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13【針箱のうた】聞き書きを終わって

聞き書きを始めてから1年が過ぎました。恥ずかしい話ですが、私は父母の誕生日すら覚えていませんでした。まして祖父母のことになると、かすかな思い出はあるのですが、ほとんど知りませんでした。知る必要も強く感じることなく、私は43歳になっていました。父母のことを聞くということなど、気恥ずかしさが先立ったということもありました。とにかく、父母はそれなりに私のことを思ってきてくれたのですが、私は父母のことをほとんど考えようとしてこなかったといえます。

不況の中で苦しくなる零細企業の行く末を心配しながら父が亡くなった時、気丈夫な母も見違えてしまうように弱々しく小さくなってしまいました。長い髪は面倒だといって髪を短くしてしまいました。その母が多少元気を取り戻すまで、1年以上かかったと思います。K夫兄の残した娘3人は、毎晩のように母の側にいてくれました。私が母に老いを感じたのはこのときからでした。

もうすぐで金婚式だ。お祝いをしようと思っている矢先、父は亡くなってしまいました。50年などという形式にこだわらなくてもよかったのにと、後悔しました。思っているだけでなく、すぐにでもやるべきでした。別に見通しや方針があるわけではありませんでしたが、それが聞き書きを始めた理由です。

聞き書きを始めると、私は母の話にどんどん引きこまれいきました。活字にはできなかったのですが、そんなことまで話してくれちゃっていいのということも度々でした。母も私もお酒が好きなものですから、話が弾みすぎて、まとめるのに苦労したこともありました。

戦前という社会で、その底辺に生まれた少女が、懸命に生きてきた道が私の前に展開されていきました。母の記憶力のよさにおどろかされました。悔しかったり、悲しかったり、自分で苦労してつかみとったものは、忘れない忘れられないということではないでしょうか。テープを起こしながら、幾度となく胸にこみ上げてくるものがありました。母の話であって母の話ではないような気さえしてきました。その時代の少女たちの身の上を思い浮かべました。今回その時代の少年だった父のことまで考えるまでいきませんでした。

この聞き書きを通して、いわゆる歴史の本には出てこないような形で歴史を勉強させてもらった気がしています。私が本で勉強したことと、母の話が平行線をたどるようなこともままありました。このことの意味は何か?今後考えていきたいと思っています。

この聞き書きは、もともとは1990年11月から1991年12月までの約1年間、R舎発行の月刊誌の投稿欄"生活記”に連載させてもらったものです。同誌編集部の方々には、投稿の継続を根気強く催促してもらったり、助言してもらったりお世話になりました。最後になりましたが編集部の皆さんと、毎回ワープロを打ってくれた妻に、「どうもありがとう」

1992年6月 H・S

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