黄金の林檎に通じる文体 丸地卓也

 坂井修一の作品論は『ラビュリントスの日々』(一九八六)の解説で永田和宏が歌と学問の二項対立の問題を指摘したところから、反論・補論を展開するかたちで主に主題について考察が深められてきた。情報工学の研究者でもある坂井の活躍と、インターネットの普及は時代的に重なり状況論的にも語ることができるので、主題の論考が多くなるのは必然でもあった。しかし、坂井こそ文体を意識している歌人で、歌集を上梓するたびに文体も刷新している。初期の作品だと『スピリチュアル』(一九九六)のあとがきで「韻律への偏愛を重ね、発語への試みを重ねていても、振り返ればその貧しさを恥じいるほかはない。」と自己韜晦を交えつつ自己表明しているのである。

パイ皮のなかの林檎のほのかなる黄金の熱easy! easy!  『スピリチュアル』

この歌について、香川ヒサが「短歌」(一九九六・四/角川文化振興財団)で「共同体や制度、システムに対する違和感」であると述べている。パイは市場にも使う比喩で、パイに潜む林檎、すなわち金脈がeasyなのである。この短いリフレインがグローバル経済のスピード感と浅薄さを表現しているのである。坂井はリフレインを多用して思索的な歌に愛唱性とスピード感を出しているのである。

路傍なる巨大ポリバケツかたはらにわがひからびて泣きてゐるなり 『牧神』

 吉川宏志は「MUSES」(平成十五年春号)で引用歌について幼児性や攻撃性を指摘し、秩序と破壊願望の間で分裂する「我」を、緊縛するように歌う。そこから詰屈感、重量感のある独特な文体が生まれていると指摘する。これは先述のパイ皮の歌にも当てはまることで、世界の最先端に触れてきた坂井が感じているヒリヒリとした危機感が文体で読者に伝わる。先に引用した『牧神』(二〇〇二)の上梓のため時間が経っている。近作を鑑賞しながら改めて坂井の文体について考えていきたい。

ごらんぼくの髄までしやぶりつくすから ああうつくしい東京の夜『縄文の森、弥生の花』
上林下若食はずに運ぶやまとあり 上林とは屍上若とは蜜

 ごらんぼくのの歌は口語の歌である。情報工学と文学の二足のわらじを履いている坂井の夜は長い。東京は悪魔的に坂井を苛むが、そこには都市美や、刺激があるのである。坂井は重量感や様式性のある文体であるヴァースから、本来的なライトヴァースへと推移していくのだが、この歌はその一端を担っている。上林下若の歌は、一般的には上林は果物で、下若は酒である。やまとありが飲食をせずに、集合的生のひとつとなって働くところに、勤勉ではあるが生産性が低いといわれている日本人へのアイロニーが込められている。この歌もリフレインがあり、ゆったりと、読者に示唆するような意図がある。〈おのづからチキン修一となりゆかむローソンのチキン・ケースのなかに〉の自らをチキンという心境について、柳澤美晴が「かりん」(二〇一四・二)で「「イノベーションか死か」という(略)この言葉が、いかに坂井を苦しめているかを思う。」と述べている。そのような重いモチーフを戯画化しライトに表現した歌であるが、『縄文の森、弥生の花』(二〇一三)以降こうした歌は増えていく。

「偶数回まちがへたなら正解」といへば爆笑!(けふは平和だ) 7/5『亀のピカソ』

 詞書に「「先生、その式、Xの符号が間違っています」「そうだね。奇数回間違えたらしい」」と書かれている。ちょっとしたケアレスミスをウィットに歌にしている。『亀のピカソ』(二〇一四)はあとがきで猥雑な私、奔放な私を歌うのに躊躇を欠いたところもあると書かれている。文体は前歌集よりもより肉声めいてくる。

 もう一方の側面が『青眼白眼』(二〇一七)である。『亀のピカソ』は『青眼白眼』と同時期につくられた歌が収められ、『亀のピカソ』は陽性の本なのに対し『青眼白眼』は陰陽混交であり、少し陰に片寄っているようだと自解している。松平盟子は「短歌」(二〇一七・九/角川文化振興財団)で陰の歌として〈しじみ蝶経済世界に縁なきはしんしんとよき凪に逢ふかも〉を挙げている。経済世界という社会的事象に詩想は及ぶが、〈しじみ蝶〉、〈しんしんと〉、〈凪〉、そして〈かも〉と抑制的に詠っている。坂井は同時期に両極端な文体を駆使するという困難を成しとげ二冊の歌集を世に問うたのである。

痩面よ、わたしはどこで死ねばいい? 銀杏萌ゆれば空たかくなる『古酒騒乱』

 その後上梓された『古酒騒乱』(二〇一九)の文体は『青眼白眼』を発展、継承した文体がみられる。痩せ面の歌は前に〈和より乱 音なくさむくうつる世はふかく黙せよ氷見の〉がありセットで読みたい。痩面は夫を待ちわびて亡くなった女の霊に使用する面で、骨格があらわにあるほど痩せ、暗い眼が印象的である。そんな死の象徴である痩面に坂井は、乱の世に沈黙を保ち、死・その他関連する文化は死なずに痩面のようにとどまってほしいと願う。そして、引用歌のように死の象徴である痩面に自らの文化における死を問うのである。口語体ではあるが、それは反知性主義や全体主義が力を増してきている危機感から出た切迫感のある声であり、『亀のピカソ』の陽の歌とは似て非なる文体である。坂井の歌の文体は重厚なヘヴィヴァースから、自己戯画化や口語を取り入れながら、本来的なライトヴァースになる。その後、陰陽を昇華させ、かろみと重みを兼ね備えた文体をまとう。斉藤斎藤は「かりん」(二〇二〇・一)で、坂井が近代を〈ほろ酔い気分で〉問い直す視線があることを指摘している。

神ゼウス葡萄畑で放屁してあるきはじめるあけがたの道

 ギリシャ神話に思いを馳せつつもゼウスの人間臭さをユーモラスに描く歌もある。近代日本だけでなく人類の営みをもほろ酔い気分で再起動する意識がある。さて、ほろ酔いの底に隠された黄金の熱を、読者は見つけられるだろうか。森鷗外、木下杢太郎、斎藤茂吉、塚本邦雄など坂井の辿った道を追体験しながら、黒霧島を傾けてみよう。そこには再起動された人類史がみえるかもしれない。

「gekoⅡ」(二〇二〇・十一)所収

2021.9.4 gekoの会 丸地卓也

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?