デザイナーの社会人遍歴 其の8 プロダクトデザイナー 下積み時代編 ~前編~
其の⑦ 26歳人生の分岐点に立つ。編
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三叉路に分かれていた人生の分岐点の【デザイナーに復帰】の道を選んだ26歳の俺。
プロダクト(生産品・製品)デザインというと括りが大きすぎるが、26歳 デザイナーに復帰する為の最後のチャンスとして、帽子とバッグの商品企画デザイナーとしての修行時代が始まる。
勤務初日。服飾雑貨メーカーの仕様書とは
古着屋 JET RAG時代に、洋服を作る為の仕様書を手書きで作っていたが、それは自分たちで考えたやり方。実際のメーカーのやり方に自分のやり方が通用するのか?という一抹の不安があった。仕様書を見せてもらう。完成イメージのデザインイラスト+細部の仕様を説明して、生地や生地色、部材を指定する。おぉ!生地や部材の細かい所までを指定する以外、基本的に一緒やん!と思った。ただそれをパソコンで綺麗に作るというだけ。全く問題無い。いけると思った。
求人内容詐称
求人の給与には、デザイナー 〇〇万円 / デザイナーアシスタント 〇〇万円 と記載されていた。勤務開始から1週間程度で、社長よりデザイナーとして雇用するという話をいただいた。アシスタントではなくデザイナー採用。嬉しい限りだ。初の給与を確認した。デザイナー 〇〇万円という給与より8万程度低い給与額だった。
俺「うんうん。そうかそうか。なるほどなるほど~。そうくるか~。はいはい。そのパターンね ☆彡」
もちろん嫌な気持ちにしかならなかったが、ブラック体質なのは直感で感じ取っていたので
俺「まぁいい。しっかり経験を積んで、4年後にはおさらばだ。この会社は、跳び箱の前に置いてあるアレだ。アレ。」
と自分を無理やり納得させた。
流行を読み、1年後の商品を企画する
中国製で、5000円以内までの安価な商品のメーカーだったが、もちろん流行をしっかり取り入れるというのは重要だ。しかし季節が7月だったら、1年後の夏の流行をよんで商品を企画しないといけない。かなり難しい話だ。ザッと流れを書くとこうだ。(一流ブランドにいたわけではないので、私個人の思う流れです)
①ハイブランドによるコレクション発表
↓
②高価なブランドやメーカーがここから商品に落とし込む
↓
③中堅価格帯のメーカーやアパレルオリジナルブランドが、②をベースに商品化
↓
④流行が生まれる ※街中で多く見るようになる
↓
⑤安価価格帯メーカーが、その流行品を更に安く提供する
安価な服飾雑貨メーカーにいたのだが ⑤で作ると、流行の翌年に販売となる。それじゃ遅い!と出来るだけ③の位置で商品化できるように、コレクションやハイブランド、メインターゲットが見ているであろうファッション雑誌は常にチェックしていた。あと『来年はこの色が流行ります(皆で揃えて流行らせましょう)』というお達しがあるので、その色も組み込んでいく。
あとこの期間、よくやっていたのがLOFTを全フロア見て回るというやつ。生活雑貨からファッション雑貨やその他小物、幅広い商品展開で流行をおさえていながら、ひとつの建物で完結するからだ。LOFTからは様々なアイデアをいただいた。
俺を煽る社長
勤務開始して1ヶ月程度。ある程度は即戦力になる働きが出来ていたと思う。ある時、社長がこんな事を俺に言ってきた。
社長「普通、メーカーのデザイナーは、1ヶ月に20~30は商品を企画するもんなんだよ(ドヤ顔)」
俺「.........................................… ソウスカ..… (イラッ 」
負けず嫌いで諦めの悪い性分。俺をそんなに煽って大丈夫かい?と一心不乱に翌月は 50アイテムの商品を企画して提出してやった。 社長は、お…おぅ.… となっていて「勝った」と思った。 ←バカ
大した生産力も無かったので、この中から10個くらいしかサンプルアップでさえできなかった。「勝った」と思った。 ←バカ
原価との闘い
物づくりでどうしてもぶつかるのがコストだ。良い生地、良い部材をもちろん使いたいに決まってる。子供時代にバーチャンが『物の価値は値段が知っとんしゃーと』と言ってたのを思い出す。ファスナーなんてもちろんYKK製を使いたいが、中国ノーブランド製だったら50円の所が、YKKを使えば300円かかる。この位コストの差が出てくる。高いけど、ここはどうしてもこの生地を使いたいとなると、その他でコストダウンを図る必要がある。中国製の比較的安価なメーカーにとっては、この上限コスト内でいかに品質を上げて作れるか。というのが腕の見せ所になるのだ。
バッグでスマッシュヒット商品が
この50アイテム デザインした中から10アイテムをサンプルアップして、2つのアイテムが大手に嵌まる。古着屋時代から良く知る、当初は古着屋だったお店 W〇GO。この時は古着ブームが終焉して、若者向けの安価な新品の服や服飾雑貨を扱っていた。ここに嵌まったアイテムが左の2個のバッグ。
エナメルとターポリン(トラック幌の生地)を交互に組んでボーダーにしたBAG。これはメッセンジャーバッグとデイパックの2タイプ展開。
もうひとつは、ギャバジンウール生地にカレッジロゴをプリントして、透明のビニール生地を重ねたBAG。これはメッセンジャーバッグとドラムバッグの2タイプ展開。
タグとプリントデザインの文字を変更して、大型のODM受注をGET。入社2~3ヶ月程度にしては、かなりのお手柄だった。このヒットによる大型ODM受注によって、社長と営業の心をガッチリ掴むことができた。
因みに
OEM / 製品の設計、組立図まで依頼側が用意して生産するのみを請け負う
ODM / 製品の設計、組立図から受託側が用意して生産を請け負う
と、こんな具合。
中国のバッグ自社工場
自分が入社するちょっと前に、本格的にバッグを作っていく為に、小さいながらも中国にバッグの自社工場を構えていた。中国の工場を取り仕切るのは、社長の長年のパートナーである沈さん。
沈さんは日本語が話せるので、細かい仕様を伝えたり、サンプルの途中段階を見せてもらったり、発生した問題点を改善する為に、毎日何回も何回もSkypeのテレビ通話で話した。そして話す度に毎回起きるのがこれだ。
俺「サンプル品番〇〇の状況どんなですか?」
沈さん「あ~ あれは今作ってるので来週には出せますよ~」
●●「 あ”ぁぁぁぁあ”あ”あ”っ!!! hgづえdうぇpふぇk」
沈さん「ガン無視」
この●●は、沈さんの奥さんである。
奥さん「 あ”ぁぁぁぁあ”あ”あ”っ!!! いwhfdlfhsdか」
俺「.......…大丈夫ですか.…? でも日本人からすると、中国語って怒ってるように聞こえますもんね~」
沈さん「あ~~ 今のはすごく怒られていましたよ」
俺「そうなんですねw 大丈夫ですかw?」
沈さん「大丈夫ですよ~(超優しいVOICE」
営業業務以外ほとんど俺やん…
1年もすると完全に中心デザイナーとして仕事をしていた。
商品企画デザイン(OEM/ODM依頼分も含む)
↓
自社工場 生産管理
↓
輸入業務
↓
写真撮影
↓
S/S A/W の2回に分けてカタログ製作
この工程をすべて自分ひとりでやっていた。大きいメーカーであれば部署が分かれるレベルだ。俺のスマッシュヒットからW〇GOの大型ODMをいただいてからは、OEM/ODMの依頼がどんどん増えていった。パツパツの状態の時に無理やりねじ込まないといけない時もあるし、逆に生産するものがなく、工場の日程に穴が空いてしまうのも避けなければいけない。営業さんに、ちょっとここ1週間工場スケジュールが空いちゃうんで、なんでもいいから取ってきてください!なんてことも多々あった。
この頃には帽子もすべて自分がデザインと生産管理を任されていた。もう考えられない量をデザインした。その中から一部をご紹介。
メンタルの波が激しい社長
自分は経営の経験は無いので、実際の零細企業社長の気持ちは察することしかできないが、分かりやすい社長だった。月の初めは「ここにいる社員、全員が大事だ」なんて調子の良い事を朝礼で言うのだが、様々な支払いが発生する月末になると「お前らなんかどうでもいい。俺は自分の家族さえ守れたらいい」なんて、目を見て全員に直接言っちゃう。そんな人だった。そんな俺も、跳び箱の前のアレと思っていたので、特に何も思わなかったが。
人生初の中国へ
この会社で初めて中国に行くことになる。社長と2人で中国出張だ。中国の自社工場訪問と生地スワッチを搔き集める任務。この時に中国側を仕切っている沈さんにも初めて会った。毎日毎日テレビ通話しているので初めて会った感じはしなかったが。
この生地スワッチを集める任務。自社企画商品やOEM/ODMを受ける際に、日本人の目で日本人に売れる生地をピックするこの任務は、中国生地を取り扱うメーカーにとって非常に重要である。
移動は基本タクシー。日本の様に高額にはならない。タクシーから眺める光景は、黄砂と砂埃で茶色の霧世界。走る車も超汚い。最近は綺麗なタクシーもあるが当時はこればっかり。
中国人。みなさんはどういった印象を持っているだろうか? 良くない印象を持っている人もいるだろう。中国の方は【身内】に対しては、凄く温情ある人種だ。家族や親族はもちろん、海外からやってたビジネスパートナーへの温情も凄い。日本では考え慣れない程の接待を受ける。あと車の運転、道路状況は最悪だ。片手は常にクラクションにかかっており、5秒に1回はプァアアアァァンとクラクションを鳴らしながら走行。人をはねても問題ないくらいの運転っぷり。俺達が乗ってるのに中国人が怒鳴りながらドア開けて入ってきたり、日本には無いサイズの超大型トラックが高速で横転してたり。高速道路を逆走したり(笑
とまぁなんだかんだで、この初中国から現在の会社まで含め、1年に1~2回は中国に行くというのを10年程度続けてきた。コロナ禍によりもうこの3年くらいは行っていないが。
ここでコロナ禍前の2019年 最後に行ったリアル中国の写真を紹介しよう。
ご飯は常に接待をしてくれる取引先の方が
連れて行ってくれる店で毎食高級料理
これは白酒(パイチュウ)という、中国の焼酎のようなもの。アルコール度数は42度もある。昼間からビールを飲まされ、夜はこの白酒を飲まされまくる。酒が強くて良かった。
そして色々な人から、この天之藍という贈答用の白酒をめっちゃ貰う。いらないのに.…
一泊 7~8000円程度でも、結構良いホテルに泊まれるのは中国の良い所。
と、こんな感じで、自分が入社してバッグを始めて1年が過ぎ、バッグという商材も完全に軌道に乗ったここから、ブラック企業感モリモリな状況にどんどん突入していくことになる。
次回
安西先生… デザイナーに戻りたいです.…
プロダクトデザイナー 下積み時代編。後編
に続く。
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