太陽に焼かれて殺されたダニの香りの芳香剤を売れ 第03.5話 土門
浅荷と俺は、夕焼けに染まる校門を出た。空は茜色に染まり、雲は金色に輝いている。蝉の声がかすかに聞こえ、夏の終わりを告げているようだった。
帰る道すがら、横顔を盗み見た。夕焼けに染まる顔は、子供っぽさと大人びた表情が混在していて、不思議な感覚だった。
「どうしていつも同じ靴を履いてるの?それ、もうボロボロだよ。」彼女は俺の足元を指差した。
「高校生が毎日同じ靴を履いてるって普通じゃない?」
「でも、穴が開いてるよ。雨が降ったら足が濡れないの」浅荷は心配そうに言う。
「履き慣れてるし、特に不便もないから」俺は肩をすくめた。
「足には冷房が届かないから、足は喜んでくれてるんじゃないだろうか」冗談めかして答えると、彼女は笑った。
「じゃあ新しい靴を買いに行きなよ」
この靴は高校入学以来ずっと履いている。擦り切れたソールや色褪せた革は、何らかの思い出になっているのだろうか。
「そうかなあ」そうかなあ、って我ながらなんなのだろう。
「でも、つま先もほつれてきてるし、危ないよ」浅荷は心配そうに眉をひそめた。
「まだまだいける気がする」
「そう言ってると、そのうち怪我するよ。靴は大切だと思う」彼女の声には少し不安が混ざっている。
「そんなに心配しなくてもいいんじゃない……浅荷と違って運動もしないし、危険な目に合う確率もそんなに」
「確率の問題じゃないよ。靴は……人間が発明した道具の中でもかなり大事じゃないか」浅荷は立ち止まり、真剣な表情で俺を見つめた。
「そうかもしれないけど」俺は言葉に詰まった。彼女がここまで強く言うのは珍しい。
「私バレー部で、ちょっとした靴の欠陥でも動き方に影響することがわかった。中学の頃はそんなもの実力でどうにでもなるとか舐めてたけどそんなことなかった。足が安定してるから飛べるし踏みとどまれる」
俺も立ち止まったまま、顔を見つめていた。
「最悪の場合、怪我に繋がる」浅荷の瞳には強い意志が宿っていた。
「でも、俺は本当に運動してるわけじゃないし……」
「関係ないよ。日常生活でも同じ。靴は身体を支える大切な道具でしょ」彼女は一歩近づき、俺の靴をじっと見つめた。
「そんなに言うなら、新しいのを考えてみるよ」
「それじゃ不十分だなぁ。今度の休みに一緒に買いに行こう」浅荷は微笑んだが、その目は真剣だ。
「え、俺と?」
「そう。私が君に合った靴を選んであげる」
「でも、忙しいんじゃないの。クラブとか……」
「大丈夫。明日はないから。知ってるでしょ」彼女はあっさりと言った。
「そうか、じゃあ……お願いしようかな」断る理由も見つからず、俺は頷いた。
「約束だよ」浅荷は満足げに微笑んだ。
歩き始めると、風が心地よく吹き抜けた。浅荷の髪がふわりと揺れ、香りがかすかに漂ってくる気がする。普段は何も感じないはずの香りに、なぜか心がざわついた。
「ねえ、浅荷は靴に詳しいんだな」自分の心持ちを変えようと、俺は口を開いた。
「バレー部では靴選びがとても大切だから。グリップ力やクッション性とか、細かいところまで気を遣ってる子が多いんじゃない。あたしより」
「そっか。俺はそんなこと考えたこともなかったよ」
「それじゃダメだよ。足は第二の心臓って言われてるんだから」
「深い」
「大げさかな」浅荷は笑った。
商店街に差し掛かると、夕飯の準備をする人々で町があふれているのだろうと思える香りが漂っている。焼き魚の香ばしい匂いや、炒め物の香りがする。
浅荷は腹がすいているんじゃないだろうか。俺は放課後何もしてないようなもので、彼女は動き回っている。
「今日は何を食べようかな」
「浅荷の家はいつも手作りなんだろ?」
「うん、お母さんが料理好きだから。今日はカレーかな」
「いいなあ。俺はコンビニ弁当が多いから、羨ましいよ」
「それなら、今度お弁当作ってきてあげようか」彼女はとんでもない提案をした。
「え」
「別にいいよ。私も料理の練習になるし」
「でも、ただでさえクラブに取られてる時間が減るだろ」
「全然。むしろ楽しみだよ」
「じゃあ……お願いしようかな」またもや断れずに頷いてしまう。
「楽しみにしててね」
その時、浅荷が突然足を止めた。
「?」俺は不思議に思って振り返る。
「猫」
彼女が指差す先で、小さな黒猫がこちらを見つめていた。
「人懐っこそうだな」
「可愛いね。ちょっと近づいてみようか」浅荷はそっと猫に近づく。
「待てよ、野良猫かもしれないし、あんまり触らないほうが……」
「大丈夫だよ」彼女はしゃがみ込み、手を差し出す。猫は一瞬警戒したが、やがて彼女の手に頭を擦り付けた。
「ほら、やっぱり懐っこい」浅荷は嬉しそうだ。
「本当だ。動物に好かれるんだな」
「そうかな。でも、君は猫苦手?」
「いや、嫌いじゃないけど……。……。……自分以外のものにあまり触れないんだ」
「あ、そうだったんだ。ごめんね、気づかなくて」浅荷は立ち上がり、手を払った。
「いや、俺の方こそ……意味わからんでしょ」
「でも、大切なことだよ。自分のことを理解してあげて、偽らないで生きるって大変だと思う」
「そう言ってくれると……」
再び歩き始めると、浅荷がぽつりと言った。
「実は、私も少し潔癖症なんだ」
「え、そうなのか?」
「うん。でもバレー部に入ってからは少しずつ慣れてきたかな。同じボールを何人もで触るし、床も滑りやすいから手で触れるし。もちろん土足じゃないから、同性しかいないからみたいなのはでかいだろうけど」
「それを乗り越えて頑張ってるんだ」
「うん。好きなことのためなら、多少のことは我慢できるのかなと」
次の言葉を待っていたら浅荷の動きが止まっている。
「今好きって言ったのか」
「え」
「バレーなんて、好きなこともないから無理やりやらされてたようなものだと思ってたんだけど」
「へー……」
「言っておいてなんだけど、やっぱ好きなことでもないかもだな」
「でも……俺も見習わないとな」
「そのままでいいと思うよ。無理に変わる必要はないから」
彼女の言葉に、胸の奥が少し温かくなった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
分かれ道の前に着くと、浅荷が振り返った。
「明日の靴選び、楽しみにしててね」
「ああ……浅荷にとって、楽しいかどうか一切自信がないけど」
「その時はその時で……次は靴屋にいかなければいいだけじゃないの」
「じゃあ、また明日」
「また明日」
浅荷が帰るのを見届けて、俺は深く息を吐いた。彼女との会話が頭の中で何度も再生される。
人に触れないことを誰かに話すのは初めてだった。でも、彼女は受け入れてくれた。これはおそらく嬉しいのだろう。きっと恥ずかしいから、嬉しいとは認められなくて第三者視点のような反芻をしてしまうのだろう。
家に帰ると、古びた靴を脱いで見下ろした。明るい場所で見ると確かにボロボロだ。浅荷が心配するのも無理はない。
「新しい靴……」
明日のことを考えると少し緊張する。でも、それ以上に楽しみでもあった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。浅荷の笑顔が浮かんでくる。
「……」
言葉にするのはまだ早いかもしれない。
「……」
『その時はその時で……「次」は靴屋にいかなければいいだけじゃないの』
ん?
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