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2-07-6【善と偽善の間〜善意は時たま相手の価値観を否定する+SDGs批判】

いろんな善の価値観を並べて、批判的に比較してみると、「偽善ってこうやって発生するんじゃない?」ってのが観えてくる。ここまで人間関係を論じてきたけど、やっぱ善意が変な方向へズレていく問題も論じないといけないと思うの・・・

2-07-5のつづき
本著の概要と目次

■善意は時たま相手の価値観を否定する■

では世界と私の繋がりを作業する『利他主義』はどうあるべきか?そこにも上手い?下手?がある。つまり「他者を助ける」は本当に正義なのか?自分の価値観の押し付けが混じってやいないか?・・・『寄り添う』が有るか?無いか?で『善』や『正義』も意味を変える。本著で散々挙げてきた通り、利他主義にも色々ある。とりあえず分かりやすいのだけ簡単に並べてみる・・・

英語の『利他主義』は『博愛主義』と意味を同じくし、『altruism』つまり「先ず自立し、自他を分かち、差異を越える」という意味で、差異を前提にした『客体律:倫理行為』と『主体律:道徳理念』のプリンシプルである。『利己主義』で『利他主義』を行為しても矛盾しない。【資本主義Let It Go‼】の章で論じたアイン・ランドの『利己主義の美徳』は『セルフィッシュ(孤高の)』を意味する。強者が己の義務感で自己を犠牲にし、己の価値観で世界を支える。『リバタリアン』の善であり、1960年代にプロテスタンティズムの倫理の文脈に上書きされた。
英語の利他と利己は「私の価値観であなたを助ける」と申しても矛盾しない、実にザックリした概念と言える。故に「世界を守る(肯定)、為に私を変える(否定)」で、「何を守りたいか?」における個人の理念と価値観が、良くも悪くも過剰に出る。「示し合う」から人間関係を始めるので、彼らには「私の価値観はこうだ」とキッチリ示さないといけない面倒さがある。そして個人の価値観を最も尊重する思想であるが、利他においても「私が助ける」になるので「政府が助ける」を否定し、脱税して慈善活動をする場合もあり得てくる。なぜプロに任せず「私が助ける」になるのか?

また逆に『共産主義』の善『平等主義の美徳』はどうか?アウフヘーベンした理想主義的『結果の平等』が未来の目標に設定され、現在を純粋理性で否定しだし、「世界を変えれば、みんな良くなる」と『否定の肯定』へ自己肯定化される。未来が現在を否定する。「世界を変えよう(否定)、と道徳を掲げる私は正しい(肯定)」になって思考停止し、仏教的な「世界を変えよう(否定)、と執着する己の観念を疑い(否定)、行為に集中して現実と模索していこう」とは逆に走り、理想の価値観を押し付け合う内ゲバになっていく。結果として、掲げた理想が絶対化し『PDCA』で申す『P:プラン』が『A:体系化』され、『C:軌道修正』で「助け合う行為」が時間的現在に出来ないどころか「お前は未来の理想にコミットしていない」と批判し合うカオスへ接近していく。経済場などで道徳的行為をした後に自己肯定感を得るパターンとは逆なわけだ。

この果ては四律『因果律⇄社会律⇄客体律⇄主体律』バランスを崩し、『因果律:カオス』を団結で越える為に『主体律:道徳』的主張が『社会律:法律』化され、細かいルールが無限に『客体律:行為』を支配する。こんな状況でいったい誰が『客体律:倫理行為』の模索をする?真面目に取り組む者が不条理に酷使され「ありがとう」も「当たり前」になる。社会に認められたくて頑張る者の『名誉の美徳』を侵害する。善意を掲げた『自己犠牲のシステム化』でタダで人を働かし利権を量産させる。この辺は左派でも右派でも関係無い。

一方日本的な『利他』は更に意味を繊細にする。相対的な人間関係に意味を閉ざさない。三角関係。「利己を捨て、他者に善くすれば、結果世間が良くなる」という『客体律:行為主義』特化型である。人間関係を繋いで『因果律』へ善の文脈を奉納するわけだ。「天の道」『論語』や『陽明学』である。日本は「利己を捨てる」という段階を経る。「繋ぐ」が優先で、良くも悪くも「他者との差異や関係性を気にしない」わけ。
だから善を尽くされた返礼が、まったくの他者を助けることで「おあいこ」と解釈されたりもする。『返報性の原理』つまり「施しを受けるとお返したくなり申し訳なく感じる」という心理がどう反作用するか?が日本人の『利他』に対する問題となる。「私は社会へ善を奉納する姿勢に助けられたのだから、私も社会へ善を奉納すればいい」となれば『行為主義』だが、逆に「私は無力だ」で心を閉ざすなら内面化され『自己嫌悪』に陥る。
「世間は正しい」が前提である上に、『現在』の即時性に利他を置くものだから、無力な状態に罪悪感を抱き、誰かが上手いお手本出してくれないと『主体:プリンシプル』が無い故に誰も動かなくなる。あと世間が間違ってりゃ全員が間違う。
例えば「役立つゴミを与えて助ける」は「役立つ」が利他であるが、「ゴミを与えた」で急に己の主体性を疑いだすわけ。世間体も気にするわけ。プリンシプルがあれば「いつかちゃんと助けられる私になろう」と未来を観る筈だが、「今はこれでごめんね」と利他するわけだが、そこで卑屈になる。

つまり利他主義にも色々な問題がある。助けられた側が他者の善に甘えたり、逆に善行を等価交換できなくて、己の無力さに落ち込んだりする問題。そして価値観を押し付けられてる気がして人間関係自体を避けだす問題。「ありがとう」と返礼できず「私は無力だ」が偏屈に反作用すると「助けられたくない」となる。だから中世の日本仏教は「善を相手に返す必要は無い!それより無心に身体を動かせ!」となったのだろう。その最果てが『陽明学』である。
本著後半で東洋文明史を論ずるが、空海が「恩は社会へ返せばいい」と申して仏教を掲げ、儒教を批判したのがおよその始まり。脱道徳である。これが返って自分で自分の心を整えることに注視させ、道徳となっていく。そして論語を『倫理>道徳』と位置づけ、『性善説』つまり「人間は元々善だから、あれこれ考えずに行動した方が、自ずと善へ走りだす」と考えた。これが返って自分の偽善に対するセルフ懺悔となっていく。
こうして「道徳は人それぞれだから自分で考えろ」になり、江戸中期に各種道徳の道が並んで道徳経済が華開く。一貫するのは、自分で自分の心を客観せしめる姿勢の加速と言える。その最果てが親鸞『悪人正機』だろうか?「悪ほど救われる機会がある」と申して、悪人こそに己の悪を客観せしめているわけだ。
恩を受けて無力と感じた時、又は利他を為せず無力と感じた時、マトモな感覚なら、無力を自覚した人間は自立や独立を目指すが、下手に「私が無力だ」で心を閉ざすと「漠然とした利己主義」へ偏るわけである。『客体律:行為主義<主体律:卑屈』になるわけだ。下手すりゃ助けない方がマシともなる。0点から加点するように利他主義が機能したのに、皮肉にも利他された側が利己的に己を70点から減点し始めるわけである。西洋的慈善でも、日本的慈善でもこういう例外は起こる。

■助けた相手の努力30点はどこに行く?■

偽善はこういった様々な利他の隙を突いてくる。他にも色々あるが割愛する。『個⇄個』の人間関係を対等に保つ善って難しい。「良かれ」と思って利他した先に「なぜこうなった?」になることもあれば、鈍感な者から偽善者へ化けていくこともある。とりわけ相手の価値観を否定して自分の価値観を押し付ける慈善は、助ける側を偽善者にもするし、マジにヤバい悪意ある者は、そういう構造を利用して、慈善団体を乗っ取って支配する情報戦スキームも発動して来る。目的の手段化。「相手を依存させる善」と「相手を独立させる善」は違うのである。
【デフレと奴隷】の章でSDGs批判をしたが、それである。上下依存関係を構築して「持続可能な社会へ」になる可能性が眉唾なのだ。なぜ「自立可能な社会へ」と言わないのか?他にも色々あるが、その辺の問題もコレである。このジレンマは現在に集中して『寄り添う』を挟むか?挟まぬか?が問題の定義だろう。だってそりゃそうなる。30点の人が70点を目指して頑張ってる途中で、既に70点の者が利己を捨て、又は己を犠牲に利己的に、0点から加点するように利他を成すわけだ。助けられた側の努力30点はどうなる?・・・慈善は時たま「弱者の価値観の否定」になるのである。
子育てでもよく起こる。下手なりに頑張って料理してる時に、完璧な完成品を与えてしまう親。偽善者はそれを知ってか?知らぬか?弱者を助けて相手を自分色に染めだす。悪意ある者は「相手を30点減点できる」の部分に注目して接近する。ローカル経済を破壊してグローバル経済依存にさせて「豊かになって良かったね」と申して支配する。人は正しいことを間違ったやり方で展開する。人は望まぬ未来を願ってバカになる。

次の章で論じるが、世の中には『正しい利権』と『悪しき利権』があり、例えば災害復興補助金が「最低賃金の復興労働を被災者に与える」で展開される事もあったりするのだ。中抜きである。もしこの時固有の道徳の絶対化をやっていたら?・・・散々道徳で人を動かした後「目標達成できませんでした」となったら?・・・結果が「思ってたのと違う」時、その時に待ち受けるのは旧世代道徳と新世代の反動的衝突である。道徳を絶対化すると純粋に人を憎しめる。かつての西欧宗教戦争的な社会分断と隣人同士の殺し合い然り。第一次大戦後の協調主義叱り。朱子学然り。極めて危険な暴動が待ち受ける。

しかも多様なファクターを混ぜてパッケージにした道徳は、無限に他者を叩けるわけである。自分を0点から加点し、隣人を70点から減点する。道徳を主張する者は時たま「私も道徳に寄与してるんだから、お前らもちゃんとやれ!」と空間を横殴りし始める。ココで他者の価値観の否定が加速する。0点から30点取った者が「+30点が目標だ」と申し、既に70点の者に「100点取れ」と申したり、69点に減ったところを叩きだしたりもする。黙って真面目に行為する者が減点されだし、そこに本来助けるべき弱者が含まれることもある。ジャイアンが出木杉くんに口論で勝つこともある。ボトルネックの押し付け合いも始まる。これで色々正義もひっくり返る。
まったく利他から始めたことが、利他と真逆へ走るわけ。「30点の弱者を70点へ助けてやる」が「弱者の努力30点を減点すること」になった時、相手の価値観が否定され、更に「弱者を助ける」という目的が偽善的に手段化されれば、「お前が弱者を助けろ」と空間の横殴りを始めだすのである。減点!減点!減点!そして道徳的価値観の統一。それは『個⇄個』の人間関係ではない。
アメリカ人の善は時たま価値観の押し付けになっている。日本人の善は時たま相手の努力を無視している。これが「押し付けがましい善」と解釈されるわけだ。こうなると、正しい人間が怖くなっていく。気持ち悪い・・・

誉めながら叱る会話

■寄り添うから助け合える■

『寄り添う』を挟めばその30点の努力をベースにヘルプが介入するわけである。大事なのは「助ける」という意志より「助け合いたい」だったりする。助ける側も、0点から加点する『客体律:倫理行為主義』に突っ走るのは良いが、寄り添えば相手の30点を救う姿勢になるわけである。相手の文脈を拾ってこそ正義になり得るのだ。単純に0点からヘルプする場合だと、その善は「相手を自分の価値観に染める」が混じりだす。そこも捨てて本来の「利己を捨てる」である筈だ。
『否定の否定』つまり「善を成して現状を打破する」と考える己の価値観も更に否定して、新たな善の道を引っ張り出す具合である。価値観の共有は不要である。価値観は多様にあるのである。「私が与えた善は、君が成長した後で君なりの善で、他の誰かに返せばいいからね」である。これが『倫理』だ。そして『社会律:ルール』が出来る倫理への寄与は、倫理行為を円滑にせしめるガイドラインや行動規範を示すことにある。「ダメ」を増やすより、上手い行為が増えるように促す。故に弱者の側も、30点でもいいから、己の文脈を示す必要がある。自分のペースも示す必要がある。毒も薬も混ざる不条理な『因果律』は、毒を薬に変換する試行錯誤を増やすことで治まるのである。それをしてもいい社会を先ず構築すべきなのである。

この辺の上手い方法論は本著後半【倫理社会Let It Go‼】の章で提案するが、まぁ軽くネタバレしちゃえば『欠けた円』の倫理メソッドが嵌るだろう。例えば批判したい相手の頭上に、下部が少し欠けた円があるとイメージしてみる。相手の『欠けた部分』が「ダメな部分」で『線の部分』が「良い部分」。ココの論調で申せば助ける相手の「無力な部分」と、30点の「自分でなんとかなる部分」。
こいつを『線:肯定→欠:否定→線:肯定』の順でなぞり、「君は素晴らしいが、そこを改善すれば、君はもっと良くなる」と一言で「褒めながら叱る」癖をつければ、否応なしに『寄り添う』へせしめられるだろうって方法論である。ココの論調で申せば、それが「君は頑張ってる。今は君の無力さはどうしようもないが、その努力を続ければ君はいつか助ける側になれる」となるわけ。『欠けた部分』と『線の部分』を同時に指摘すれば、立場の上下も越えて共に承認し合って寄り添えるわけである。否応なしに寄り添える。『個⇄個』の人間関係を保つ。補完し合う。
問題は「寄り添う」の有無である。それは自他の『主体⇄主体』を繋ぐ『同情』という寄り添い方ではない。『客体(強者の行為)⇄客体(弱者の行為)』を繋ぐ文脈の寄り添いである。寄り添えば利他は「相手の能力に合わせて必要に助ける」になる。コーチングもコレである。相手の文脈を引き出す段階が必要になる。ポイントは徹頭徹尾『寄り添う』なのである。私とあなたは違うのである。これが『縁起』を可能にするのである。

こうして『因果律⇄社会律⇄客体律⇄主体律』も整合せしめられていく。
『不条理な世間⇄正義のルール⇄倫理行為⇄道徳的価値観』だ。
『客体律:正義』と『主体律:正義感』も違うのである。そして人と寄り添う正義が為せるのは『客体律』の空間のみである。ココの倫理を崩したら他の秩序空間も崩れるのである。「異質な秩序の枠同士を並べ、線で繋いで整合せしめる」と考える『システム思考』の姿勢が先ず必要であり、枠の中身を観て『ロジカル思考』で原因と結果を繋いでいく作業は大して重要ではない。中身よりも枠組み。サークルである。個々のサークルの秩序が多様に並んで在るから、寄り添って助け合え、結果中身に価値が宿っていくのだ。

・・・つづく
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