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「ゆくあてはないけど、ここにはいたくない」感が足りない

YouTuberの笹木咲さんが「(子どもの頃は)大人になったら学校がなくなり、自分の時間がたくさん取れると思ってたけど、(自分の成長に伴って周りの大人を見渡していると)大人の方が時間がないっぽいから、時間がある今のうちに学校(みたいないらん特殊機関)をさぼります」というフレームワークでさぼりが発生するのではないか、と言っていて感銘を受けたのでアウトプットしています。言ったのはこれを書いている数時間前です。ヘッダ画像をお借りしています。

サボりというと、大人側から口撃していい口実を与えかねない表現となってしまうので登校拒否と文脈をずらす。

登校拒否が起こる時

イヴェントとしての登校拒否が起こりうるのはどんなときでしょう?

  • 夏休み明け―――――はつまりそれまで何もしなくてよかった時間に授業とかいう意味不なタスクが組み込まれることに絶望する

  • 授業内容の形骸化:進学塾なんかで先行しているので通う意味が不明(義務教がこれか)

  • 意味不明な校則・校則を盾に理不尽を自分たちに実行してくる教師という存在・迫害(つまりいじめのことだ):これは「プラットフォームの勘違い」により生ずる。
    勘違いしてるのはこれの実行者だ。こちらについては登校拒否の大元となる成分が多様に含まれているため、畢竟項目説明が長くなる。以下の文は長いので飛ばして大丈夫です。
    つまり教師、および自分にそれなりのスクールカーストがある方だと勘違いした知能レベルが低い同級生が実行者である。
    教師とは生徒の家族に自分の生活費を賄ってもらっている。いわば生徒の家族とは実質教師のパトロンである。
    という事実をないがしろにし、権力を勘違いし、生徒の家族がそう望んでいる等という大義名分を振りかざし校則を使い生徒に数々の嫌がらせをする。それを正しいと、自らに与えられた職務だと思い込んで正当化する(本来の職務とは担当教科の授業をするのみ)。
    パトロンの庇護下でしか教師という職業が成立しない以上、生徒の家族が教師のガキのミルク代、配偶者が専業なら配偶者の飯代を与えてやってるのと同義だというのにそれが理解できていないことに勘違いがある。

    -余談-
    さらにはその金銭授受を確かなものにしようと、私立校の中には入学当初に誓約書を書かせる文化があるという。
    聞いたところによると、入学生との家族に対して「お前のガキを変わりに育ててやっから、俺らがお前のガキを殴ろうが言葉で刺そうがそれはお前らが俺らの高等教育を受けたいから仕方なくやってやってんだな?」と認めさせるらしい。ガチで実印を求めるらしい。
    ぼくはこれを聞いて時代錯誤甚だしいどころか「自社に都合のいい囲い込み商売が世間の目が届かない場所で成立する仕組み」について知ることとなった。でそこはぼくの体感だと著名な学校に類するので、学校の実名を発表していいならしてやり、世間からの評価を地に落として差し上げたいぐらいだ。

    また、後者のいじめとは「本来、学ぶ以外に役割がないはずのプラットフォーム」において順列・序列という「役割外」を価値として見出そうとする学習欠陥がある者が起こします。いじめというぬるい日本語なのもよろしくないと思うのでぼくは一貫してそれを迫害・差別と呼ぶ。がっつり憲法なり刑法なりに違反した行動であるからです。
    ただ一方で教育機関が人脈づくりという社会的側面を一切持たないとは言わない。

今ぼくは職業としての教師についてこき下ろしをした感がありますが、ぼくは普段、そういう「プラットフォームの勘違い」をしていない、まともな現代の教師に与えられた過剰な責務について警鐘を鳴らしています。

むしろ普通の教師は被害者であると思っている。かわいそ、と思う。先に挙げた教師だけが迫害者と何ら変わらないというだけです。

こと迫害においては実行者が未成年であることが多いって理由から、成年と同列の刑罰を与えてもいいだろうと思ってんですけど「『ターゲット』が迫害をしたように視えるように仕向ける迫害」が起こりうると思っているため難しい。

つまり「迫害してやれ」という対象になった子を、あたかも別の誰かを迫害したみたいに見せかける心根(こころね)の腐った子どもが現れるだろうな、と。

ここにはいたくない VS 邪魔の排除欲

彼女のお話を聴いて、なるほどなと思い徹頭徹尾否定は起こらないんだけどぼくはそう思わなかったなあと感じたのでした。

それはつまり彼女の話では可処分時間をどうするかという考えが子供時代からあったんだろうけど、ぼくにはそのような(どちらかというと)俯瞰視点が欠落していた。

ぼくが学校とか意味ねーなと喚起されたのはBLANKEY JET CITYの小さな恋のメロディという歌にあった一節のようなもので、それがこの題名にある。

つまり現状のコミュニティから離れ得る動機とはここにいたくなさから生まれるんじゃないかというものだった。だけどぼくは様々な庇護下にいたし、ここにいたくなさというよりは「邪魔な成分の排除したさ」が勝っていたと思う。邪魔を排除した上でここにいてやるか、現状維持でいいや、なホメオスタシス感です。

ここにいたくない程度で何かを除去する思想こそ危ないかも知れないけど、じゃあここからいなくなるとしてどこに行く→ゆくあてはないけど、となり、行く宛がない状態をどうにかしてやろうという気概すらないわけです。

与えられたプラットフォームを脳死でまんまと受け入れるほか選択肢がない、飼いならされが本能に染み付いているとは思いたくないがそこには開拓者精神がないような気がします。かつてのぼくがそうだったし、今ですらそうではないと否定しづらいため。

「自分の時間奪われ感」が芽生えるかどうかが登校拒否という自由選択を手にするきっかけになるのだとしたら、可処分時間の存在に気づくかどうかが自立心の芽生えにつながっているように思える。

飼いならされ感=時間奪われ感という図式が正しいのか正しくないのかぼくにはよくわからないけど(正しさを求めてこの文を書いていない)、客観的視点があったほうが良い気がしますね。

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