって作られた、詩的飛躍が強烈な歌が並ぶ。
いずれも論理的に意味を追うことができるわけではないが、それだけに言葉を選ぶセンスが際立っているように思う。

バグパイプのくきやかな音を聴きながら七月は縦の季節と思う
平行に並んで歩けば舫われた舟のよう はるか鉄琴の音
半音階で鳴く鳥のためしばらくはみんな黙っている夜明け前
振り返り、また振り返る。永遠にオーボエでAを吹く少年を

もうひとつ、目についたのは、聴覚から世界が膨らんでいくような歌である。
一首目、バグパイプの明瞭な音は七月の爽やかなイメージと無理なく結びつき、さらにそこから縦の季節という感覚が導かれる。
二首目では並んで歩くことをつながれた二隻の舟に喩える。その歩みには揺らぎがあることだろう。そこに遠くから聴こえてくる硬質でまっすぐな鉄琴の音は、その揺らぎと対照をなすかのようである。
三首目、流れるように下降(あるいは上昇)していく鳥の声を聴くため、みんな黙っている。その光景は夜明け前という時間と相まって、若干の聖性を帯びているようにも思える。それぞれが黙りながら鳥の声にどのように耳を傾け、何に思いを馳せるのか。
四首目、オーケストラで基準音となるオーボエのAを吹き続ける少年。実際にはそれを聴いたのは通り過ぎる少しの間だったのかもしれない。しかし繰り返し振り返ることによって、自分と対比するかのように不動である少年の様子と、その間も流れ続けているAの音が脳裏に焼き付く。そしてそれはこの歌集の世界において、文字通りの永遠に昇華するかのようである。
これらは前掲の詩的飛躍が強い歌とは少し違う形で、しかし独自の詩世界を立ち上げているように思われる歌たちである。

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余談であるが、2020年に髙瀬賞(短歌人会の結社賞)を受賞した連作は本歌集には未収録となっている。
どのような理由によってかは知る由もないが、邪推するならば、本歌集の世界にそぐわない部分があると判断されたからではないかと思う。そして、もしそうだとしたら、それには大いに賛成なのである。

2021.2.20 gekoの会 山川創

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