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09【針箱のうた】戦中時代1941~1945(昭和16~20)年(1/2)


覚えてないねえ、真珠湾攻撃

H
長男・K夫兄さんが生まれたのが昭和16年(1941年)で、この年の12月8日の朝、「臨時ニュースを申しあげます。臨時ニュースを申しあげます。帝国海軍は、ハワイの米艦隊にたいし、決死的な攻撃を敢行というラジオ放送があったということだけど、ラジオは我が家にあったの?

フク
ラジオはあったね。ラジオがなければ危ないからね。新聞も取っていたよ。でも真珠湾攻撃は覚えていないねえ。生活に追われていたから。

次男・K二がジフテリアに

フク
おとうさんは勤めていた工場で徴用になって月給が50円位だった。昭和17年の夏に次男・K二が生まれて、その冬に風邪をひいて咳をして変だから、すぐそばの小児科のO先生の所へ連れていった。そうしたら先生が「これはもしかするとジフテリアかもしれない」と言って、専門の医学博士を紹介してくれた。そうしたら「何でもない」と言われて帰ってきた。けれども熱が下がらないので、又O先生のところへ連れていった。そして又同じ医学博士のところへ行くと「こりゃあ大変だ」と言って、N病院に入院させられた。血清注射をおとなの倍もうって、酸素ボンベを18本使ってようやく助かった。酸素も配給だったので、無くなる度におとうさんが警察署のそばの酸素屋さんにお願いして、自転車で病院まで運んだ。
お腹には三男がいた。「お腹の子は死んでもいいからK二を助けたい」と私が言ったら本所の義母も駆けつけてきてくれて「何でそんなことを言うんだ」と叱られた。助かって家に帰ってきたらハイハイの様子がおかしい。片足を引きずってしまう。それでT医大にいって毎日マッサージをした。マッサージが1日1円かかった。戦争中だからモンペ位の縫い物しかないし、おとうさんのかせぎじゃあとてもたべられない。

おとうさんNドックへ

フク
おとうさんという人はわがままで正直者だから、人の見ていない時に休めばいいのに、人が見ていなくても何でもいっしょうけんめいやって、偉い人が来たって休憩しているものだから、にらまれて月給が上がらない。そうしたら工場の仲間が「横浜のNドックに行くとひと月100円以上もらえるから、そこにいかないか」と誘った。その人は上手で工場に2日行くと「体の調子が悪い」と言って、Nドックに2日行ったりして100円以上かせいでいた。ところがうちのおとうさんは徴用なのに工場へ行かずに、Nドックに行ったっきり。「おとうさん、駄目でしょう、駄目でしょう」といくら私が言っても工場へは行かない。

国家総動員法違反

フク
昭和18年の6月の何日だったかは忘れたけれど、朝の5時頃、店の表から2人裏から1人、私服の刑事が3人やってきた。刑事は「すぐ帰すから、ちょっと聞きたいことがあるから」とズカズカ入ってきた。びっくりして、「おとうさん」と私が言うと「うん、直に帰ってくるよ」と支度をした。要領よくやるように私がさんざん頼んできたのに、絶対におとうさんは聞かなかったから。Nドックはずいぶん危険だったらしいけど、100円以上かせぐから次男K二のマッサージ代が出るんだよ。私も100円もらえば喜んだけれども、おっかないからねえ。
警察に連れていかれたので、私は毎日お弁当の差し入れをした。真夏の暑いさかりに日傘をさして、大きなお腹をして次男K二をおぶって、親類のおばあさんがお経を読むといいと言ったのでお経を読みながら、川っぷちを歩いて警察に通った。小さな子供たちがそんな私をおもしろがって私に群がって歩くんだよ。こっちは早く帰してもらいたいから夢中だよ。拘留期限が切れるとちょっと警察の外に連れ出しては、そこで再逮捕するんだよ。あの時分の警察だからなぐったりはたいたりで、おとうさんも大変だったらしい。
Nドックに行くようなことは大勢がやっていたのだけれど、おとうさんは「おれさえやられていれば、みんなは助かる」と言って仲間のことは一言もしゃべらなかった。ばかみたいにうちの苦労も全然知らないで。何と言うのか男気というのかねえ。近所の人たちが同情してくれて今で言う生活保護を受けて、1ヶ月27円もらうようにしてくれた。砂糖の配給所が合同になるのでその権利を300円で売ったお金があったのだけれど、それだけは万が一の時のためにしまっておいた。

巣鴨刑務所

フク
8月に入ると巣鴨刑務所へ送られてしまった。ここへもさんざん通った。ひと月に15円差し入れをするとまずいめしを食べずに、1日50銭ずつお弁当が食べられる。私たちはうちではおかゆを食べていた。
うちがかわいそうだと、この時には本所の父母も一生懸命助けてくれた。その頃実家は町会の事務所になっていて外食券を扱っていた。外食券には甲乙丙があって、甲というと普通の会社員、乙というとちょっとした労働者、丙というと人足などの重労働者だった。丙券だとごはんがどんぶり山盛りになる。人足の人たちが事務所に来て丙券と甲券を取り替えて差額のお金をもらいに来た。その外食券を私たちに回してくれた。
12月になると判決が下りた。懲役1年、執行猶予3年だった。おとうさんは12月20日に帰って来た。ぼたんかいせんといって、シラミにくわれて体中おできだらけだった。5ヶ月間巣鴨に行っていたけど、毎月15円の差し入れをおとうさんは使わずに帰って来た。温泉治療だなんて知られると、生活保護を受けていて何だと近所に言われかねないので、1ヶ月位新潟のおじさんの家にあずけたことにして、その75円で寺泊温泉に治療にいった。

三男Kのこと

フク
昭和18年おとうさんの初公判の日、9月23日に三男Kが生まれた。昭和19年1月半ばにおとうさんが寺泊温泉から帰って来て、おとうさんの顔を見た途端にの具合が悪くなってしまった。足を持ち上げておむつを取り替えようとすると泣くんだよ。医者へ行ったら「こりゃあ大変だ。小児関節炎で助かるかどうか分からない」と言われた。次男K二のマッサージどこではなくなってしまってすぐ入院させた。けれども2月13日、ピーピー泣きながら、おとうさんの顔を見て最後にニコッと笑って死んでしまった。
子供たちが足ばかり患うので、いろいろと迷ってK教を拝んでみた。そのK教は病気のことよりお金のことばかり説教した。お金を持ってくれば拝んでくれると言ったのでやめちゃったよ。「明日10円稼ごうと思うなら、今日10円あげなさい。そうすればきっと20円かせげるでしょう」なんていう話を聞いたので、私は「あげる10円をもとにして自分で努力します」と言ってさっさと帰ってきてしまった。金光教の先生も笑っていたね。

防空演習と疎開

フク
おとうさんは元の会社はいやだということで、O航空機器という会社に再徴用で入った。ここで上司のホシナさんという人におとうさんは気に入られた。仕上げ工として器用だからどんどん給料があがった。おばあちゃんと長女M子と長男K夫を新潟に疎開させる頃には月給が1,000円にもなった。
おばあちゃんは気の小さい人で、防空演習のとき防空濠に入るとあばれだしてしまう。隣組の人たちに「悪いけどお宅のおばあちゃんを柱にしばりつけておいてほしい」と言われてしまった。

H
昭和19年というと防空演習はもう頻繁だったんだね。

フク
そう、うちは隣組の組長をやっていた。

H
警察に引っ張られた家が組長をやったの?

フク
だって悪いことをやった訳ではないし、子供の病気のためにやってつかまったのだから、近所の人たちがみんな同情してくれた。

H
ちょっと冷静に考えれば、頻繁に防空演習をやるということは、つまり日本本土が空襲されて負けることだと思うのだけど?

フク
まだ「勝つ、勝つ!」と言っていたよ。みんなで竹やりで「エイッ、エイッ」とやったよ。そんな中で隣組の人たちからは「おばあちゃんがいたのではしょうがないから、疎開させないか」と言われて、新潟へ疎開させた。

栃の実ほどの涙

フク
昭和19年の9月頃だったね。長岡市の近くの今町の親戚の6畳2間を月10円で借りた。おとうさんが3人を送って行きながら、ひと冬分のまきを家の廻りに積んできた。そこにはお風呂がないので、近所に借りに行くんだよ。
私は11月頃初めて新潟へ行った。もう雪が降っていて長靴をはいて行ったけど、すべってとても歩けない。次男K二をおぶって長靴に荒縄を巻いてやっと歩いて行った。そうしたら長女M子と長男K夫が「かあちゃん、かあちゃん」と言って、私にくっついて放れようとしない。2日ばかり泊まって東京に帰らなくてはいけないから「いい子にしているんだよ」と言ったら、ふたり共泣きながら私の後を追う。私も涙をポロポロこぼしながら東京に帰ってきた。駅まで送ってくれた親戚のバアバア(おばあさん)が、「まあ東京のかあちゃんは栃の実ほどの涙をこぼした」と、田舎でひとつ話になったそうだ。

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