携帯の「携帯性」とは何か?
騎士団長殺しを読んでると、折に触れて作者の考えの一端に触れる事がある気がします。ヘッダ画像をおかりしています。
携帯でキャメラ
例えばこういう一節があります(中身のコピーをダイレクトに書きたくはないので、表現は勝手にぼかすといいますかいじってあります)。
この意見は名もない主人公の考えに見えるけど、作者の考えであるようにも思える。それは逆接的(「しかし」的な意味で言ってるので誤字じゃないつもり)に、あるいはひねくれて考えると、この字を書いているのが作者以外にほかならないからであるという理由と、騎士団長殺しの中にも多々顕れるような「根拠のない確信」みたいなものが理由です。
ここで考えたいのが、別に作者の考えを支持したいとか携帯に踊らされる一般市民や平凡な大衆がどうの、というわけじゃなくて「携帯で写真撮るってなんだろう」みたいなことです。
余談
で実はぼくはここから一気に50ページぐらい読んだんだけど、おおよそぼくの考えでは―――多分携帯電話について思いを馳せる感想を抱く場面じゃないと思う。場面とは、騎士団長殺しの283ページから50ページ先まで進んだ人生を送った直後の場面、という意味です。
ぼくの考えでは、騎士団長殺しの2巻、下巻、どっちの言い方が一般的なんだかわからない。一般的ついでに言えば、普通は「表記ゆれ」による見込み顧客離れという「機会損失」を避けるために、ある書籍の続刊を「2巻」と呼ぶか「下巻」と呼ぶかは徹底しなければならない。
出版社によっては、筆者が2巻と呼びたかろうが下巻と呼びたかろうが「うちの会社から本を出してえならこの表記に統一する契約に従え」ぐらいの横暴をするのが現代的なんじゃないかな、とすら思います。そのような出版社は滅ぼすべきですが
だからこのように「どうやって表記するかを消費者側が悩む」ぐらいの出版物を持つことが許されている作者について思いを馳せることになる。
花を覚える
例えば今日、ぼくはでかけて桜だか梅だかよくわからないものを見たんですが、当然携帯電話を携帯していなかったので写真が撮れなかった。携帯を要する用事ではなかったため、携帯を携帯しなかった。
これはぼくがデジタル遊牧民としてあるべきステレオタイプにアイロニカルを投じようと、デジタルを排除して限界までアナログ遊牧民たろうとしているわけではなく、ぼくが出かけるときはデジタル上で処理しなければならないことを処理しきった上で出かけるからです。ゲームのログインボーナスをもらい、次のログインボーナスをもらいやすくしておき、しばらくログインしなくても事が上手く回るようにする。ゲームばっかり
あと単純に携帯を持ち合わせることがデメリットかつハンデに運ぶことを怖がる。単純に落としたら汚いし壊れるし、趣味がクロスバイクだから物は最低限にするべきです。地図は頭に叩き込まないと寒いし交通量が気になるし面倒で携帯見てる暇がない。
この携帯の携帯性という利便を手放したことによる写実的メリットなんてあるんだろうか?ぼくは記憶力がさっぱりないんだけど、今日見たその花の姿かたちを今でもはっきり思い出せると今わかりました。これがメリットなのかどうかわからないし、ものより思い出という考え方の人から見たら、今日の思い出である花をデジタルデータに残さないなんてデメリットでしかないと思うのだろう。
帰ると携帯は出かける前に置いたままの場所に鎮座しており、携帯の携帯性を利用しなかったおかげで無為にぶっ壊れず、その機能を残しています。
ところでぼくが見たあの花は梅なのか桜なのかどっちなんだろう?花弁は桜にしか見えなかったんだけど。
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