虚構の真実【後編】 貝澤駿一

前回の記事(虚構の真実-前編)では、文学的〈虚構〉をテクストがそれ自体〈虚構〉的にふるまうものであると考えるテリー・イーグルトンの理論をふまえ、逆説的に〈虚構〉を〈真実〉であるかのように見せる作家の権力性にまで話が及ぶことになった。こと短歌作品においては、テクストは〈真実〉としてふるまうべきだという一種の信仰のようなものも認められ、その信仰によって〈虚構〉的であると価値づけられた作品に対する論争もしばし巻き起こっている。しかし、テクストの〈虚構〉性をあくまで文学的に解釈するのであれば、読者による短歌作品それ自体の〈虚構〉裁判のような手続きは無用のものと判断するにほかないだろう。なぜなら、イーグルトンの論理に従うのであれば、テクストそれ自体の非〈虚構〉性を証明することは難しくなってしまうからである。

田中翠香「光射す海」五十首(第66回角川短歌賞受賞作)は、そのような短歌連作の〈虚構〉裁判にさらされたもっとも新しい作品のひとつである。戦場カメラマンとして生きる主体を〈虚構〉的に創作したと思われるこの一連は、いい意味でも悪い意味でも〈虚構〉であることが評価の対象となり、それが作品の価値を高めるほうへも低めるほうへも作用した。「光射す海」以前にも新人賞における〈虚構〉問題(筆者が結社に所属し本格的な活動を始める少し前のことでもあるため、その話はしない―できない―ことにしている)は生じており、そのたびに喧々諤々の議論がくりかえされてきた。しかし、田中の受賞は彼が筆者の同学年であり、近しい関係の歌人でもあっただけに、筆者自身もこの「光射す海」を通じて、想像以上に根深い短歌と〈虚構〉の問題について改めて考えるようになった。

「光射す海」は、次のような〈ストーリー〉に基づいて詠まれた連作である。主人公は友人らの反対を押し切ってシリアへ飛び、そこで戦場カメラマンとしての職に従事する。紛争というシリアの暗い〈現実〉に目を向けつつも、そこで逞しく生きる人々、とりわけ子供たちの姿をシャッターに収めながら、歌を詠み、目の前で起こっている〈現実〉を克明に記録していく。物語の終盤、現地の学校での臨時教員として働いていた主人公のもとへ、ある日突然「退避令」が届き、彼はシリアを去ることになる。やがて迎える脱出の日、極限の緊張感の中を主人公は亡命に成功し、新たな世界への希望をもって戦地を後にする。

いかにも小説や映画のようにまとめられる作品だが、これは短歌連作として提示されたものだ。「戦場カメラマン」というこの作品の主体は、田中の創作によって立ち上げられた別人格であると言えよう。それを踏まえたうえで、「光射す海」を読むうえで重要な歌を数首引いてみる。

空爆を知らない国の空港へ降りゆく雨を少年と聴く
「あまりにも生々しい」と拒否された通信社へと送りし写真
夕暮れの難民キャンプを抜け出した少年と見る光射す海

〈空爆を知らない国〉から〈空爆を知る国〉への旅路が始まる一首目、戦場を映し出すという過酷な仕事に従事する自分と、外部との奇妙な温度差に落胆する二首目、難民というつらい〈現実〉にもひとすじの希望を見出そうとする三首目と、どの歌も場面と心情をよく切り取っている。これらの歌は散文的な作りであり、状況や場面を読者に手渡すのみであるが、それらが読者の中で肉付けされることによって、それ以上のふくらみをもって読まれるという仕組みになっている。映画『スタンド・バイ・ミー』でときおり挿入される、成長した主人公の小説家による回想的な〈語り〉にも通じる部分がある。こうした歌を破綻なく作ることができるのは、田中が優れた歌人であることの証左だろう。

一方で、次のような歌では、ジャーナリズムやドキュメンタリーのような構成を意識してなのか、ある世界の細部に宿る〈リアリティ〉(と、読者が思うような部分)を正確に拾い上げることに重点を置いているようである。

トルコからシリアへ向かう検問の事務所にかかるルノワールの絵
死者たちはビニールシートにくるまれて半目を開けてみな空を見る
水を飲みシートベルトを外したらそっときらめくTOYOTAのロゴよ

検問所にかかる〈ルノアールの絵〉が浮いている様子や、死者たちが〈半目を開け〉ているという身体性、日本人であるという自身のアイデンティティにも通じる〈TOYOTAのロゴ〉へのミクロな注目に、読者はある言いようのない〈真実〉、言い換えれば、その世界におけるひとびとの〈リアル〉な声を聴くような感触になる。一方で、なぜそのような感触が生まれるかといえば、とりもなおさずその〈リアリティ〉が綿密に作り込まれたものであるからであり、それが本当に〈真実〉と同値であるかという点については、一定の留保がなければならないとも思う。

読者は〈リアル〉な短歌作品を読む際に、〈それを見てきた人でないとこんなふうには歌えない〉ということを評価の中心に置いている。だが、ある〈リアリティ〉は、〈現実〉をより〈現実〉らしく見せるために置かれた〈虚構〉であるということも、立派な文学的手法のひとつである。「テクストはそれ自体〈虚構〉的にふるまうものであり、テクストの形式をとる時点である程度〈虚構〉的だ(※前編参照)」という、イーグルトンの話を思い出してもいい。したがって、これらの歌は「〈現実〉をより〈現実〉らしく見せるために置かれた〈虚構〉である」と判断されてもおかしくないだろう。

「〈現実〉をより〈現実〉らしく見せるために」という視点から、〈虚構〉的にふるまわざるを得ない〈リアリティ〉が生まれることを、それ自体作家の〈権力〉である、と考える理屈がここに成立する。これはジャーナリズムやドキュメンタリーの世界において、つまり作者が題材をとらえる目線が重要となってくる分野において、より深い問題となりうるだろう。「光射す海」の〈虚構〉性がはらんでいる問題は、短歌作品の良し悪しというよりも、むしろこうした〈権力〉について作者がどこまで自覚的であったのか、自覚的であったとするならば、それをどのように行使することで自分の文学的、ないしは〈虚構〉的世界を正当化しようとしてきたのか、その倫理的側面が問われているような印象を持つ。なぜなら田中は、シリア内戦という目を背けてはいけない〈現実〉の上に立ちながら、短歌作品による〈リアリティ〉という〈虚構〉を上乗せすることで、そこにある一定数の読者が〈真実〉として判断するだろう物語を〈虚構〉的に立ち上げてしまったからである。平凡な言い方をすれば、それは作家がある〈現実〉から受け取る〈インスピレーション〉として片づけることができる。しかし、一方で短歌形式という特殊性が、単なる〈インスピレーション〉ではなく、〈現実〉と陸続きである作者の実像を求めてしまうために、実際には存在しない語り手が〈真実〉の物語を語るという、いびつな構造に対する抵抗が生まれてしまったのである。

筆者は「光射す海」の〈虚構〉裁判においては、以下のような要素を総合的に判断するべきではないかと思う。 

① 作者(=田中翠香)と作品の主体(=戦場カメラマン)の属性が不一致であること
② 一方で、題材(=シリア内戦)がある程度の現実感をもって描かれていること
③ しかし、②における〈現実〉には、「〈現実〉をより〈現実〉らしく見せるために」作者によって恣意的に置かれた〈虚構〉が含まれているということ
④ ③を踏まえたうえで①に立ち返るとき、属性の一致しない作者は、そうした〈虚構〉によって塗り替えられる〈現実〉があることに対して無自覚に権力的ではないかということ

①の観点においては、このような作者と主体の属性の不一致を抑制する理屈は、むしろ作者のそれを積極的に開示しないケースが増えている現代の状況を考えると、成立させるのは難しい(個人的にそれを〈選択〉するかは別として)のではないかと思う。そもそもわれわれはある一定以上の関係性になければ(たとえば筆者は田中本人と友人の関係にあり、互いの属性についてある程度の情報を持っている)、作品と作者の属性の一致を判断することが
できないと考えるのが自然だ。また、②に関しては、これは作者の〈インスピレーション〉につながる部分として、それそのものに相応の作者性を認める必要がある。

しかし、③についてもう少し言えば、〈リアリティ〉とは〈虚構〉であり、ある程度はテクストによってそれらしく生成することが可能であるということに、田中は気づいていたと思われる。(「破裂した水道管より水を汲む少女は夏の花の名を持つ」はそのいい例だ)。もちろん、それは正当な文学的手法として認められている。だが、作者そのものの身体性がときに神経質なほど作品の〈真実〉性に関与してくる短歌連作という形式にあって、なおかつこのようなジャーナリズム的題材を選択するのであれば、「光射す海」における田中の姿勢はやや無防備であったようにも思う。そして、そうした姿勢が〈リアリティ〉の中に垣間見えてしまうことによって、読者は④のような疑念を「光射す海」に抱かざるを得なくなるのである。

「光射す海」を読んだ感想が書かれたツイートの中には、「〈虚構〉でこれだけの世界を作り上げることができたのはすごい」というような、直接的な礼賛も一定数見受けられた。だがそれは、クトゥルフ神話やハリー・ポッターのように、ある〈世界観〉が作者によって作り上げられたまったくの〈虚構〉であるということを評価するのとはベクトルが違う。なぜなら「光射す海」が描いたシリア内戦という〈世界〉自体は、想像上のものでも文学的に創作されたものでもなく、われわれの〈現実〉に重くのしかかるものだったからだ。あえて厳しい言い方をすれば、「光射す海」が〈虚構〉性を内在することは、それを自在にコントロールできてしまう作者の無邪気な権力によって〈現実〉のほうを塗り替えてしまう可能性を否定できない。たとえばこの連作がのちに歌集に収められたとき(そのころには〈現実〉もある程度いい方向に変わっていると仮定して)、われわれは〈ルノアールの絵〉のような〈リアリティ〉を素直に〈リアリティ〉として受け取ることができるのだろうか。おせっかいかもしれないが、そんなことをつい考えてしまうのである。

2021.06.05 gekoの会 貝澤駿一

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