くらしにきました |#5「妖怪、それは人間を読み解く記号」
地方出身、東京経由で、また地方へ。暮らしが移ろぐ20代を過ごしてきたアラサー男子二人が、地域、仕事、妖怪(?)についてあれこれしゃべります。
富川屋 / to know代表。ローカルプロデューサー。新潟生まれ割烹屋育ち、岩手県遠野市在住。宮城大学非常勤講師。赤坂の広告会社でWebマーケ→移住→ベンチャー共同創業→独立→75歳の師匠に出会い遠野物語にドハマりし文化領域で創業準備中。郷土芸能舞い手、HIPHOP好き、岩手ADC賞2018グランプリ受賞作品のプロデューサー。遠野文化友の会副会長などなど。ほそぼそと実家の鮭の味噌漬け販売中。
https://www.toknowjp.com/
1988年生まれ。プランナー / バーテンダー 。「ケケケ」という屋号で、広告代理人的に、地域と絡みあうメディア・場・カクテルづくりをやってます。たゆたうバー「movar」、空きない-飽きない-商い「アキナイイエ」など。元・おきなわ移住計画代表。自由研究テーマは風俗と民俗と芸能。趣味はローカルウォッチ。境港市妖怪検定中級。
https://note.mu/omija
都会を経験したのちに、岩手と鳥取、生活拠点をそれぞれ移した二人が、全5回にかけて繰り広げるローカルトーク「くらしにきました」。
第4回では、地域プロジェクトに関わる以上、一人だと動かせないものがあるなか「どうチームとして動くか」、その立ち位置やコミュニケーションの方法、そして「ボケ」と「ツッコミ」がチームを円滑に動かす可能性などについてのお話でした。
今回は、大見謝さんの専門分野である「妖怪」について。大見謝さんと「妖怪」の関係性や、「五感を使う」ということの意外な需要、妖怪の存在から人間を読み解くこと、妖怪は日本人の伝統的な「ボケ」かも?など、「妖怪」を軸にあらゆる話に深く発展していきます。
閉塞感が妖怪好きを再燃
大:今年のちょっとした抱負として、noteで「妖怪」をテーマに書きたいと思ってるんですよ。
岳:出た、妖怪!(笑)大見謝さんは妖怪検定も持ってるしね。
大:ですです、「妖怪といえば大見謝だ!」みたいな印象を付けて、ちゃんと仕事に結び付けられるようにしたいなと(笑)。
岳:ちなみに妖怪はいつから好きなんですか。
大:僕は”出戻り系”なんですけど。
岳:出戻り系!?
大:なぜか妖怪本がいっぱいあった家で育ったので、幼い頃から「ゲゲゲ」は観てましたし、もともと「妖怪」は馴染みあるものだったんですよね。ただそのときは「仮面ライダーが好き」くらいのノリと似てたはずで。
歳を重ねて中学高校へ上がると、その存在はずーっと忘れてたのもあって、妖怪を大人の自由研究の対象にし始めたのは、大学上京後の20歳くらいのときですね。その時期に、小学校以来の人生2度目の境港にも旅行しましたし。
出戻りで好きになった理由はうろ覚えですけど、多分、田舎から大都会、東京に行って、ロジックだけとか、目に見えているものだけで生活している感覚が自分の中にも、街にも溢れてる気がしちゃって、それが苦しかったのかもしれないですね。
岳:なるほど、窮屈だったんだ。
妖怪とバーの共通点
大:なんか、五感を使って生きていないなって。
岳:はいはいはい、わかる〜!
大:東京に行ってからは、なんとなく食べ物の味がするとか、なんとなく見えている、なんとなく聞こえている、みたいな受身で五感を使っている感じですよね。つまり、ご飯を味わう、風景に目を凝らす、耳を澄ます、みたいなことが能動的にできてない時期があって。
離島という、五感的に刺激の強い田舎で育ったもあったせいか、「五感を使って生きないとしんどいな」って思ったときに、妖怪が”いる感じ”って、(その姿は)見ようとして見るもので、(その音を)聞こうとして聞くものだから、「五感」と「妖怪」というワードが、なんとなくそこで結びついていったんですよね。
岳:なるほどね〜〜〜!
大:ちなみにバーテンダーの仕事は、五感をフルに使うんですよ。味覚はもちろん、お客さんの観察だったり、音でグラスで減り具合チェックするし、シェイカー振るときは指で冷えを感じるしで。バー空間にいると、自分の五感が鋭くなっていくんですけど、その感覚がなんか好きで。妖怪に惹かれる理由と似てるかもしれませんね。
「目に見えない世界」を感じとる力
岳:僕もまさしく同じようなことを考えていて、去年の暮れに、十人ぐらいを遠野に招いて、2泊3日でフィールドワークをやったんですよ。そのメンバーっていうのが、広告代理店の人が多かったんですけど、広告とかテクノロジーの分野って、時代の最先端と言えるじゃないですか。
で、プランニングをするときに、最先端の彼らがわざわざ遠野まで来て、100〜200年前の日本人が考えていたことや価値観を知るというのが、なんか逆説的に面白いなと思ったんですよ。
(五感をフルにつかって遠野物語の息を感じる遠野でのフィールドワーク。頭で考えずに、体で感じることで得られたものがあった)
大:あ〜、たしかにそれは面白いっすね。
岳:プランナーの人たちって、基本、論理的な左脳をフル回転させているじゃないですか。だからそのフィールドワークでは、何かを感じるとか、日々の生活の中で決定的に欠けていて、それを取り戻すような3日間にしようって話をしたんです。
実際過ごしてみると、それが明確になった。振り返ったときに、遠野が実際に物語の舞台だったことを実感できた、とみんな話していて。いつもだと僕はガイドとして案内して、各所でバーっと説明入れちゃうんですけど、この時は、あえて最初は説明しないで、各々がその場所にどう「感じる」かを大事にすることを試みたんです。
岳:そしたら、木漏れ日がすごい気持ちよかったーとか、木々の葉が落ちてくるのがすごいよかったとか感想があって。だからまずは、感じてもらう。その次に、やっと説明をするみたいな。些細なことかもしれないけど、そういう自分から何かを感じとろうとして、ハッと気づく感覚って、なんか動物的というか、身体性というか、どこか訴えてくるものがありますよね。
妖怪とか神様とかって、目に見えないけど、「目に見えない世界がある」っていう感覚に、今を生きる人たちがどういう風に触れていけるかを、単なるツアーというよりも一歩踏み込んだプログラムとして企画できるんじゃないか。それをBtoBでやっていけないかなって思っているんですよ。それを遠野とか境港とかで連携しながらできたら面白いなって。
大:そうですね〜。面白くなる気しかしません!(笑)
心の「余白」をもたらす存在として
大:そういえば、よく聞かれるんですよ。「妖怪が好きなんですか」とか「妖怪っていると思いますか」って。
で、僕の場合、好きとか嫌いかってのはなく、妖怪は「人間を読み解く記号」としか思っていないんです。妖怪によっては、地域にあった昔の生活様式も見えてくるし、そこに住んでいた人々の精神性もなんとなくわかるなっていうのが一つ。
(「妖怪をのぞけば、暮しと人がみえる、自分がみえてくる」を仮説をもとに、大見謝さんが数年前に連載していたコラム「暮しと妖怪の手帖」)
大:もう一つは、「いると思いますか」っていう質問に対しては、「いるとも言えるし、いないとも言えるよね」としか答えられなくて。正直、妖怪って、いてもいいし、いなくてもいい存在だと思うんです。
ただそう考えるときに、妖怪は「いない」って決めつける人生よりも、「いてもいいよね」とか「いたら面白いよね」とかっていう人生のほうが僕はいいな〜と思っていて。そこに人間の心のゆとりを感じるんですよね。たとえば、天気雨のときに、科学的論拠でもって気象情報云々~って話すよりも、「こりゃあ、狐の嫁入りだ」と話すほうが風情があるし、粋じゃないですか。
岳:わかるわかる、余白というかね。
「制御できない」ものの象徴として
(遠野の民間伝承に残る「オシラサマ」は、馬と恋仲になった娘を父親がどうにかしよう、という話でもあり、ある意味、人間の「制御」領域に触れる話かもしれない)
大:東京って電車がよく止まるじゃないですか。昔、電車が落雷か何かで止まったときがあって、いろんな人がてんやわんやしている中、スーツのおっちゃんがイライラしながら上司か取引先の人に電話しているのを見て、「なんでイライラしちゃうんだろうな」ってふと思ったんですよね。
よくよく考えてみたら、自然とか災害って人間がどうにかできるものじゃないじゃないですか。僕は田舎の島で育ったから、台風がくるとフェリーが止まり、スーパーの食料品棚が寂しくなるのを知っていて、それは「しょうがない」「受け入れいれなきゃいけない」という感覚を持っているんですね。ただずっと都会にいると、不思議なもんで、物事をコントロールできるのが当たり前だと勘違いしちゃうんですよね。実際、電車なんかは分刻みで発着を繰り返してますし。
そういうきっちりとした中で、コントロールできるものの中だけで生きているのはすごく寂しいなぁと思ったんです。妖怪という存在をいてもいいって認めることって、自然を受け入れることにすごく近い気がしていて。
岳:うんうん、確かにね。
大:その自然に対する感覚が、僕の中で大事だったんですよね。で、自然っていうと、地方と結びつきやすいじゃないですか。
岳:まさにそうですよね。山が近いと「山岳信仰」があるし、「鹿踊り」っていう東北にある郷土芸能とかも、いかに動物と調和していくかっていうものなので。ししと人が対で踊って、戦うっていうのと、調和するっていうのを表現してるんだけど、僕はそういうアミニズミ的なものを遠野に来てから触れて、「ああ、そういう世界があるんだな」と知りました。逆に東京にいたときって、そんなこと微塵も考えてもいなかったなあ。
「境界」の曖昧さをもって、仕事や人をのぞく
(『遠野物語』における「境界」について説明する岳さん)
大:2年前の遠野フィールドワークで強く感じたことでもあるんですけど、「境界」というか、「境目」を考えるための記号として、妖怪っていうのがあるなって思っていて。
妖怪が現れるところって、まさに”境界”ですよね。どこかの「際(キワ)」とか「境目」とか。
たとえば、家とかだと、人が出入りする「戸」とか、内外を隔てる「窓」とか。他だと、道路が交差する「辻」とか、川の「橋」の上とか。妖怪が現れる場所っていうのは、どこかとどこかを繋げたり、逆に境界線を引いているような場所なんですよ。その性質って、めちゃくちゃ面白いと思ってます。
(妖怪は境界があればどこにでも現れるぞ、という意味も含めて、大見謝さんが妖怪・ぬらりひょんを日常のさまざまなところで撮影する「MONSTAGRAM」)
岳:なるほど、それは興味深いですね~。
大:後から、妖怪を学問的に説明するときに、その概念が使われてるのを知って、僕のもともとの関心も「境界」なんだなって気づきました。人間と妖怪。観光と観光。恋愛と結婚。遊びと仕事。いろんな境界があるんですけど、その境界線って、すごく曖昧なんですよね。
ついさっきの仕事の話にも繋がるんですけど、僕自身、境界線上に立つような仕事をしていること多いんですよ。
岳:すると、妖怪ってわけですね、大見謝さん自身も(笑)。
大:2~3年前くらいまでは、自分自身に「何やっている人なのかよくわかんねえな」って悩んでいたんですよ。働き方としても、仕事としても、やっぱりわかりづらいことをしているし、親にすらうまく説明できてないぞって。
ただ、ふとしたときに「わかりづらいからいいんだ!」ってポジティブに考える瞬間がやってきたんです。曖昧だから面白がってくれる人と今つながっているんだなって。だから今は、人間なのか妖怪なのかよくわかんない、半妖怪のねずみ男を目指してます(笑)。
岳:何やっているかわかんない人が面白いなっていうのは、思いますね。
大:今の言葉を使うと、「越境者」とか「コネクター」とかですかね。いろんな領域や人の境界(間)に立てるからこそ、結び付くはずのなかった者同士がつながるってこともありますし。
岳:そういうの、ありますよね。僕も、土着的な文化はもちろん、一方で、音楽とかデザインとかも好きだから、いくつかの領域を行ったり来たりするのが自分の役割だし、一番気持ち良い。
遠野物語だけずっと読んでいるのも飽きちゃうから、デザインとかそっちの方にも情報をインプットしたくなるし。それを繰り返しながら、新しい文脈とか動きを作っていくっていうのが結果的に地域のためにもなるような気がしてます。
妖怪は日本人の伝統的ボケか
大:さっきの話に出た「ツッコミよりもボケにまわれ」とか、見方を変えたら「人の弱さもボケだ」とかの考え方から発展して、妖怪もボケなんじゃないかなって思ったんですよね。太古から伝承してきた、日本人の大ボケ。
ギリシャ神話って、自然現象とか病気とか、昔の人が非科学的で説明できなかったものを、神々に例えてたじゃないですか。日本の場合は、そういう”非科学的”を妖怪に説明させてたんだと思うんです。
江戸以前って、今ほどには妖怪に形がなかった時代だったんですよ。妖怪は自然災害とか、音にその気配を感じるもので、姿形は人それぞれ違う認識だったらしく。ただ絵師が、妖怪を絵に描くことで妖怪のイメージが固まってきたわけです。
(絵や文章に残せる文化レベルがあったことはもちろん、それ以前の口承で伝えれらた時代には、あちこちを行き来する馬引きの存在や、その立地条件や交通網も「地域で妖怪が育つか」どうかに関わるとか)
大:たとえば、使い古された物に霊が宿るとされる「付喪神」だと、草鞋や傘に手足が生えてるとか面白いですよね。そうやってコミカルに愛くるしく描かれているのを見ると、あらためて日本人の感性すごいなと思って。もうこれは日本人のボケなんじゃないか、と。ツッコミどころがある。
僕がこれからやっていきたいことって、これまでの妖怪先駆者たちが固めてきた「妖怪ってこうだよね」っていうものに対して、ツッコミを入れていくっていうのをやりたいんですよね。それをエッセイとか、何かの企画として表現できたら面白そうですし、その延長線上で、遠野との関わりも深めていけたらと思ってます。
妖怪を知って、自分という人間を知る
岳:妖怪が狭い集落の中にいるからこそ、「不倫したのは河童の仕業」って言ったりとか、そういう緩衝材にもなりえてきたじゃないですか。
大:河童に憑かれると女性は淫乱になる、みたいな話とかもあるみたいです。「河童に憑かれると大変なので、若い娘は川の近くに行かないように!」みたいな。九州の河童はそういうのがありますね。
岳:河童は九州が本場ですもんね。圧倒的に事例の数が多いですよね。
(カッパ淵でも有名な遠野。その近くに位置する「遠野伝承園」では、民間伝承に詳しいカッパおじさんに出会える可能性も)
大:これは僕の推測でしかないんですけど、日本古来の、というか日本らしい河童は東北にあって、九州の河童には中国系譜、中国産も混ざってるんじゃないか、と妄想をしていたりします。・・・・・・っていうか、2時間ほど富川さんとお話してて、僕の中で「妖怪」がかなりのキーワードなんだなと気づきました!
岳:おぉ! でもそれは、大見謝さんがもう、妖怪だから。キーワードどころか、存在としても妖怪ですよ(笑)。
大:なんと(笑)。あらためて、遠野に行けて本当に良かったと思うのは、『遠野物語』を通じて、これまでの自分の関心事が、全部妖怪につながっていると気づけたことです。
僕はそこをもっと突き詰めていきたいし、それを際立たせたいからこそ、境港という場所にこだわるのかもしれませんね。気持ちだけではどうにもならないこともあるけど、境港にいると自然と、というか嫌でも妖怪について考えさせられますから。
自分が考えたいことを考えやすい場所に暮らすってのは、豊かさの一つかもしれませんね。
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五感で感じると世界の解像度が上がっていく
今回は「妖怪」についてたっぷりお話ししていただきました。妖怪を多様な視点からみて考えてみると、こんなにもおもしろい考察になって、するりと自分の生活に組み込まれてくるんですね。
大見謝さんが言った「これまでの自分の関心ごとが全部妖怪につながっていると気づけた」という言葉を聞いて、人生には引き寄せの法則が働いているのかなあと思わされました。
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今回私が気になったのが「五感を使って感じる」というトピック。
言葉で言うのは簡単だけど、やってみると普段の自分がどれだけ日々無関心に生きているか分かり、驚くものです。五感をつかって感じる場面は、日常にたくさんあふれています。
例えば、ご飯を食べる時。「美味しいなあ」から一歩踏み込んで「これはなんの食材を使っているんだろう」と考えながら食べみる。見た目、匂い、食感、味、温度…。五感をフルで使ってその一口を感じてみると、使っている調味料とか、調理の工夫とかに目が行きます。
これをやると、料理の美味しさの解像度が上がるんです。ぼやっとしか見えていなかったものが、どんどんはっきりと見えてくるような感覚。
これは一例ですが、五感を研ぎ澄ます事って、世界の解像度を上げる事かもしれない、と思います。岳さんが実践されていた「普段の忙しない仕事の世界から離れて、五感で自然を感じ、受け入れる」というのも、「あぁ、木の落ち着く匂いだ」とか「透き通った風が体を通り抜けて、気持ちいい」とか、生活の中で鈍くなっていた人間本来の感覚を取り戻す作業だと思います。そして「自分を取り囲む世界はこんな風に成り立っているのか」と、認識を改めさせられるものなのではないでしょうか。
(気仙沼市の離れ小島、大島は海も山も楽しめる場所。ここに来た時は鈍っていた五感がスーッと研ぎ澄まされていく感覚がありました。私のジェダイ感…)
それから、五感で感じることで対象の解像度が上がるということは、誰かの何気ない優しさに気づいたり、自分の感情のかすかな動きなどを感じて大切にすることにつながっていると思います。
なんだか忙しなく、生きづらいこのご時世。多様な価値観ががんじがらめになって、ちょっと窮屈に感じる人もいると思います。(私はそうでした)
そんな時代だからこそ、私は五感で感じる事を忘れずにいたい。自分の体で感じた事を信じていきたいなと、今回の話を聞く中で思いました。
しかし五感を使って生きるというのは、「余裕」がないとなかなかできないと思うのです。心にも体にも余裕があって、自分のキャパシティにゆとりがあるほど、感じることや受け取る量も多くなる。余裕がないと、感じたこともこぼれていってしまいます。じゃあどうしたら余裕を持つことができるのかしら?と考えた結果、当たり前のことにたどり着きました。
それは、「ちゃんと暮らす」ということ。
朝起きて、ご飯を食べ、働き、好きなことをして、よく眠る。基本的な生活をきちんと一つずつやっていくだけで、自分の心も体も研ぎ澄まされていきます。自分の暮らしをちゃんとできると、余裕ができる。余裕ができると、自分のことをきちんと考えて大切にしてあげられる。そしてたくさんのこと、ものを受け入れることができる。それって五感感じまくりの正のサイクルだと思うのですが、どうですかね。私はやりたいことが多すぎて、どうしても「暮らし」の優先順位を下げがち。もう一度見つめ直して、余裕を持てるようになりたいです。
これを読んでくれているあなたも、ぜひ「五感で感じる」をやってみてください。大自然に囲まれた場所で深呼吸をするのも、大の字に体を広げて大地を感じるのもよし。それが難しいなら、日々の生活の中で、五感を使う練習をしてみるのもよし。そうしたら少しずつ、見える世界がより鮮明に見えてくるかもしれません。
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「くらしにきました」は、今回でひと区切り。二人の対話の中には、たくさんの驚きや発見、共感がありました。岩手と鳥取で暮らしていく二人の活躍は、今後も注目です!
読んでくださったあなた、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
(終わり)
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