孤児の文学 貝澤駿一

曾祖父と曾祖母の名を確かめる墓碑に積もりし雪を払いて/田中拓也『東京(とうけい)』

おそらくこの作者は〈曾祖父〉と〈曾祖母〉に会ったことがないのだろう。優しく雪を払いつつ自らのルーツにつながるその名を〈確かめる〉という行為には、どこか好奇心旺盛な少年らしい趣きも感じられる。わたしがそう――つまり、おそらく40代~50代の男性である作者の歌にもそのような少年性を――直感的に感じたのは、この歌を読んである有名な文学作品の冒頭のシーンを思い出したからだ。

父の姓はピリップで、私の名はフィリップだった。(中略)父の姓がピリップだというのは父の墓石と、姉すなわち鍛冶屋の妻ジョー・ガージェリー夫人を拠り所とする。父の顔も母の顔も見た覚えがなく、絵に描かれた姿も知らなかったから、(中略)彼らの人となりについての私の最初の考えは、理不尽にも墓石に基づいていた。父の名を刻んだ文字の形からは奇妙にも、角ばって、がっしりした、黒い巻き毛の日に焼けた男性を想像し、「ならびに上の者の妻、ジョージアナ」という碑文の字体から、母はそばかすが多く、病弱な人だったという子供っぽい結論を導いた。
チャールズ・ディケンズ『大いなる遺産』(河出文庫・佐々木徹訳)

ディケンズはわたしにとって最も親しみ深い作家の一人だが、なかでもこの『大いなる遺産』はわが偏愛の物語と言ってもいい作品だ。主人公のピップは冒頭からこのように、「孤児」という鎧をまとって登場する。夢見がちで想像力に富むピップは、墓石に書かれた父と母の名前から、会ったことのない両親がどのような人間であったかを想像するのである。ピップ少年の長い長い冒険は、このあと沼地である囚人と偶然に出会ったことから始まるのだが、それは常に、「孤児」である自分が何者であるか知りたいという思いに突き動かされるものであった。

わたしも経験があるが、墓石に刻まれた名前は往々にして想像力の友達になる。(子供のころの話だが)墓参りに来ると、その一族がどのような変遷をたどってきたか、自分の親族だけではなく、隣接する他の家の墓石もついついのぞき込んで想像していたのだ。若くして亡くなった人の名前を発見すれば、その人が短い人生をどのように生きたかを思いめぐらせ、大往生したと思われる人がいれば、その人物が成し遂げたこと、さぞ立派な人物であっただろうと敬服する。そして、いつかここに「自分の」名が刻まれる日を、思わずにはいられなくなる。

こうして墓碑を確かめるという行為は、過去・現在・未来という時の流れのある一点に立つ〈われ〉という肖像を実際化させる。会ったことのない〈曾祖父〉や〈曾祖母〉の墓碑に向き合っている〈われ〉は、ここで孤児のピップと同じような精神性を得ているのではないだろうか。生きていれば当然、自分を愛してくれただろう血のつながった〈家族〉の墓石に相対するとき、そこには生きて「ここにいる」者と、死んでしまって「ここにはいない」者の離れがたい、しかし漠然とした繋がりが生まれる。孤児であるピップはその繋がりを何よりも大切にして生きていくし、孤児ではない者もまた、本来は失われたその繋がりをかけがえのないものとして引き受けるのである。

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孤児の文学、もとい自分のルーツを探す子供の成長小説というジャンルは、ディケンズ以降英米文学の伝統として位置づけられるものである。『大いなる遺産』に加え、『オリバー・ツイスト』『デイヴィッド・コパフィールド』がディケンズ孤児文学の代表作として挙げられるが、その物語の構造はミュージカルの「アニー」や、厳密には孤児ではないがバーネット夫人の『小公女』『小公子』といった児童文学などに引き継がれている。中でもディケンズ的孤児の文学を最も正当に引き継いだのは、J.K.ローリングによる世界的ヒット小説『ハリー・ポッター・シリーズ』である。

主人公のハリーは両親を闇の魔法使いヴォルデモートによって殺され、みじめな孤児として物語に登場する。わずかに血のつながったマグルのダーズリー夫妻に虐められている様子は、さながら母の再婚相手であったマードストン姉弟の迫害を受けたデイヴィッド・コパフィールドのようだ。ひょんなことから自分が偉大な魔法使い(になれる可能性のある人物)であることを知ったハリーの姿に、突然謎の遺産が転がり込んできたあの夢見がちなピップの造形を重ねることは難しくない。ピップの親友ハーバートは、ハリーにとってのロン・ウィーズリーにあたる人物で、孤児である主人公が知らない世界を案内してくれるガイド役にあたる。このように、おそらくローリングは、ある程度キャラの設定やストーリーの〈お約束〉を、ほかならぬディケンズから借りてきているのだろう。こうしてハリーという孤児の物語は、イギリス文学の伝統にきわめて忠実な形で進行していくのである。

だが、『ハリー・ポッター・シリーズ』が真に「孤児の文学」と言えるゆえんは、物語のカギを握るもう一人の孤児、すなわちヴォルデモート卿ことトム・リドルの存在があるからである。リドルの生い立ちはハリーのそれよりも悲惨なものだった。魔女である母はマグルである父に捨てられ、リドルを産んでこと切れる。リドルは(のちに憎むべき)祖父と父親と同じ名を付けられ、産まれたその日に孤児院に預けられたのである。

この境遇はまさしく、華やかなヴィクトリア朝の影の部分をほかならぬ子供の目で描いた傑作、『オリバー・ツイスト』の冒頭を思い出させるものだ。リドルもオリバーも、母の顔も父の顔も知らない孤児であり、父と同じ名を持ち、孤児院でのみじめな暮らしに耐える運命を与えられる。ほんのわずかに家族と幸せな時間を過ごしたことがあるハリーが、同じように母の再婚までは幸せに暮らしたデイヴィッドや、両親はいないが育ての親である実の姉夫婦のもと、ある程度の愛情を与えられて育ったピップのような孤児として現れるのならば、リドルは生まれた瞬間に孤児であることを約束させられたオリバー的孤児として現れる。しかし、オリバー・ツイストの物語が、正しく〈ディケンズ風〉に「最終的には元の鞘に収まる」ものであったのに対して、トム・リドルの物語は壮絶を極め、やがて彼は稀代の闇の魔法使いという悪の道へと突き進んでいく。

デイヴィッド・ピップ的孤児であるハリーと、オリバー的孤児であるヴォルデモート。孤児という世界の中では対照的な二人だが、共通点は多い。そんな二人がともに自らの「ルーツ」という謎に関心を抱くのは当然であろう。互いが互いになる可能性を、この二人は共有している。そんな運命の物語を、読者は慣れ親しんだ〈ディケンズ風〉年代記を読み進めるように受け取るのだ。

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鎮魂碑すぎゆく風は父の声生くる方位をわれに問うなり
父が征(ゆ)きし湾とし聴けばはろばろと虹たつ朝にわれは来ており
日のくれを降りゆく坂にかすかなる風あり家族(うから)と呼ぶもの持たず/田村広志『旅の方位図』

1941年生まれの田村は、物心つく前に戦争で父を亡くした世代にあたる。ほとんど記憶を持たないからこそ、田村にとっての父は自らの「ルーツ」を意識させる存在として現れるのだろう。


こうして歌われる田村の〈父の歌〉は、まさに孤児という精神性を体現したと言えるのではないだろうか。『旅の方位図』には老いていく母との日々を歌った作品も収められている。しかし、この歌集を出した壮年の歌人が、自己を見つめ、その奥にある孤独を向き合うためには、まさしく「戦争で父を亡くした孤児」という運命に立たなければならなかったのだ。

生まれながらの孤児ではない、しかし、誰もがいつか孤児となる運命を抱えながら、我々は生きていかなければならないのである。


2021.08.07  gekoの会 貝澤駿一

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