青の死―稲森宗太郎昭和四年の歌について― 丸地卓也

 稲森宗太郎は明治三十四年生まれ、咽頭結核により昭和五年に没した。早稲田大学文学部国文学科卒で、「地上」、「槻の木」に所属し窪田空穂に師事するなどこてこての空穂の系譜である。歌集は私家版を除くと遺歌集『水枕』をのみで夭折の歌人といって差し支えないだろうが、生きていればさらに知られた歌人になっていたに違いない。昨今の書籍では小高賢編『近代短歌の鑑賞77』(二〇〇二・六/新書館)で、内藤明が「同時代のものとしてのモダンな感覚は短歌的なものを一度遮断し、しかしそれは再把握・再構築することで、稲森はこの詩形を現在に生かそうとしていたといえよう」と完結かつ的確な鑑賞をしている。筆者ブログ「浮遊物」(「青い回答 稲森宗太郎ノート、二〇二〇・四・十六、http://fuyuubutu.blogspot.com/2020/04/blog-post_16.html?m=1、(最終閲覧日二〇二一・二・二七))では、内藤の論じたモダン様な感覚について、モダニズムの力強さを視界にいれつつも、繊細さや脆さに心寄せする作歌態度がみてとれることを示唆している。軒先の動植物や近隣の情景といった限られた範囲と、限られた時間のなかで、表現史的に無視できない作品を残した歌人である。


畳にしおきてながむる鉢の罌粟《けし》かそかにゆるむ人のあゆむに


 さて、筆者はブログで人の歩むときの空気の移動や振動でゆるむという感性の鋭い歌であると鑑賞したが、ひとの来訪で心が開いたというわれの投影と読んでもおかしくはない。稲森の歌はどちらかというと上に述べた表現論や夭折の歌人として語られがちである。稲森の人生に照らし合わせると晩年の作品は死を意識し始め、稲森の技術がひかる歌の中に生死の葛藤がみてとれる。本文では昭和四年の作品に注目して表現の先にある生命観を鑑賞したいと思う。昭和四年の作品群は咽頭結核も悪化してきて静養を勧められる病状であり、「馬鹿になつたつもりで、なまけてゐよといふ。なまけまいと心に思つて、いつなまけないでゐたらう。どうせは同じだ。なまけよう、気まへをみせて。」と長歌のような散文のような文章から作品ははじまる。


おとろへし身を養ひてあらむ我れ湧きくる思ひにまなこつぶりぬ
生涯をこれからなりと思ふわれ枕かへせば空の目に見ゆ
皿の上の食後の林檎つやのうせしなびし見れば春の来たりぬ


 当時の結核は死を意識する疾患である。目をつぶったり時に広大な空が目に入ったり、気に病み、希望をもちと葛藤がみられる。しかし、そのなかでも萎びた林檎に心寄せするなど歌の根底に死が潜むようになる。また、病からくる自らの身体感覚や存在感のあてどなさから芸術至上主義的な側面はひっこみ、病むわれを通じて歌をつくるようになってくるのである。作品の作成動機が美的な関心から私的な関心へ移行するのは多くの芸術家が人生経験を経て経験することだと思われるが、稲森の場合は病がそれを早めたのである。


尿《いばり》せるわが鼻の先にぺつとりと碧《あを》とけむとして雨蛙ひとつ


 病状は波があり比較的よさそうなときの歌である。いわゆる立ちしょんべんをしているところで、自己戯画的だが雨蛙の青はビビットな生命感をもって目に映る。その生命感はその色が溶けるほど強いのである。通常社会で縦横無尽に活動している青年なら雨蛙以上に生命力があるので、雨蛙に生命力を感じることも少ない。しかし、元々の繊細さと、病による活気の低下が雨蛙をまぶしく見せた。


頬にぬるしやぼんのあぶく冷《つめた》くしてこころよければ顎さしのべぬ
若き母乳房あらはにふふませて子が髪剃らす鏡の中に


 連作「理髪店にて」より引用した。理髪店は老若男女訪れる場所で、平日の仕事の喧騒を忘れることができる癒しの場所でもある。一首目の心地よさに顎を差し出すという触覚の効いた歌や、次の鏡ごしの母子の微笑ましい場面などは読んでいても気持ちいい。その気持ちよさを辿ると、どこかにノスタルジックまたは退行ともいえる要素がある。

 昭和四年は稲森作品の最も実り多い作品群である。それは稲森作品の性質が統合した集大成の時期でもあり、また生と死の葛藤が表面から深部までみられ、重層的な抒情がみられるからである。病が稲森を早くに老成させてしまったといえるかもしれない。昭和五年はさらに死の影が強くなる。一度に語ってしまうと勿体ないのでまた次の機会に鑑賞したい。

2021.3.6 gekoの会 丸地卓也

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