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女の嫌なところ(終わらない週末)

これ以上ジュリア・ロバーツを嫌いにならせないでくれ!と思った。ヘッダ画像をお借りしています。

ぼくは映画を見る時それがどんなジャンルかすら絶対に見ないようにしている。演技者で選ぶことはある。今回もそれだったか……異様に新しさがプッシュされてたから選んだのか忘れた。星の数ほどある映画を何故選んだかなんて考える時間があるならその時間で次の見(み)を決めるべきだ。

でも別に、なんていうんですかこのクライシス映画?だと解ってたとしても、あるいはそれにわくわくしていたのだとしても、この映画については事前期待値が高すぎた。だってジュリアロバーツですよ。そしてマハーシャラ・アリだ。

しかも見てたらあのトレーニングデイに出てきた在りし日のイーサン・ホークまでが今の姿で出てくる。そしてこのBIG3それぞれが何の見せ場も持たないままお話が終わるなんて想像できるだろうか?

どんな映画にも教訓があるとは、ぼくが信頼する人が言ったことばである。

これを踏まえて考えると終わらない週末のあった意味とは「取り返しのつかない事象が起きた時に、女の嫌なところが浮き彫りになるから気をつけろ」あるいは「歴史の接岸点にはこのようなくそみてえな映画ができる。だからせめて反面教師にせよ。後の時代に生まれたというアドバンテージがあるだけで、きみたちにはそれができるのだから」とかになるでしょうか?

それぐらい徹底的にジュリアは典型的ヒステリックばばあを演じている。わかった!わかった君に演技の才能があることはわかった!!だからこれ以上きみを嫌いにさせないでくれ!!!!!!!!!!と監督に言いたくて仕方がなかった。だってジュリアは依頼されて金を払われて言われた通りやっているだけなのだから。

ジュリアは「すべてが矛盾した女」を演じ、見事にすべての視聴者を不快にさせたことだろう。それもこれもジュリアが異様に演技力の高い生き物だったからだ……

そしてクソ女の娘とはクソ女に育ってしまうものです、というのも教訓なのだろうか?この監督は女という性別の人が極端に嫌いだったりするんだろうか、もしくはぼくがそういう部分にしか目が行かないんだろうか、ジュリアとイーサンの娘がぼくには幼稚園ぐらいのガッキに見えてたんだけど、どうやら話を聞くに中学生らしい。

そしてこれはジュリアのように演技の打点が高いというよりは台本の陰惨さによるものなんでしょうが、親御なりマハーシャラ・アリたちなりが大慌てだというのに(確かにイーサンやマハーシャラ・アリたちは場に居合わせた未成年と思われる者たちに対して、異様に「大人であれば想像しうる最悪の事態、今後の展開」についての考えを明かそうとはしなかったという下地はあるものの)、しょうもないドラマの最終回が見たい、みたい、見たい、ということだけに徹頭徹尾拘り続け周囲の足を引っ張るだけの役割しか演じてなかった。これで演技者としてのフィーが支払われたことについて、この子の両親はほくほくだろうがこの子自身は嬉しいんだろうか……?これでマジで中学生……?向こうの中学生には理性の教育が足りていないのだろうか(理性が教育されてないから、このように世界危機が起きたとしてもクソみたいなことに対する心配しかできない中学生に育つということをこの映画が徹底的に風刺していることになる)?

またマハーシャラ・アリもなんか重厚なバックを抱えていそうに見えながら別にそうでもねえ……というような見事に事前期待値を消し飛ばす立ち回りであり、何の悪気もないのにジュリアをヒスばばあにするための舞台装置の一環となってしまう。

ジュリアも冒頭でマハーシャラ・アリの家を借りた初日にイーサンと久々の交尾に及んだ瞬間だけがご機嫌の絶頂であり、以降ひどいものです。つまりジュリアは2時間キレっぱなしといいますか、視聴者はそこから2時間キレ散らかすジュリアと付き合い続ける映画なのだ。

ジュリアが可愛そうなので明日はジュリア以外の部分についても耕論を交わしましょう!!

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