リアリズムについて考えたこと 永山凌平

 先日、小林剛の『アメリカンリアリズムの系譜』という書籍を読んだ。ヨーロッパよりも歴史の浅いアメリカ美術が、ヨーロッパの伝統的なリアリズムとは異なる特有のリアリズムの歴史を有しているという内容で、なかなか面白い内容だった。書籍の中では、ヨーロッパとアメリカのリアリズムの違いを論じるためにいくつかの視点が導入されているのだが、それらを読んで少なからず短歌のリアリズムについて考えさせられることがあった。本稿では『アメリカンリアリズムの系譜』を読んで考えたことを簡単に書き残しておくことにする。

1.”ありのまま”の写実

 そもそも「リアリズム」とは多義的であいまいな用語だが、ひとつの理解では「写実主義」と訳される。小林も、リアリズムが特別な意味を持つ前、つまりギュスターヴ・クールベ以前のリアリズムについて「現実あるいは自然の外観を尊重し、それをあるがままに模倣あるいは再現しようとする方法、またそのような態度を支える思想」と述べている。ここで注意しなければならないのは、「外観」という語が使われているとおり、写実の意味でのリアリズムは視覚に依存しているということだ。ひと言で「写実」と言っても、視覚芸術である絵画におけるそれと、言語芸術である短歌におけるそれでは事情が大きく異なる。この差異は、そもそも短歌における”ありのまま”は可能なのか、という疑問にも行き当たる。

 この疑問に答えるために、少し遠回りになるが『アメリカンリアリズムの系譜』の中でも触れられているチャールズ・サンダース・パースの記号論に触れる必要がある。写実について考える上で非常に大事なことが書いてあるので、少し長くなるが引用する。

彼(注:パース)はまず、記号の表意様式を三類型、すなわちイコン、指標、象徴に分類する。記号がその対象とある性質において類似し、その類似性に基づいてその対象の記号となる場合、その記号はイコンと呼ばれる。記号がその対象と事実的に連結し、その対象から実際に影響を受けることによってその対象の記号となる場合、その記号は指標(インデックス)とされる。さらに、記号がもっぱら第三のもの(精神、心的連合、解釈思想)の媒介によってその対象と関係づけられる場合、その記号は象徴(シンボル)として区別される。
<略>
イコンはその対象とあらゆる点で類似する必要はなく、何らかの形でその対象と類似し、その類似性が表意機能の十分な根拠となるものであればよいとされるので、何らかの対象と類似性を指摘できるような絵画はイコンである。それに対し写真は、光の反映を感光紙の表面上に転写した物理的痕跡なので、イコン、つまり視覚的類似の一種ではあるが、対象に対し指標的関係も持ち合わせている。いわば写真は、指紋や足跡と同じように、光化学的に処理された現実世界の痕跡であり、絵画のようなイコンからは質的に区別される指標的記号だとパースは言うのである。
/小林剛『アメリカンリアリズムの系譜』

 このことから分かるのは、絵画自体は本質的にはイコンであるが、二次元の視覚表現である写真と類似しているがゆえに、写真に似せることによって”ありのまま”に描く≒指標性を持たせることが可能だということだ。

 一方で、短歌における写実はどうか。短歌を始めとした詩歌は、言語の活動であって、パースの分類では言うまでもなく象徴である。また、写真とは形式が似つかないゆえに、指標の一種である写真に似せることもできない。仮に写真らしい短歌というものがあったとしても、二次元の視覚情報を言語へ翻訳する過程で指標性は失われてしまうから、指標的な短歌にはならない。つまり、写真に表れるような視覚を手本にしているうちは、短歌で”ありのまま”に描くことは不可能なのである(ありうるのは共感性の高い象徴性だけだ)。

 それならば本当の意味で写実的な短歌は不可能なのかと言うと、そうとは限らない。これはあくまで仮定的な方法だが、視覚ではない、言語に類似する形式の指標を用いる方法である。そのようなものが存在するかどうか、私は知らない。直感的には存在しないだろう。だが、少しでも言語に近い指標、あるいは指標に近い言語を模索することが、将来の詩歌における”ありのまま”な写実を考える上で有用だと思う。

2.事実らしさ

 前節では、リアリズムの特異点としてクールベの名前が挙がったが、クールベの新しさとは何だったのか。小林はクールベの特徴を「写真的リアリズム」と形容し、大なり小なり筆のタッチや題材選びに理想化の入る旧来の「理想的リアリズム」と区別している。そして、「写真的リアリズム」と「理想的リアリズム」のもたらす印象の違いを、ロラン・バルトの「ストゥディウム」と「プンクトゥム」という概念(※)で捉えている。

※小林はバルトの著作を引用しながら、ストゥディウムは「その感動は、道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちとしている」のに対し、プンクトゥムは「刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目」のように「私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然」であると説明する。もう少し噛み砕けば、ある文化の上に成り立つ計算された面白さがストゥディウムであり、全体に対してごく些細ではあるが大きな存在感を持つ、まったくの偶然による計算外の面白さがプンクトゥムである、と言ったところか。

 つまり、ストゥディウムの側面のみで形成される「理想的リアリズム」とは異なり、写真的描写に徹するがゆえに入り込んでしまうプンクトゥムの側面が「写真的リアリズム」の持つ特徴だと言うのである。

 このプンクトゥムの側面を意図的に混入させる技法は短歌でも見られる。例えば、花山多佳子の

大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり/『木香薔薇』

では、「大根を探しにゆ」くという行動が、作者が頭で考えて用意した行動ではない印象を与える、プンクトゥム的な要素として機能している。このプンクトゥム的な要素が、いかにも本当に起こったことのような「事実らしさ」をもたらしており、歌の面白さにもつながっている。

 なお、蛇足ではあるが、ここで言う「事実らしさ」が実際に事実である必要はない。重要なのは、「事実らしさ」が写真が持つような指標性(前節のとおり厳密な指標ではないのだが、作家の意図が介在しないという点で指標の性格を有するもの)を与える点である。

3.事実性

 前節では「『事実らしさ』が実際に事実である必要はない」と述べたが、事実性が求められる種類の作品もある。短歌においては、例えば機会詠がそれに当たる。

 一般的に機会詠は事実が詠われる。いや、機会詠は事実性を期待されて読まれる、と言った方が正確かもしれない。先日(2021年3月)、『3653日目<塔短歌会・東北>震災詠の記録』という書籍が刊行された。ここに収められている作品がある種の迫力を持っているのは、一要素としては、東日本大震災という事実を受けて詠われているからである。もし仮に架空の災害を基にした作品を収めた一冊があったとして、『3653日目~』と同じように読まれるとは思えない。それは事実性を期待されているからに他ならない。だが、機会詠がなぜ事実性を期待されてしまうのか、筆者自身はまだ深く考え切れていないところがある。ただ、可能性としてひとつ言えるのは倫理の問題である。

 第57回短歌研究新人賞を受賞した石井僚一「父親のような雨に打たれて」が虚構であったことが当時かなり話題になったが、その背後にあるのも倫理の問題だと思われる。つまり、死んでいない実親を死んだことにしてしまうことへの倫理的な拒否感である。倫理に背くことは必ずしも作品の問題ではないが、倫理に背くだけの虚構の効果がないと捉えられれば、倫理的観点で虚構を批判したくなる動機は真っ当である。

 事実性は、作品の声をより強固にするが、逆にそれがフィクションであると分かったとき(特に人の生死が絡む場合は)倫理的に受け入れられる/られないという問題の矢面に立たされる諸刃の剣とも言えそうだ。

まとめ

 リアリズムについて筆者が考えていたのは以上のことである。リアリズムは多義的と前述したが、分解してみれば、”ありのまま”を志向する態度や思想のことなのか、あたかも事実らしく表現する手法なのか、事実を表現に昇華することなのか、それぞれでも異なることが分かるだろう。アララギ派の流れで歌を作る筆者にとって、リアリズムは長く考えていきたい議題である。

2021.3.20 gekoの会 永山 凌平

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