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教育系会社員

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本の図解って著作権違反じゃないの?

「○○という本を図解してみた」 この言葉に違和感を持ったことはありませんか? もし違和感を持ったことがないのであれば、かなり危うい感覚をお持ちかも知れません。 また、これから図解してみようかな、と思われる方も一度このnoteを読んでから挑まれることをお勧めします。丁寧にに調べて端的に整理しました。 文化庁 著作権なるほど相談室では次のようなQ&Aがありました。 ダイジェスト(要約)のようにそれを読めば作品のあらましが分かるというようなものは、著作権者の二次的著作物を創

    • STEAM教育について 概要編

      歴史世界では STEAM教育の前身はSTEM教育でした。 1990年代に科学技術人材の育成を目的とした教育政策として、アメリカで始まりました。 その後、AIでは対応できないとされていた「創造力」を伸ばすためのArts(芸術・教養…)領域が追加されSTEAM教育という新しい名前の教育手法が形作られていくこととなりました。 日本では 2019年4月の中央教育審議会の諮問にて、高等教育におけるSTEAM教育の推進について述べられたことにより、STEAM教育にスポットライト

      • 教えている自分を自覚しよう

        人と自発的に関わる時、今自分が、教えているのか、導いているのか、支えているのか、相談しているのか、質問しているのか、自覚的になることが、自分のコミュニケーションをよりよくしていく第一歩。 それぞれのコミュニケーションのスキルをバラバラに高めたところで、その場の目的を理解し、TPOを読めるようになったところで、今自分が何をしているのか、しようとしているのか自覚しなければ元も子もない。 人と関わること自体が仕事なのであれば、最低限、自覚できるよう意識はした方がいいのではないか

        • 選択肢を自ら選び取るためには?

          Tokyo Education Showというイベントに参加してきて色々と考える種が生まれたことを記します。 総じて、教育でもなんでも細分化、専門・高度化は進んでるなと思いました。 一方で選択肢の一つにかかわる身としては、この選択肢をどのような人にどう届けるかを考えがちではないか。 人々にとって、届くことと、それを選択することには大きな隔たりがあるなあと思ったわけです。 子どもたちにも差があるように教員や教育関係者にも差がある中で、それぞれの自己実現?がありますよね。す

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        本の図解って著作権違反じゃないの?

          夢は追うより旅をせよ?

          『アルケミスト-夢を旅した少年-』を読んで 夢を追うよりも「旅をする」という表現が気に入り、そして、他人や環境との相互作用と、生きることそれ自体の面白さについて、かなり色々考えるきっかけになりました。 ※一部ネタバレ可能性あり 夢を持ち、追うように教えられた子どもの頃子供の頃、私は「将来の夢」というテーマの作文を書いたことを覚えています。最初は憧れの仮面ライダーについて書こうとしました。しかし、大人にそれは夢ではないと言われ、急遽お花屋さんについて書くことになったのです。

          夢は追うより旅をせよ?

          気晴らしで気を晴らすことはできるか

          気晴らし、ストレス発散のために何かをしても、どこかでもやもやを引きずっているような感覚になったことはありますか。または気晴らし、発散の後に、もやもやが復活したことはありませんか。 気晴らしでは、気が晴れない時があります。それはなぜなのか、結局どのような時に、どのような気晴らしが適しているのか気になってしょうがないので考えを巡らせてみました。 気晴らしの意味はそもそも気晴らしとはなんでしょう。 あまり具体的にイメージが沸かないので、「気散じ」の意味にもつっこんでみました。

          気晴らしで気を晴らすことはできるか

          結局、自信をつけるには。

          「ありのままの自分を認めてあげて」 なんて他人から言われたところで自信なんかつかなくない? 「あなたはこんなに素敵な人なのよ」と教えてもらったところで自信なんか、つかなくない? それでも、自分のことは信じたい。 自信って自信って、字面のまま、自分を信じることだよね。(この、自信の中には、自己効力感、自己肯定感、自己有能感など…色んな状態が混ざっているんだろうね。) 自分を信じるとはどういう状態なんだろう? ここは、逆に自分を信じれなくなった体験から考えてみる。 自分

          結局、自信をつけるには。

          個別最適化のその先は“才能教育”?

          「才能教育」という言葉が出てきて、色んな意味で笑ってしまった。 才能教育とは何か 最近(2022/7/25)に「特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する学校における指導・支援の在り方等に関する有識者会議(第12回)」が行われたらしい。 才能という言葉は個別最適化との相性がとても良さそうだ。しかし一方で、「個別」に最適化を進めるということと、「才能」という枠組みを決めるということは矛盾はしていないのでしょうか。 この"才能を持つ子どもたち"の特性については以下の通り。

          個別最適化のその先は“才能教育”?

          「すごい人」への違和感

          そう言われ、「すごい人」に会いにいくことが偶にある。 毎度のことながら違和感だらけでその時間を過ごしてしまった。 何が違和感だったのか。 何が違和感だったのか すごい人が存在する事によって、すごい、すごくない、の基準が生み出されていること。 「すごい」フィルターって凄くて笑 その人の裏にある過去の考えや、感じている事、どういう経緯ですごくなったのかが見えなくなってしまうことがある。 そのすごい、というのが特に今までの積み上げていることであって、その「すごい」が更新されて

          「すごい人」への違和感

          プログラミング的思考ってなんぞや

          「プログラミング的思考」という言葉に違和感はありませんか? 私は大いに違和感を覚えました。 「プログラミング的思考」って見たことある?私は、色んな会社を調べるのが趣味なのですが、散見されるのが「プログラミング的思考が身につく」というキャッチコピー。 めちゃくちゃざっくりいうと、こんな”思考”のことを言っています。 「課題の設定➡情報収集➡仮説の形成➡検証」 だからどうなるんだ?って思いませんか。 子どもたちに身に付け”させたい”思考力「プログラミング的思考」ってい

          プログラミング的思考ってなんぞや

          学校で図工をやるということ

          大学最後に、オンラインで図画工作の授業を受けました。 他者評価小学生の私にとっての図工 何かをつくる、それに没頭する、完成させてコンクールか発表会に出す、そして親にほめてもらう。それが図工のイメージだった。 何をつくっていたかを思い出すとき、家に飾ってある完成物から思い出す。次いで、その物の過程、家族は喜んで飾るけど自分にとっては苦い思い出が何かしらにくっついている。喜びより、失敗したというがっかり感や悔しさ。 自分の完璧主義的な性格や、イメージや発想はすぐに湧くけど形

          学校で図工をやるということ

          なぜ学校が建つのはカンボジアなのか?

          疑問に感じたことはありませんか?歴史的、社会的背景から現状をまとめ、一定基準を満たした全15個の企業・団体・個人を調べました。(詳細は省略) カンボジアに学校が建つ背景経産省のレポート(2020)によるとカンボジアは、都市化も急速に進み、経済成長率も7%を維持して成長し続けていました。世帯所得も全体的に大幅に上がっています。相対的貧困率は日本と同じくらいです。 それではカンボジアで学校が必要とされる背景には何があるのでしょうか。 歴史的背景 カンボジアは1970年代ポ

          なぜ学校が建つのはカンボジアなのか?

          「先生」を目指すから「自分」がなくなる。

          ー養成される側からみた教員養成課程の問題ー 養成されてきた側が,4年間で考えていた問題のリアルを共有します。 教員の資質・能力って何なんだろう。「よくこの時代に先生になるねぇ」 と教育学部に入っているだけで言われます。 マスメディアは「先生はブラックだ」といい,ママタレさんとか,芸人さんとかが学校問題,教育問題で,学校とか先生を非難していたりしますよね。 文部科学省も,そのような煽りとかも受けながら教員の資質・能力を高めるために,様々な取り組みをしています。(その内容

          「先生」を目指すから「自分」がなくなる。

          「先生を支えたい」と連呼している私は「先生が嫌い」だった

          今,「先生を支えたい!!」と連呼している私は「先生が嫌いだった」。 「好き」から「嫌い」へ結論。私が「先生嫌い」となったのは「先生は私のことを何もみていない、先生たちみんな私のことを信じてくれない」と沁みるほど実感した体験があったからです。 素敵な友人関係に恵まれ,学校が居場所となってきたころ。 「どの先生もいいところ、悪いところあるし、基本的に好きだな」と思っていました。 そんな時学校でたまに起こっていた「トイレットペーパーが燃える事件」 私はこの事件の犯人に仕立て上げ

          「先生を支えたい」と連呼している私は「先生が嫌い」だった