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「先生」を目指すから「自分」がなくなる。

ー養成される側からみた教員養成課程の問題ー

養成されてきた側が,4年間で考えていた問題のリアルを共有します。


教員の資質・能力って何なんだろう。

「よくこの時代に先生になるねぇ」

と教育学部に入っているだけで言われます。
マスメディアは「先生はブラックだ」といい,ママタレさんとか,芸人さんとかが学校問題,教育問題で,学校とか先生を非難していたりしますよね。

文部科学省も,そのような煽りとかも受けながら教員の資質・能力を高めるために,様々な取り組みをしています。(その内容がいいとは思いませんが笑)

教員の資質・能力を育てるために,教員養成課程はあるわけです。

4年目で友達から出た言葉。

私たちは一体、何を学んできたんだろう。

もう卒業する身だけど,こんなこと思うんです。私の大学は本丸とか言われてますけど。

教員の資質・能力=授業の能力?
→結局,子供を前に授業をしないと分からないことが多すぎる。

そして,授業力だけじゃく他にも大切なことがあると思うんです。

授業力より大切なこと

「より」といっているけど,授業力というのは大学4年間で身につけるのは本当に厳しいという前提です。能力は無限なので。

・どれくらい人に頼っていいのか

「チーム学校」というけど,「頼っていい」というけど,どれくらい頼っていいの?

スクールカウンセラーさん,ソーシャルワーカーさん,司書さん,教育委員会,教育業界の企業さん,etc...

色んな学校関係者の人がいて、その人たちと協力してやっていくことが、教員の負担を減らせるよ!と習うけど、実際どうなの?という気持ちです。

・「学ぶ」とは何なのか

学びは、何かについて思考して得ることだと思っています。

教師は、子どもに「学ぶとは何なのか」を教える存在でもあると思っています。でも「記憶させる」ことばかり学んでいました。

記憶したら得られる学びではなく、思考して得られる学びについて、考える機会がありませんでした。(カリキュラムでは)

「学ぶこと」自体をできるかどうかは、この教員養成課程では大学次第であり、大学の教授次第だと実感しています。

答えのないことに向き合うことって何なのか、その厳しさ,難しさを実際に経験したかった。

学習指導要領を読み上げるのではなく、教科の本質などについて議論したかった。

こう思っています。

「先生」になろうとするから「自分」がなくなる

一番最近胸に来た言葉です。

「先生」を目指してるからこそ,「よい先生」を目指す。

そうすると,子どものためとか保護者のためとかに埋もれていって,「自分」のためがなくなっていったり。
逆に、ある程度の「よい先生」になったと安心して成長しなくなったり。

今の教員養成課程は人を育てるという認識が欠けているように思います。

理想の「自分」とか、軸を持つことで、謙虚さを忘れず、成長し続けて、アプデートし続けられるのではないでしょうか。

これがあれば、大学や教員養成課程がどうであれ、「自分」で、「自分」として思考しながら生きていけますよね。

いつのまにか時代遅れにならないように。

大学が、受験勉強で凝り固まった頭をリハビリして思考できるような場と時間になったらいいなと思います。

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