胸を張って「生きづらい」と叫ぶ権利は、ぼくにあるのでしょうか
「生きづらい」とか「助けて」って言うことは、勇気がいることだなと思います。それは、自分で自分を「弱い」と言ってしまうようなことだと思うから。だから、とてもこわいなって思うんです。
でも、どうして「弱い」と告白することがこわいんだろう、とも思うんです。弱いと、だれかに狙われるから?
いや、それとも、「強くなければいけない」「自分の責任は自分で」という誰かのメッセージを自らのうちに内在化させてしまったから?そのある種の「正しさ」や「規範」から逸脱してしまうことを恐れているから?
最近、ぼくはいろんな人に会います。今までもそうだったように、でも近ごろは、よりたくさんの人と会っているような気がしています。
今、とある企画・プロジェクトを進めています。それは、「筋力が低下していく病気のある彼」と一緒に進めているプロジェクトで、某市の公共交通機関(地下鉄やバス)を使って、障がい特性を活かした脱出ゲームを企画するというものです。パートナーである彼は、手先と顔の筋肉が少しだけ動きます。でも、それ以外はほとんど動きません。
先日の打ち合わせ終わりに、その彼が教えてくれました。
「3年前に比べて、口が開かなくなってきている」
食べられるごはんの種類も形状も、変わってきている。声を出すことも少しずつ難しくなってきている。彼がぼくに伝えたのは、そういうことでした。
それは、とてもこわいことかもしれないと思いました。そして、大好きだったものが食べられなくなっていく彼のことを思いました(カレーは液体に近く、味もたくさんあるので、食べる機会が多いとも話してくれました。カレーはすごいなあ)。
動ける自分と、動けなくなっていく彼。ふたりを比べると、彼の「生きづらさ」のほうが圧倒的に大きく、重大なものであるようにも感じられるし、本当のところ、そうなのかもしれません。その「生きづらさ」を軽減するために、種々の制度や保障、サポートがあるし、当然、彼のほうが社会的な支援を必要としているのも事実だと思います。
ぼくも彼と出会って、なにか一緒にできたらと思い、ともに活動をしています。きっと、ぼくは「直接的な支援」はできないかもしれないけれど、ともに遊ぶことで楽しみをつくることはできるかもしれない、と思ったんだと思います。もしかすると、それが自分なりの「支援」なのかもしれません。
最近、気がついたことがありました。いつか、育ての親である祖母が亡くなって、いろいろと考えていたときのことです。ぼくは、ばあちゃんの死に対して、それほど深く傷ついていないような気がしていました。自分にとって大事な存在だったにも関わらず、です。そのことについて、どうしてだろうと思ったり、あまり気にしていなかったり。だけど、自分の心は、それなりに揺れていたようにも思います。
そんな中、ふと思ったんです。自分は、傷つかないようにしていたかもしれないと。他者から、家族から注がれる愛に無頓着なふりをして、気づかないようにしていた。それは、あったものがなくなることを恐れていたからで、最初から「ないもの」として認識をしていれば、なくなっても気にならない、と。そう思っていたかもしれない。いや、そう思っていたのだろうと。
思えば、母親や父親がいなくなったときも、そうだったように思います。自分の心が傷つくことを回避していた。自分の感情や気持ちを見つめることを避けていたように思います。
だけど、ぼくは「それでも恵まれているほう」かもしれません。だから、自分が感じた苦しさを、表明すべきではないのかもしれません。自由に体は動くし、経済的に困窮もしていない。友達や仲間はそれなりにいるし、コミュニケーションだって得意なほうです。新しいアイデアを考える能力だってあるかもしれません。
だけど、自分のほうが恵まれているとか、相手の状況のほうが大変だとか、そういうことで自分の感情や気持ちを「ないもの」にする必要はあるのだろうか、とも思います。
ぼくが言いたいのは、もっと「生きづらい」人がいるんだから、自分の「生きづらさ」なんて大したことない、と思わないでほしいということです。
途上国の恵まれない子どもたちはもっと苦しんでいるとか、あの人は重い障がいがあるのに頑張っているんだからとか、あそこの家は両親もいなくてもっと大変だとか。ほんとうは、苦しみも喜びもその人にしか「測れない/感じられない」絶対的なものであるはずなのに、どうしてべつのものと比べて(他者が介入して)、弱体化・無効化しようとするのだろう。そうした他者の無言、あるいは直接のアプローチに苦しめられる必要はないのではないか、ということです。
強い者は、あるいは「強い者であるべき」存在は、弱さを共有することが難しい。強くなってしまった人や、強い立場にいる人は、そのゲームに乗っかっている以上、勝ち続けて、強くいる必要がある。だから、その途上で弱さの開示をすることは、とても難しいのだと思います。
強者という状態(そう思われている状態)で弱音を言おうものなら、逆に袋叩きにあうかもしれません。「もっと苦しんでいる人がいるのに、あなたは大したことないだろう」「強いことによって、あなたは利益を得ているのだろう」って。
だけど、そうして批判をしている側は、もしかしたら、さらに「らしさ」や「強さ」を強要されて、あるいは「らしさ」や「強さ」を自らのうちに内在化させて、自分で自分を縛っているのかもしれません。そうしたことが、今この社会で、ぐるぐる巡ってしまっているかもしれません。
今、ぼくが思っているのは、強くあることを求められる側の人こそ、弱さを共有・開示できる場や仕組みが必要だということです。もっと言うと「強者側にいながらも弱者になってしまった存在」が、自らの苦しみを共有し、受け止めてもらう機会をつくらないといけないということです。
彼らのような存在が爆発してしまう事例や事件が、近年あちこちで起こっているのではないかと思います(もしかすると、彼らは自分だったかもしれない)。もちろん、社会的弱者と呼ばれる方々へのサポートは必要だし、とても重要なことです。友人の話しを聞いていると、まだまだ足りない部分があると思います。だけど、強くあらねばならない者が弱さを共有できる場も同時に必要なのではないかと思います。
「弱さの認識と受容」が、多様性が担保される社会に近づいていくために重要だと感じます。それは、強い・弱いのヒエラルキーで社会を分断するのではなく、常に弱さを抱えた人間としてどうつながっていくことができるのかを考え、試みる世界です。
そして、その認識と受容(共有)は、支援/非支援の直線的な関係だけではなく、複雑で多様な関係の中で行われていくようになるのではないかと思っています。それは、複雑な生態系の再構築。その中では「個人の中にあるアイデンティティの多様性」というのも、重要なポイントになるのではないかと思っています。
このあたり、まだうまく言語化・イメージできていませんが、自分のテーマ・問いとして、今後も考えていくことができれば。
久しぶりに書いたブログをお読みいただいたみなさま、ありがとうございました。またちょくちょく更新していきますので、ぜひご覧になってくださいね。感想やコメントなどうれしいです。またいろいろとお話ししましょう。