坂田・清原論争を振り返る 永山凌平

 この記事の読者は坂田・清原論争をご存じだろうか。坂田博義と清原日出夫により1960年から1962年にかけて「塔」誌上で交わされた往復書簡的な論争である。一般に「「何を詠うか」vs「如何に歌うか」の問題認識をめぐる両者の応酬」(『塔事典』「坂田博義・清原日出夫論争」の項)と理解されている。「塔」最大の論争と言われることもある(※1)ようで、半世紀以上前の論争ながら、現在でも数年に1回は「塔」誌上に話題が上がる重要な論争である。
 一方で、「塔」の外でこの話題を見聞きしたことがほとんどない(※2)。要因はいくつかあるだろう。論争の渦中に坂田が自死し、論争が尻切れトンボ的に終わってしまったこと、坂田博義という歌人が、夭折したこともあり「塔」の外で語られる機会があまりないこと、などが挙げられよう。ただ、論争の内容が重要であることに変わりはない。いま、このnoteという媒体で坂田・清原論争を読みなおすことは、この記事の読者にとって、また筆者自身にとって、今日にあっても有用なことだと思われる。

 本記事では、一般的に坂田・清原論争を構成すると言われる4つのテキストについて、1つずつ読んでいきたいと思う。なお、4つのテキストとは次を指す(『塔事典』を参考にした)。

 坂田博義「感受性と技巧」(塔1960年12月号)
 坂田博義「勝藤猛のこと」(塔1961年10月号)
 清原日出夫「落穂拾いへの道――坂田博義君へ――」(塔1961年12月号)
 坂田博義「清原君に答えて」(塔1962年2・3月合併号)※坂田博義追悼号の遺稿

1.坂田博義「感受性と技巧」

 このテキストは見開き2ページに満たない短い文章である。この中で坂田は「僕は「いかに」詠むかということを重視します。何が表現されてあるかよりも、どのように表現されてあるかということを大切にします。」と「「いかに」詠むか」の重要性を説く。冒頭の一文と末尾近くのまとめの一文を引いてみる。

塔の仲間達には、技巧をやや軽んじる風があるように思います。
僕達の塔について言えば、会員お互いの感受性はともかく、表現技巧が今よりも数段上等にならなくてはなりません。

 上記のとおり、坂田は「感受性はともかく」と措いて技巧について説いているのであり、このテキストの一番の主張はあくまで技巧の重要性であることが分かる。だが、タイトルには「感受性」が含まれているし、本文でも感受性について字数を使って述べている。具体的には次のような調子である。

庭に蟬がきて啼いておりますが、あの蟬だって、太陽の光や、ふりそそいだ雨や、楠木の樹液等々の、かずかぎりない愛といってもよいものによって生れたのです。僕はむしろそうした人が鎻末(ママ)だと見すごすもののうちにこそ、最も底光りする意味を感じたいと思うのです。短歌が持つあの不思議な魅惑、強い光をなげかけられて突如新鮮に、群葉のそよぎや幹のたたずまいが見えてくる夜の森のような驚きは、題材主義に堕してしまった歌からは到底感じることは出来ません。

 素直に読めば、大きな問題を扱った歌(※3)よりも瑣末なことを詠った歌を評価するという主張に思われる。しかし、瑣末なことを詠った歌こそを評価するのは、それもまた形を変えた「題材主義」ではなかろうか。坂田の肩を持って読むならば、大きな問題を扱うことは大切かもしれないが、大きな問題を扱えばそれでよいわけではなく、たとえ小さいことを詠っていても技巧的に優れた歌を評価する、という主張にも読めなくはない。

 また、後に清原にも指摘されることになるが、感受性と表現技巧を身につけるための手段がやや曖昧で分かりにくい。

僕のいう感受性と表現技巧は、新しさによって裏うちされておらなければなりません。第一人間が新しくならなくては新しい抒情は生れはいたしません。現代の最高のモラルが「抵抗」であるということを悟らぬ歌人を、僕はてんで信用しないことにしています。
歌人の感受住(ママ)と表現技巧は生れながらにして備わるものではなく、現代を真に生きながら培われたそれでなくてはなりません。

 このあたりの分かりにくさも論争に一役買っている。

2.坂田博義「勝藤猛のこと」

 このテキストは、塔所属の勝藤猛についての短い作家論である。後に清原によって槍玉に挙げられるのは次のような箇所である。

塔において、もっともうたを知っている人は、ほかならぬ勝藤猛(敬称略)である。<中略>私が、勝藤はうたを知っていると言ったが、本統に言いたかったことは、彼がうたの使命とか運命とかを、よくわきまえていて、ジタバタ悪アガキをしない点である。

 この真意について整理したい。坂田が勝藤と比較して述べるのは高安国世である。勝藤との比較のため、高安に関するエピソードが2つほど引かれている。1つは「中世の墨絵の説明をする高安から、私はかえって中世の東洋を欠く高安を感じた」点、もう1つは「高安はジャーナリズムの脚光をあびている所為もあって、作歌について非常に工夫する。せざるを得ない」点、具体的には高安が「ドイツへ行くとき、たんなる旅行詠でない作品を作ってくる、と言った」点である。
 前者については、坂田は勝藤について次のように述べる。

言わば勝藤は、うたを大観出来る作者なのである。これは彼がおさめた中国文学の所為であろう。しかし勝藤には教養による箔とはちがった、もっと地のものになっている東洋が感ぜられる。

 つまり、「東洋を欠く高安」に対して勝藤には「地のものになっている東洋」があり、それゆえに「うたを大観出来る」と評価している。この時点では「大観」が具体的にどのようなものを指すのか明らかではないが、もう1つのエピソードが関係してくる。その「もう1つのエピソード」=後者についてだが、勝藤についての記述は次のようなものである。

うたのもちあじを駆使し、異国の風土(※4)と供に自分をも、よく生かしきることは容易でない。
その容易でないことを勝藤はよくやったと思う。いかにも気持よさそうにのびのびとやっている。この国の古い詩型へ、愛のたかまるのをむしろ抑え気味に、勝藤は勝藤流に、いそしんだことが、私には良くわかる。

 この直後に坂田は勝藤の歌を8首引用しているが、そのうちの1首を引いてみる。

カーブルの夜の氷雨に濡れて行く我れに少年のこころかえりく

 カーブル(アフガニスタンの首都)という異国の地にありながら静かな「夜の氷雨に濡れて行く」の描写、そして「少年のこころかえりく」る心情。なるほど肩の力の抜けた佳作である。坂田の主張もこのようなことだと思われる。つまり、異国を訪ねたときに「たんなる旅行詠ではない作品」を作ろうと意気込んでしまう高安に対して、もっと肩の力を抜いて作品を作れる、坂田の言葉を借りれば「うたを大観出来る」勝藤を評価しているのである。「うたを大観出来る」とは、題材主義とは距離を置き、無理に歌に工夫をしに行かない姿勢とも言いうるだろうか。

 このテキストで私がやや引っかかりを覚えるのは、高安の説明に「ジャーナリズム」という語を使った点である。きちんと読めば、ジャーナリズムの要請で不必要に工夫しようとし過ぎてはしけない、という主張と分かるが、一見すると短歌におけるジャーナリズムの批判にも見えてしまう。清原はこのことには言及していないが、清原が「我慢ならなかった」一因になっていたかもしれない、とも思う。

3.清原日出夫「落穂拾いへの道――坂田博義君へ――」

 先の2つのテキストに反論をしたのが、清原による「落穂拾いへの道」である。読んでみて驚いたのは、反論の対象となっているテキストの幅広さである。『塔事典』によると「落穂拾いへの道」の批判対象は「感受性と技巧」「勝藤猛のこと」の2つのテキストだが、実際はその他いくつかのテキストを引用して批判しているようである。それは坂田が「清原君に答えて」で「ぼくが、方々に書きちらした文章の中からぼくを論難するにつごうのよい章句を、こまぎれにし、それを再構正(ママ)し、それが黒住(引用者注:黒住嘉輝)、清原両君への批判であると解し、更にぼくの本心が社会詠を非難するにあると決論(ママ)する被害者意識が、いかにも度量がなくてイヤであった。」と述べるほどである。確かに清原は少し感情的に論を進めている嫌いがある。実際に坂田への批判部分を引いてみよう。

ただぼくに想像のつくことは、君が「心やすらかな時の吐く息、吸う息、あの調子」と(引用者注:勝藤の作品を)評価することによって、「大学などで大量に売っている思想」「それをこそ至上のものとして」いるらしい黒住嘉輝やぼくの「問題意識が、………チラチラしている」上等でない作品を批判したかったのであり、そのような「短歌の使命とか運命とかをわきまえ」ぬ「悪アガキ」を批判したかったのだろうということだけです。そのことは、黒住の作品を、「意味」にこだわりすぎて「うるさい」といい、「少々ましな鑑賞者の俗物性につけいろう、つけこもうとする作品は困る」とか、「忍ぶ川」には「苦悩のおし売りがなくて、ぼくには気持よかった」といっていることからも容易に想像でき、黒住が(ぼくもそうなのかも知れないが)政治や社会のことを多く扱っているのに対比するように、「日常茶飯のことより、重大なことは、そうざらにはあるまい」と主張することによって決定的なことです。

 さて、上記文の鍵括弧は引用と思われるが、「大学などで~」「それをこそ~」「問題意識が~」「意味」「うるさい」「少々ましな~」「苦悩のおし売りが~」「日常茶飯のことより~」はいずれも「感受性と技巧」「勝藤猛のこと」からの引用ではない。「勝藤猛のこと」を出発点としているのにも関わらず、都合のよい引用と言わざるを得ない。「感受性と技巧」「勝藤猛のこと」以外の引用文の原典には当たれていないが、坂田の言うとおり「つごうのよい章句を、こまぎれにし、それを再構正し」ているのは事実だろう。そもそも、先の2つのテキストでは坂田は社会詠を批判していなかった。坂田の批判は、社会詠のように大きな問題を扱う作品だけをよしとして小さなことを詠った作品を評価できない姿勢や、何を詠うかの選択ばかりに注力して技巧の詰めの甘い作歌姿勢を批判したのであって、社会詠そのものへの批判ではなかった。

 さて、これだけだと単に清原が誤解して感情的に反論した、すれ違いのあった論争というだけになってしまうが、この後の清原に重要な問いかけがあるのである。「落穂拾いへの道」の後半から引用する。

この対立する二つの主張(引用者注:「何を詠むか」と「いかに歌うか」)が対立したままで主張されるならば、それはついに不毛だということを、ぼくはようやく気付いています。なぜなら、「何を詠むか」に対しては「何を詠んでもいい」と答えるほかなく、「いかに歌うか」に対しては、「何を」ということが厳しく問われていない以上無意味だからです。従って「何を如何に歌うか」というときにだけ、実りある問になるのだと思います。
「何を歌うか」とは、君が排そうとしている(ぼくもそう努力している)題材主義のことではありません。作家が「何を」即ち主題を選ぶ苦しみを持たずに、「如何に」の問いや努力をすることは無意味だと言いたいのです。

 この主張は現代においてさえもっともである。この主張があるから、坂田・清原論争は一筋縄にはいかず、塔の会員は長い間おのおのに自らの作歌姿勢を問いなおしたのではなかっただろうか。

4.坂田博義「清原君に答えて」

 坂田による「落穂拾いへの道」へのアンサーである。「清原君に答えて」は全4章から成るが、特に「(三) 「抵抗」と作品」「(四) 技巧の話」に重要なことが書かれている。

「抵抗」が、つねに作品の表面に出なくてはならぬと申した記憶はない。<中略>革命的精神が作品の前面に現れておれば非常に良し、それが表面的にはかくれているのも亦よしとするのである。/「(三) 「抵抗」と作品」
題材を選定するだけなら、文学にたずさわらぬ人にも出来よう。がいやしくもうたをやるかぎり、勝負のしどころは、追求する過程にこそある筈だ。「いかに」詠むかとは、そうしたことを言っている。/「(四) 技巧の話」

 「(三)「抵抗」と作品」では、坂田は単に瑣末なものをよしとしているのではなく、瑣末の中に「抵抗」を感じられる――瑣末だからこそ背後にあるものをより重く感じられる――ものをよしとしているである。坂田の言う瑣末なものは、大きな主題を排するものではなく、ときにそれを孕むものでさえあるのだ。坂田は「何を」を軽んじているわけではない。

 「(四)技巧の話」では、坂田にとって題材の選定は「「いかに」詠むか」に含まれると述べている。そう、「感受性と技巧」で坂田が「感受性」と述べたものがそれではなかろうか。つまり、坂田の主題選択は、「抵抗」を「最高のモラル」として「現代を真に生きながら」「感受性」を培い、その「感受性」によって主題を選択する、ということではなかろうか。清原は作家の思想によって積極的に主題を選択しようとするが、坂田は生きる態度によって培われる感受性に主題を選択させようとしているのである。そしてこの主題選択を、清原は「何を」に含めていて、坂田は「いかに」に含めている。結局は坂田・清原論争の焦点はそこにあるのではないだろうか。「何を」vs「いかに」ではなく、主題選択をどのように実現するかという作歌姿勢の食い違いなのである。

 なお、遺稿でもある「清原君に答えて」は次の一文で締められている。

我々若い者は、技巧の未熟を、はにかんでいるべきである。

5.まとめ

 坂田・清原論争は、簡単に「何を詠うか」vs「如何に歌うか」と理解されがちだが、そう単純ではないことが分かった。結局は二人のスタンスの違いなのである。そして、どちらのスタンスを支持するかは、現代においても作家によって分かれるだろう。坂田・清原論争を振り返るたびに、我々は自らのスタンスを問い直し続けるのである。

2021.5.15 gekoの会 永山凌平

6.補記

 私が今回坂田・清原論争を取り上げようと思ったのは、貝澤駿一君の「虚構の真実【前編】 貝澤駿一」を読んだからである。文学における「リアリズム」が社会への問題提議(貝澤の言葉を借りれば〈告発〉)であることは私ももちろん知っていた。貝澤が言及した「リアリズムについて考えたこと 永山凌平」では、私はリアリズム(というより、写実)の方法論を考えたかったから、リアリズムの持つ社会への問題提議側面は意図的に排していた。
 ここで坂田・清原論争を取り上げた理由に戻るのだが、「リアリズム」という語をめぐって方法論に目を向けるか社会への問題提議に目を向けるかは、「如何に歌うか」と「何を詠うか」の対立と似た構造だと思ったのだ。私はこの記事を書いた今でも、社会への問題提議よりは方法論に興味がある。とは言っても、声高にそれを主張するには理論の強度がまだ足りていないし、自信がないのである。

(注釈)

※1
座談会「結社にふたたび出会う」(塔 2013年10月号)での澤村斉美の発言「何を詠うか・いかに詠うかに関する、いわゆる坂田・清原論争って、どこかの座談会で「塔」最大の論争って言われてるけど、どうなんだろうか。」より。澤村の言う「どこかの座談会」がどの座談会を指すのかは未確認。

※2
『現代短歌大事典』の「坂田博義」の項には説明がある。「ライバルとみなされていた清原日出夫と対照的であり、「塔」誌上(六〇・一二、六一・一二)で論争がおきる。この中で坂田は「何が表現されてあるかよりも、どのように表現されてあるか」を重視する姿勢を打ち出した。」と説明されている。篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』には説明がなかった。

※3
この論争があった時期は1960年の安保闘争を始めとした学生運動が盛んだったことに注意する必要がある。なお、吉川宏志は「感受性と技巧」の文章について、若くして「非常に巧緻な言語を持っていた」坂田が発表するに至る心情を次のように推測している。

これは推測だが、坂田には学生たちの歌があまりにも粗雑に感じられたのではないか。学生たちは戦後社会への批判を、観念的に露骨に短歌の中で表現していた。一首一首を丁寧に磨き上げることより、言葉の熱さが重視された時代だった。
/「坂田博義の歌――ある青春について」(『セレクション歌人 吉川宏志集』所収)

※4
勝藤は「五九年(引用者注:1959年)秋から二年間、プシュト語研究のためアフガニスタンのカーブル大学へ留学し」、「その間、六十年四月号よりアフガニスタンよりの出詠が続」いていた(引用部分は『塔事典』「勝藤猛」の項より)。

以上。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?