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2-07-1【言語思考を非言語思考へ解体すれば二元論の対立を突破できる】

本著は「人類文明の変革」と「変革を迎え撃つ姿勢」をテーマにする。
世界史と思想史を論じて課題抽出しつつ「姿勢の哲学」を構築して、「未来のビジョン」に落とし込もうと試みる。
『四律』というフレームを使って世界史を切り刻む。
『因果律⇄社会律⇄客体律⇄主体律』(例:環境⇄法律⇄行為⇄心理)
私は、過去の文脈をごっそり四律に当て嵌め、「この秩序バランスが崩れて歴史は動いてきた」と論じ、「じゃぁ整合させればいいじゃん」と『姿勢の哲学』を示して、未来を語りたいわけ・・・
リンク→【情報革命と姿勢の哲学:本著の概要と目次】はこちら
色々と悩んだけど、順序無視していきなり答えとなる章を出しちゃおうと思うの。

【情報革命と姿勢の哲学】
《一章:掴んで》
『因果律:争い⇄社会律:ルール⇄』に秩序を与えてきた西洋文明史。
《二章:背負い》
「我々はどう具体的にしていけばいいか?」の答え諸々と整合性。
《三章:投げて》
『⇄客体律:身体⇄主体律:心理』に秩序を与えてきた東洋文明史。
《四章:飛ばす》
中東文明の文脈と、今後起こり得る世界的混乱の連鎖。

・・・この二章の、しかも核となる部分を先に出しちゃう!
たぶんココに至る色々な説明すっ飛ばすから、理解は難しいだろう。
でもこの章にたどり着く前にUPやめる可能性があるので、また削除して書き直す可能性もあるので、先に大事な章を提示しちゃおうと思うの・・・
(ちなみにカナリな長文なので分割してUPしていく)

2-07【円環をまわせ②客体律の秩序『四元円環縁起理論』】①

■概念を時間的・空間的に認識する■

《問題》「[A]は[B]である」「[A]は[B]でない」。この2文の[A]と[B]に語句を入れ、矛盾のない状態にせよ。
《答え》「[この文]は[一行目]である」
    「[この文]は[一行目]でない」
有名な思考実験だ。カント哲学の申す『アンチノミー(二律背反)』。矛盾が成立してしまうということ。この答えは『ロジカル思考』だけでは出ない。時間的な論理思考を突破して空間認識に落とし込むと、あらゆる矛盾は俯瞰して内包することが可能になってくる。これを象徴的にビジョン化すると、道教の『陰陽太極図』となる。これがいわゆる『モダニズム(確実性)』から『ポストモダン(不確実性)』へ脳内をパラダイムシフトさせるスタート地点になっていく。矛盾の突破からお話が始まる。
但し、これは「矛盾していてもいい」というわけでもない。『主体律:心』が矛盾を正当化したところで、そいつは手前の脳内以外『因果律⇄社会律⇄客体律⇄』は常に矛盾状態だ。では我々はどうすればいいのか?
言語思考から非言語思考へ。不確実性が持つ矛盾は、論理性ではなく、空間的な認識で内包するしかない。『論理』を突破する思考は『整合性』なのである。『ロジカル思考』より『システム思考』が先立つのだ。異質な秩序の枠組みを整合させる作業が必要なわけ。広義に申せば矛盾を内包する『美意識』と、それに対する己の『姿勢』である。『インテグリティ』である。そこで『客体律』の秩序が重要になっていく。
『客観』や『行為』『倫理』等々である。次のステップは、手前の『主体律:心』を『空間的認識』と『時間的認識』にする必要がある。「空間的に位置づけたAとBは、時間的にどう変化すのるか?」・・・四元論は二元論を内包する。そもそも2個1組の二元論がクロスすることで、四元論は成立する。
気象学で申せば『温暖vs寒冷』と『高気圧vs低気圧』の2つの二元論をクロスし合わせると4つの大気構造が分類できるように、二元論的なスケールを複数組み合わせると、四元論が展開される。そいつは時間的な変化を表現する。円環が観えてくる。二元論はただの本質的な対立概念で『主観的』になるが、あらゆる異なる二元スケールをクロスさせれば、時間と空間のお話が出来て『客観的』になっていく。
『進化』とは、2つの傾向が動的に平衡して交差し続けることと言える。円環のまわる集団と集団が二元的に対立した時、それはどう交わるべきか?どう整合させればいいか?・・・二元対立は『主体律』で正当化し合うと『分断』を生む。「どっちが正しい?」と衝突し「お前が消えろ」闘争する。だが現実は「どちらも正しく、今はどちらの出番か?」があるだけ・・・というケースがほとんどだ。つまりどんな悪意が心にあろうと、内に存在するその記憶自体には罪が無いのである。
本章は『客体律』の秩序を論じつつ「二元的な相対性を突破する認識」を命題に論ずる。本章は『姿勢の哲学』を掲げる本著としては核心部となり、主に『コミュニケーション論』の類が中心になる。『主体律:心』の矛盾を突破する力は『客体律:行為』に宿る。人が時間的認識をするのも、人が空間的に変化へ適応するのも、常に『客体律>主体律』からである。

■二元論を越えて円環を動かす■

世の中は、核融合を目指して「単純な軸上で本質的な2元性の衝突を延々とし続ける」よりも、4元性にすり替えて、「時間と空間を泳がせた方が物事が動く」ものだ。4元性は衝突せずに、且つ2元性を否定せずに空間を回転することが可能だ。その渦中で刹那に何かが現実空間へ創造される。大事なのは刹那に創造される線の部分であって、分母にどんな素材が存在するか?は重要ではない。
それを『縁起(縁に依拠して起こる)』と解釈することもできる。この二元論の空間的4分割が、4のn乗で16→64→256→1024と曼荼羅を細分化させ、主体に宿るマインドマップを細分化させ、部分最適で考えると、広義の円環の渦中に狭義の円環が無数に展開される具合となる。大きな円環の中に小さな円環がいくつもある。その渦中のどれかが表に出るのだ。
『PDCAサイクル』のP枠の内側で展開される狭義の円環がいくつか一定にまわりだすと、全体がDドリブンに移行するという具合。例えばプランに同意し「やろう!」とスタートアップする人々の能力が一定水準に達すると、大きな円環が場の広さに応じて動き出すわけである。二元論の衝突でこれは起きない。『P=A』で思考が閉じてしまう。アプリオリな純粋理性で構築した脳内の理論を体系化させて「理論上可能だ!」などと申し、現実の側を否定しだすというのだ。時間的でも空間的でもなく、「この答えを現実化しろ」しか言わないからだ。
ちなみに、「どうすればいいか?」と現実的な道も示さず「矛盾していてもいいんだ!」と他者へ『主体律:主張』するだけの者は、手前の脳内だけで矛盾を内包しただけの、「理論上可能だ!」と要求する者と大差無い。これが続けば『美意識の相殺』という批判すべき状態になっていく。『因果律⇄社会律⇄客体律⇄主体律』の整合を模索する姿勢に変換しないと四律バランスは崩れる。
そして小さな単位円環の回転が一定水準を越える十分条件に達したら。次のドリブンへ移行させる原動力は『主体律』の本質よりも『客体律』が重要になる。行為、ふるまい、経験、五感を動かすリズムやメロディーである。これが心の曼荼羅に振動を与える。共鳴する。本質が勝手に作動しだす。本質の中身に注目する必要は無い。
よいよいよいやっさ~♪この発想の転換を『音』と見出したのが真言宗。般若心経の『羯諦羯諦』もそう。プリミティブに「音に導かれて動く」という感覚がある。先ず文脈のゆらぎに音をつけ、そこに言語記号をこじつけて意味づけを為す感覚も特殊だ。それは共鳴も含む。わっしょいわっしょい。主体内で固定化した本質に振動を与えることで人々が『客体律>主体律』になり、現実が動き出すわけ。
意外と『言語記号』と『音』を関連づけて思想化した者は少ない。私の知るところでノーム・チョムスキー、フッサール『現象学』、バルトリハリ、空海、インド仏教ミーマンサー学派くらいだ。『脱構築主義』も多少触れている。否定を重ねて論理を文脈へ脱構築し、音を与えることで、文脈を整合させる模索が始まるというわけ。その点日本は異質である。私が中学剣道部だった頃の先生の名前は「富風尊(Thompson)」だった。音から言語記号を構築する。日本はいつだって音をデザインして意思統一を工夫してきた。俳句にも季語がある。音と時間もリンクさせてきた。
ちなみに中世東アジアグローバリズムで外交の道具として使われた『漢字』は、中国がそうであるように「言語記号をデフォルメして意思統一し、音が地域でバラバラになる」となる。こいつが日本では逆になるわけである。
そして『主語』を引っこ抜いて『述語』や『形容詞』で会話をするのも日本語の特徴。文脈のゆらぎを他者と共有するのである。理論や目標の側を脇に置き、文脈を整合させる行為が先に来る。「和を以って尊し」である。その感覚で仕事の合間に詩を詠み、認識を共有する習慣もあった。同じ漢字を地域で違う読み方はしない。音を統一して文字の側をいじってきた。日本は普通に音感の思想と文化を宿している。広義に申せば五感を前面に押しだす『体験主義』の文化である。
日本人の音感は世界的に特異である。森の音などで身体や心がゆらぎだす。背景のコンテクストのゆらぎを先ず観る。『空気読解能力』である。固有名詞を好きに略してデザインし、そちらの名を共有する。『スターバックス』を『スタバ』と呼ぶのも音のトーテム。そして俳句の五七五。リズムのデフォルメ。オノマトペなどは聞こえない音にまで音を与えた。「シーン」・・・それだけで我々はその空間へ飛んで行ける。空間に適切な音を与えて認識してきた。
サンバのリズムの踏み切り音。木魚のサイレンの救急車。アルファ波を出す地震速報。そういったズレた音を想像すると身体が凄い違和感で包まれるだろう?音感で身体が動き出すように刷り込まれているからである。また音感は価値観も育てた。「モグモグしているモフモフリスさんのプクプクほっぺをツンツンしたいの」とか翻訳できまい。日本語のみで伝わる情感だろう。

■言語記号と論理の塊を背景の文脈へ解体して人を動かす■

音の振動は下手すりゃリーダーシップより人を動かす。否応なしに『客体律』を先ず動かす。幕末の志士は音読で学問を学び、陽明学で行為主義に目覚め、「頭カラッポにしてバカみたいに突っ走れ!」となり、その中からリーダーが出現した。宗教もそれだ。念仏で人を動かしてきた。デモや暴動もである「えぇじゃないか♪えぇじゃないか♪よい♪よい♪よい♪よい♪」である。陣太鼓もだ。御陣乗太鼓は戦争の攻撃手段を太鼓の音へ変換した。
辛く哀しいメロディーに楽しいリズムを乗せて、『→客体→主体』の響きが『←客体←主体』の楽観主義へ化け、悲観主義など主体空間内の苦悩ループを突破し、人を動かすのである。本質は、本質に注目して動かそうと試みても動かないのである。「実存は本質に先立つ」と申したのはサルトル『実存主義』。客体が主体を動かす。コピーライターは音感を最重要視する。誰が言ったか忘れたが、「半分論理で半分感情の、音読してかからず意味でかかる、21文字の言葉は人を動かす」だそうだ。「Aか?Bか?」で悩む前に「先ず身体を動かせ」である。
赤ちゃんは言語ならざる言葉をしゃべる。ベビーサイン。読解も可。「あぷぅ〜」と申して手を伸ばし、それが「こっち見て」のサインである子も、「よきにはからえ」のサインである子もいる。そもそも言語は『音』から、『ふるまい』から始まる。そいつを読解して人は他者と繋がる。あくびは伝染する。おサルさんにも伝染する。お犬様にも伝染する。みんなに感染る。そして世界が平和になる。
言語記号は後から付いてくる。音楽を聴けば歌詞も覚える。でも言葉が無くとも言葉は伝わっていたりする。『非言語コミュニケーション』と『空気読解能力』又は『共感』のみでも人は他者と繋がれる。ふるまいをデフォルメして言葉を集め、記号を体系化して言語になるからだ。このプロセス。「言語があるから人と人は繋がれるのだ」とは言い切れない。むしろ「言語があるから人は人を拒絶するのだ」とさえ言えてくる。理解し合うのと、理解し合わないこと、どちらが人間関係において有効なのか?・・・
そもそも「心が大事」と申すと「身体は私の所有物」になる。『客体<主体』は「心が身体を奴隷にする」状態へ接近していく。心を重要視する結果が支配を生むという皮肉。『孤独』の問題も起こる。その入り口は理性が身体に無理を強いるとか、そんなことで起動する。そして対立した関係性の側を先ずデフォルメしだし、そいつが他者へ伝染するという最悪を展開しだす。その際たるものが『偏見』の伝染によって発生するレッテル貼り、『差別』だろう。
順番が逆なのだ。そもそも理性は大したものではないのである。身体に比べて、心は大事に守る必要が無いのである。むしろ変えるべき対象である。意識的には、先ず『客体>主体』を大事にするのが王道なのだ。デフォルメされた固定観念を文脈へ脱構築して、プリミティブで身体的なコミュニケーションに還って線を繋ぎ直す作業をした方が、人間関係は生産的になれる。文脈コミュニケーション。「背景の文脈を観よ!」である。
ちなみに、これは既に一章の【理性とは何か?】の章で『西洋哲学史』を論じたが、ルネサンス以降に構築された人間主義の理性哲学が、背景の文脈を重視した哲学へ変貌するのは、第二次大戦後である。「理論上可能だ!」と申す理性主義にウンザリして出てきた『実存主義』『構造主義』『脱構築主義』等々である。そして人類文明のパラダイムシフト
『①農耕文明(中世)→②産業文明(近代)→③情報文明(現代)』
に平衡するように、価値観も
『①プレモダン(信仰・象徴性)時代→②モダニズム(絶対性・確実性)時代→③ポストモダン(多様性・不確実性)時代』
とシフトするわけである。2020年代はポストモダンが国家体制の変革にもメスを入れ始めた段階になる。
ところが東洋哲学は、というか日本は、既に『実存主義』『構造主義』『脱構築主義』等々をやってきたわけである。だいたいが、日本人って私が前章でやってみせたような「イチから合理的理論を構築する」は苦手だが、手を動かしながら「既存の理論体系を文脈へ解体して、別のカタチに再構築する」はやたら得意だろう?『維新』だの『イノベーション(破壊的創造)』だのやたら好きだろう?だから言語思考を非言語思考へ解体して、二元論の対立を突破して、さっさと『客体律:プラグマティズム(行為・道具主義)』に変換して本質論をお手玉のようにして遊びたがるわけ。だから論争になれば「曖昧な答えを好む」わけ。『主体律:プリンシプル(理念主義)』より『客体律:インテグリティ(真摯な姿勢)』で矛盾と向き合う。つまりそういうことなのだ。
ポストモダンはこちらに向かってるのである。そこで、東洋文明の思想をうまく整合させることに、今意味があるのである。本章を含む二章全体で未来へのビジョンを構築した後は、『東洋文明史』を論ずるが、ココで論ずる諸々は、東洋思想の躍動を読み解くにおいても、後々重要な章になってくる。

・・・・つづく

次→2-07章②【仏教の根幹『縁起』とは何か?を『PDCAサイクル』で説明し統合する】

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