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小説『お寺の国のクリスチャン』シリーズのこと

 
 『古いお家に生まれたのに、キリストにすべてを捧げてしまったひとを書いてみなさい』と神様に示された。そして生まれたのが、この小説の主人公だとおもわれる真木和泉さんである。

 真木さんは地方の旧家の跡取りで、アメリカに留学している間に洗礼を受け、イエスキリストに人生を捧げてしまった。彼のなかでは、キリストに仕えながら、本家の当主として先祖の年回忌を勤めたり、寺の忠実な檀家としての役割を果たすことは、引き裂かれるように矛盾していた。

 このシリーズの初めは、そんな真木さんがまだアメリカで運命からの逃亡生活をしているところから始まる。

(以下、時系列順のリンクです)

逃れの町 (アメリカ南部が舞台。真木さんの逃亡生活の終わり)

砕かれる (宣教師のパウロさんが、神に砕かれて、空っぽになるまでの話)

お寺の国のクリスチャン 123 (真綿に包まれて育った八枝ちゃんが、みすみす苦労をしに、真木さんのところにやってくる、コートシップ小説)

わたしの軛 上 (教会のひとたちが、みないろんな軛を負っている。幕末の志士のような覚悟でキリストに向き合う大人たちのあいだで、若い八枝ちゃんは窒息しそうになる)

あたらしいいのち (前作で救われた、坊っちゃんのように威勢の良い久米さんが、べらんめえで、一般家庭のクリスチャンの遭遇する仏事だのを、突き抜けていく。困難に遭うのは、真木さんのような旧家の当主だけではないのだ)

6 死人は死者たちに葬らせよ

暗闇の灯 123  (noteの仕様変更のため、4からは下記のリンクで)


(放蕩娘の帰還小説である暗闇の灯は、Happy Elephant Press からひっそりと本になりました。紙の本をご所望の方がいらっしゃいましたら、ぜひお知らせください)



番外編  (真木夫妻のはなし)


 教会小説、というようなジャンルがあるのかわからないが、この一連の小説がなになのかと言ったら、まあ教会小説としか言いようがない。わたしがしたかったのは、イエスキリストと生きるリアリティを、小説の形で表すること。本の虫であるわたしは、なんであれ小説で読むのがわかりやすい。

 キリストに従うのは、表面を取り繕うことでもないし、安逸をむさぼることでもない。キリストを絶対的なものとさだめて生きるなら、そこに葛藤があるし、真木さんなどそのせいで親戚から絶縁されてしまったのである。どうしてわたしたちはそこまでして神に従うのだろうか。それを小説のなかで、真木さんたちと考えている。

 わたしはそれを上手に一言で表せなどしない。一言で表せるなら、小説なんてまだるっこしいものを書かなくて済む。だけれどもキリストと生きることは、わたしがいままで追い求めたことのある他のどんなものよりも完全で、あふれる喜びが胸に沸きあがるものである。どういうことなのか、ぜひ読んでみてくださいな。わたしにはこれ以上、うまく説明はできない。

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