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「人と合うわけねえ」という前提で生きると

伊東のTUKUNE 17話

▼前回

https://note.com/fuuke/n/nd2edab87e1d5

▼あらすじ

進学した僕はなんとなく不良になり、恥ずべき人生を送っていた。ある日の帰り道、僕は村上紫という少女に出会う。そしてなぜか紫の兄としてアルバイト面接の同伴者にさせられ、お礼にしゃべるハムスター♀をもらった。彼女は生命を何らかの波動で視認するらしい。

だって誰もが僕のことを受け容れるなどと思って生きるほど「全方位的無防備」なことって、ない。

僕は僕という仮面を持ち、俺という仮面を持ち、あいにく私という仮面こそ持ったことがないが、ここまで使い分けて不良というレッテルを持っていたとて生きづらいと思っている。不良じゃない人の生きづらさを僕は知らない。

まともな感性の人を遠ざけたいとか思って、そのような気違いじみた格好をしていたわけではない。格好はあくまで適度であった。

不良には一定の義務がある、といま不良ではない(そうだろうか?)生き方をするようになった僕が当時の僕を振り返ると思える。それはいわゆる古しき反社会的勢力のそれであり、かたぎには手を出すなと。でも当時の僕は明らかにかたぎに迷惑をかけるために生きており、それが今ではただただ恥ずかしい。

かたぎは僕のような気違いを見かけたのなら僕に道を譲るべきだと思って生きていたし、そのかたぎからの「避け」を実現するために僕は前述の通り一生けんっめい髪色を変え、威圧的に見える制服と下着のコーディネートにこだわり、誰からも邪魔だと思われる存在に自ら就いていたのだから。

僕のような気違いが人と相性良くなれるわけなんてない、という前提に基づいて生きるのは非常に心の安寧を保ちやすい行為である。なんと言っても、人生に責任を負わなくてよいところが素晴らしい。暗黙の了解として「こいつは人生に責任を負うつもりがないだろうから、もはや期待するだけ無駄だ」と周囲に思わせられるのだ。不良の何がカスかってこの部分だと自らその立ち位置にいた体験を顧みて思う。

明らかに弱い者を殴り一定時間再起不能にした。誰も咎めない。どう考えてもおかしいことだ。僕は報いを受けるべきだ。当時の僕ではなく、今の僕ですら報いを受けるべきだ(当たり前だ)。

何ならその当事者から、今の僕が新宿のスクランブル交差点のど真ん中でいつの間にか背中にナイフを突き立てられ、そのままぶっ倒れて数多の車に惹かれていたって釣りが出るぐらいだと思う。

人生の責任の取らなさの匙加減の上に胡座を掻いて寝ているという行為のクソさはここにある。何かを著しく傷つけ代償を得ない奴がのうのうと生きていていいわけないのだ。

だったら、だからこそ初めから傷つけないように気違いじみた格好をしているのか。否である。人生に責任を負わないというあまりに自分勝手かつ一方的な社会契約を結び、その上で人を避けているのだ。選択肢を誰にも与えないようにしている。児戯に等しい。いや、児戯のほうが心身の成長に寄与するという意味で崇高ですらある。

そして今の僕も別に僕を今すぐ断罪してくれとか、殺してくれとか思っていないから救いようがない。神に懺悔することもない。あまりに哀れな生き物だと思わないだろうか。哀れとは、同情する価値もないという意味を持っている。

▼次回

▼謝辞

(ヘッダ画像をお借りしています。)

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