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どう生きるかの

ぼくは以前きみたちがどう生きるか的な名前の映画がリリースされた際に、その周囲にいろんな報道がされたのをさらに客観視してここに書いたことがありました。ヘッダ画像をおかりしています。

その内容はマジでどうでもいいんだけど、プロフェッショナルの宮崎駿を見て、「ああ国内映画とは作ってる奴も使われてる言語も日本語だから、報道する側がとにかく好き勝手報道するからなんか作者に対する勝手なイメージが望んでもないのに視聴者側に植え付けられてしまうんやな」ということに気がついた。

つまりわかりやすく言えば宮崎駿がよく何かを完成させた後、もう次はないとか引退するみたいな報道がなされるけど、どうしていままでそんな気分で言ったことば如きについて粘着的に報道してきたんだ?と。

今回の宮崎の苦悩は散々なものだった。すでに死んだ同僚の亡霊のようなものに取り憑かれ、絵がかけなくなってしまう、当たり前に持っているはずの画材がどっかいってしまう、新しい紙を使うぐらいの贅沢をする金はあるだろうに(実際恐ろしい数の絵コンテが不要物っぽいコーナーに集められて積み上がっていた。あれは捨てないのだろうか?)、書いていた絵コンテを全部消しゴムで消して書き直す……

高畑の亡霊に悩まされるのであれば、その意志と同じ意思を持ったキャラクタを登場させ、主人公である宮崎の目の前で死なせてやればよい。ぼくは宮崎にも高畑にも特殊な感情を持っていないため、それが彼らなりの礼式なのであればそうなのだろう、と思うだけであり、特別冒涜的であるとは思わなかった。だが勝手な杞憂をすると世間からの評判とか遺族からの文句があるんじゃないかと思えてしまう。

今つけた題名は声優のひとりである木村が宮崎の造る話の題名には必ず”の”があるから、という会話に対して宮崎が返したものでした。木村はそんなどうでもいいこと気にするのか、と思ったがぼくも確かに、今からきみたちがどう生きるかに無理やり の をつけたいのであれば、君たちはどう生きるかの(物語)とかにするだろうなと思った。物語、などとつけないあたりまで宮崎と同じ感覚を持っていた自分に驚きはしたが、ほかに助詞つける部分がないから別にすごくもなんともないのか……と思った。

他にもいろいろなことを思ったのだが

・死が近いので死がなんとなくいつの間にか、わからないうちに来る
・スタジオジブリところーな

文字数が切りなくなってしまうので明日に回したい。

この番組って、宮崎が出ても出なくてもスタジオ自身がどこに建設されたのかと思うレベルで美しい造形でできており、その自然に囲まれた出で立ちから宮崎が好き勝手外に出入りして腰掛け、ヤニすら吸える椅子があってその脇にはごみ捨て場であるばけつが用意されていたり、宮崎が絵を書く場所はスタジオ然とした場所だけでなく暖炉(この暖炉もキーワードなのだろう)があるペンションの一室みたいな場所だったりと、従業員がクソ気楽に働けるような福利厚生の一環ですと言っても過言ではないほどの住心地になっているからそれだけで番組が成り立つんだろうなーと思う。

前時代的なセーターをマフラー代わりに首に巻いたプロデューサみたいな奴がいたら、それだけで銭になっからカメラ2台回そうやwとか言いそうだな、と。

今それがないのはテレビ業界という一見新しそうに見えてガチガチの旧時代の体育会系的カスが横行してしまっており(想像だ)、稟議の構成とかがクソ複雑になってたりしてできないのかな、とか思いました。

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