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2-07-7【毒に蓋して毒の扱いを学ばぬ社会は毒が出る】

2-07-6のつづき
本著の概要と目次

■心配という名の脅迫■

良かれと思って道徳を説き、他者を支配する仕組みを作る・・・これは広義に『主体律』の問題とも言え、道徳を印象や観念に置き換えても同様になる。下手に主体を出すと、正しいことが間違っていく。過剰な薬は毒に化ける。
例えば他者への心配は、時に脅迫や支配、暴力になることもある。「登山したい」と言った子に、漠然と「山は危険だ」と印象的で観念的な偏向情報を与え続ける親。萎縮させる。「道路は危険だ」と「登山は危険だ」の理屈の間に何か余計な観念がある。「何が危険か?」「どう注意すればいいか?」も示さず一方的に脅迫して「山をなめるな!」・・・何なのだ?会議で「リスク管理が必要だ」と連呼して「何をどうすればいいか?」も示さず意識改革を促す一方の企業組織・・・何なのだ?「リスク=避けろ」と洗脳したいのか?「どう危険と向き合うか?」「何がリスクで?そいつをどう扱い管理するか?」が大事なのだろう?観念が出過ぎて他者の行為を縛る状況である。
山の危険性をお勉強するから「危険だ」と分かるのに、その学ぶ動機をも摘んでいることにも気づかい。「心配だから言うんだ」で話が終わる。己の主観で他者の客観を潰している。このネガティブな『客体律<主体律』を持続するとどうなるか?登山禁止の法律か?もしこの観念を『社会律:ルール』にすると、毒と向き合う者、リスク管理している者にも禁止令が出される。毒を薬に変換する試行錯誤、ノウハウの蓄積がロストし、次の世代で「山を否定するな」と反転した時、一気に毒が猛威を振るう。主体性の全解放である。観念的なルールで行為を縛る。企業なら潰れてくれるが、社会だとそうならない。それこそがリスクではないのか?
危機に直面した企業の社長が「お前ら危機感を持て」と啓蒙すると、役員が部長へ、部長が課長へ、課長が更に下へ同じ言葉を伝言ゲームして、優秀な人材から転職して行き、真面目な社員が少人数で負担を担う・・・というパターン、よく観る。「危機だからこうしよう」と行動規範を示し、ガイドラインをルール化して、模索の姿勢へ転じさすならマシとなろう。だが次の章でこの構造を論じるが、主体性の啓蒙は上から下へスルーされるのである。結果「言われた通りにしてるフリ」が蔓延し、非生産的になり、それが道徳なら偽善となる。これはサステナブルの逆、集団性の破壊とも言える。
主観的になると、問題の定義がズレるのだ。主客一致の作業は、個人が自分の客体から自分の主体を書き変えるから可能なのであって、集団で主客一致を模索しだすと、立場の強い者が弱い者へ「上手くやれ」と言い出す現象に化けるのである。だから集団は、個人に自立をせしめる工夫をしてナンボとなり、他者の観念の編集も、その相手が自立する為に手助けするのが基本姿勢となる。「こうしよう」と言うから「こういう心構えが大切だ」と言えてくる。客体というフィルターを通さず、直接他者の主体に語り続けると、「良かれ」と始めたことがズレていって致し方ない。観念的に毒に蓋して毒の扱いを学ばぬ社会は、結局毒に侵される。

■毒を薬に変換する作業■

「主体性を高めろ」と言われて「分かりました。主体性を高めます」となるか?「危ないからダメだ。ダメなものはダメだ」と言われて「分かりました。ダメと言うならダメなのでしょう」となるか?良いとされるもの、悪いとされるもの、我々はそいつに実際触れて、身体感覚で学んでいくのである。毒は消そうとしても、それでも在るのである。薬も過剰に呑めば毒になるのである。バランス感覚を経験的に学ばぬと、本質は必ずズレる。人の心は原因と結果を繋いで秩序立つロジックではないのだ。他者の主体に向けて「注意しましょう」と叫んでいる最中の人間に注意力は無い。そして毒を薬に変換する作業が『文明』なのである。
我々が欲するのは、小さな危険に触れる機会と、その扱いを学ぶ機会である筈。我々が組織に対して欲する姿勢は、毒に触れても破綻しない仕組みである筈。我々が社会に対して欲する姿勢は、毒を薬に換える試行錯誤がサステナブルに続き、毒が出た瞬間に、即座に全体からフォローが入る姿勢である筈。
人々の主体に宿る多様な視点が自由に移動できる状況でないとこれは不可能だ。『社会律:ルール』の役割は、『因果⇄客体』の間をスムーズに繋ぐ工夫に集中した方が賢く、直接主体へ語りかけるのが下手だというのだ。因果の毒に触れないように人々を縛りだせば、そいつは超管理社会になって致し方ない。それこそが思ってたのと違う未来であろう。『社会律⇄主体律』を管理する社会を『全体主義』という。『因果律⇄社会律⇄客体律⇄主体律』を並べて繋いで『自由主義』になる。もし「心を重視しなさい」と申すなら、「自分で自分の行為を注意しなさい」となって然るべきと言える。
世の中には「危険な道路ほど事故が少ない」とか「危険なスキーコースほど安全に走れる」とかあるのだ。整備された安全な空間で思い切り毒を出す者より、危険な空間で毒を制す試行錯誤をする者の方が、安全であったりする。過剰な人間管理をすると、人の主体性の出方をコントロールする為に、常に監視が必要となる。人の主体を管理するのは、その主体を抱く個人の客体であるのが好ましい。『主体律:責任感』ではなく『客体律:責任能力』が先ず必要なのだ。

■経験主義と合理主義■

そもそもの人類初の全体主義も、ナポレオンを生んだ歴史も、その背景はフランス革命の主体本質主義である。「国は人間の自然権だけを守ればいい」となったのは半分良いが、その主体解放は極端に出て『社会律⇄主体律』の時代へ突入させた。人間の本質が出過ぎて、国がそいつを合理化してコントロールしだした。【理性とは何か?】の章で西洋哲学史を論じたが、近代社会は『イギリス経験主義vsフランス合理主義』が並んで始まる。
近代政治哲学は『1789フランス革命』を批判して、イギリス経験主義のエドマンド・バークが『1790フランス革命の省察』で「人間の理性に任せて簡単に社会変革を為すのは危険だ。秩序の連続性を守れ」と申し『保守思想』を萌芽させ、間に客体律の秩序が置かれて模索が始まった。チャールストンを引用すれば「なぜフェンスが建てられたのか分かるまで、決してフェンスを取っ払ってはならない」である。これは「ダメだからダメ(観念論)」でもなければ「邪魔だから排除して良し(観念論)」でもない。まぁその後保守思想も物質的に「守る為にはあの本質が必要だ」となって観念や純粋理性の絶対化に呑まれるのだが、そもそもの保守はこういう個々の連続性、経験主義の立場から始まったのである。
先に述べたデカルトの主客分離、懐疑主義もこの類である。人の本質加速が社会を分断し、延々と隣人同士で殺しあってた『1620‐48三十年戦争』の最中に『客観』という秩序がかまされ、近代科学が萌芽した。と同時に『国際法』という歩み寄りの場もガイドラインも成立した。人の主体が極端に出ると、そのブレーキをかけ得るのは常に『客体律』なのである。20世紀の世界大戦で純粋理性と本質主義が極端に出た後に出てくるのも、「実存は本質に先立つ」と申すサルトル『実存主義』である。
今情報革命によるネットの普及は『因果律⇄主体律』を強引に直結した。主体の解放を加速させつつ、間の『⇄社会律⇄客体律⇄』を崩しながら『不確実』な時代になっている。この時大事なのは『客体律』の姿勢なのである。経験から学ぶ姿勢である。「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」と申すが、更なる愚者は歴史から学んだ本質をルール化して、失敗しても経験から学ばない。
客体があるから主体がある。経験があるから合理化できる。保守あるから革新ができる。実存が本質を宿す。行為が心を形成する。現実があるから虚構がある。創造できるから破壊もできる。短期記憶があるから長期記憶がある。客観があるから主観を疑える・・・「何を守り?何を変える?」「何の為に?何をしたい?」この二元性の縁起によって、人は学び道をひらく。その模索の連続性をサステナブルにして、社会は成り立つのである。

■刹那の交わりの連続性■

客体律があるから、主体律は秩序を保てる。個人の主客一致の模索を持続可能にせしめて、文明は開拓される・・・こうして再び『縁起』『人間関係』のお話に戻る。これらはすべて『客体律:倫理律』の姿勢でまわる。礼儀正しい姿勢には隙が無い。殻の内で雲龍が八方睨みしている状態は、同化を許さず、迎合もしない。私とあなた『個⇄個』の二元的関係を保持させる。「何を守り?何を変える?」の部分を鮮明に認識させ、選択の余地を与えるのである。
座して姿勢を正すと、次の瞬間に繰り出せる行為の選択肢は最大となる。正しい姿勢を保持しつつも相手と繋がらんとする姿勢が、瞬時に必要なものを差し出す『決断』をせしめるのである。殻の内に住まう龍が、外を八方睨みし、瞬時に飛び出て他者と繋がり、即座に己の殻に戻って姿勢を保つ。客体が主体を抑えるから、余計な動きが表に出ないのだ。
こうして刹那の交わりが行為され続けるのである。その決断はさながら居合の如くに、即座に抜刀して即座に納刀を繰り返し、繋がれる部分でのみ繋がることを模索させ、更には、外から侵入する問題に対応する瞬時のインターセプトも可能とするのである。『過去⇄現在⇄未来』の今この瞬間に確かな行為は出るのだ。事前に「良いか?悪いか?」を決めて縛ると、方向性がズレた時に軌道修正が不可能になる。時に大局がズレた方へ歩み出すと、誰かが悪を為してでもそれを修正する必要がある。
政治も正義の為に悪を為す仕事である。「どちらも正解、どちらも間違い」な状況で、上手く必要最低の悪を出して、結果としての正しさを担保する。毒の扱いが上手い者が、時に薬となるのである。滲み出た毒に、毒を使うのだ。正義は個々の瞬間的な行為で出るだけで、『普遍的な正義』など存在しないのだ。
それらを可能とする根本は常に人間関係で成立していく。人間関係で視点の差異を学ぶから、正しい行為が必要な時に出るのだ。「私とあなたは違う」という分母の上で、平等な地平から異質な者同士が「共に行こう」と頼り合うから『信頼関係』になるのだ。異質な者同士が共に歩むから、「今は君の出番である」と頼れるのである。自分の思想がズレた時、それを修正する力は異質な他者の手によって為されるのである。その相手が自立しているから任せられるのである。
分子が上昇するのだ。分母は繋がらなくていいのだ。客体で繋がれば、主体を繋げる必要は無いのだ。多様な主体が客体に守られて存在していることが重要で、多様な主体が恣意的に選択されてそのまま出っ放しに、又は縛られっ放しになっている状態が問題なのである。つまり人間関係における『共感』の位置づけは、始めでも終わりでもなく、全肯定でも全否定でもなく、存在や実存を観るでもなく、様々な客体行為プロセスの過程に位置づけられる。線を描いていく刹那のピンポイントな主体性の連続体なのである。あらゆる道徳が我々の心に植え付ける理想主義的な『恒常的な共感』もあり得ないのだ。共感は『過去⇄現在⇄未来』の「今この瞬間」のみに宿るものだ。

■社会の毒は摘むべきか?毒の扱いを知るべきか?■

縁起における共感は「同じになる」といった同情や同調の意味は含まなくていい。『シンパシー(sympathy)』ではなく『エンパシー(empathy)』に近い。客体の繋がり。先に論じた信頼関係構築のプロセス『信→分→入→示→共→頼』という物語を略してプロット化した語が『信頼』なのだと認識した方がいい。分かち、受け入れ、示し合ってる刹那に共感が生じ、そいつを掴んで正しい道を共に歩めるのが頼り合うということだ。「必要な時に出て来て縁を繋ぎ合える異質な他者」のことである。例えばこれが出来る状況の最小単位が挨拶や礼儀作法であり、最大単位が例えば坂本龍馬の薩長同盟などとなる。線の繋がりは時に巨大な渦へと化ける(-人-)(-人-)。
そしてこれが出来ない逆の状態が『全体主義』なのである。独裁者は必要な時に大局のズレを修正してくれる仲間が周りに居ない。心の繋がりで人を選ぶと、自分の信じた道がズレた時に誰も助けてくれないのだ。「必要最低の毒を以って刹那に毒を制す」のと「毒を以って毒を徹底的に制し続ける」のは違う。自ら毒を摘んだ結果、自ら墓穴を掘る。それが不幸の始まりなのである。
「人は理解し合えない」「あなたと私は違う」これを前提として、「それでも人は共に生きていけるのだ」と信じ合えれば、共生の模索は可能となる。人は「それでも共に生きていかねばならぬ」と想い、距離を置いて互いの背景に宿す文脈の差異を理解し、それを受け入れ、繋がり合える線を引っ張り出し、刹那に認め合い、共に寄り添って建設的な未来への道を模索していくことが可能なのである。大切なのは『信じ→分かち→受け入れ→示し合い→共感し→頼り合う』というプロセスを可能とすることなのである。
「相手を承認する」「理解する」とは、「私とあなたは違う」とする認識が分母である。極めて重要である。"差異の部分"を"客観的に"理解するのだ。主観じゃダメだ。「信じる」は「信頼」ではない。主観的に異質な存在に注目すると「全肯定か?」「全否定か?」という極端な認識へ偏向しがちだ。他者の行為を観て信頼になるのである。分かるだろうか?信頼し合える関係というのは、自らを傷つける毒を、相手がしまっていてくれる状態でもある。その客体を経験的に覚えるから分かち合えるのだ。
異なる者同士が認め合うから、互いに違いを磨き自身に誇りを持つ。これがただのケムリのようなカラッポのプライドに、中身と外部との繋がりを与える。無駄にプライドだけ高くて自尊心が低いとヤバい人間を育てるが、プライドに誇りが宿れば優れた人材を育てるわけだ。自分を守るか?変えるか?を決定づけるのは、本質よりも実存の『殻』の有無にある。そしてこの殻が本質を収納するフィルターになるのである。

・・・つづく
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