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暗闇の灯 (小説) 6


あらすじ

クリスチャンの家庭に育ったものの、信仰を離れて久しいあかりは、みずからを呼ぶ声をかんじながらも、それに抗いつづけている。『あちら側』にいる家族たちのやさしさは、灯にはなまあたたかく、そして息ぐるしい。

神に、そして家族に反抗するために、離婚経験があり、男手ひとつでちいさな娘を育てている田口と、誰にも賛成されない結婚をした灯だったが、その田口をも神は呼んでしまう。神に救われて、キリストのほうへひた走る田口と、キリストの呼ぶ声に背を向けて、どんどん暗闇に馴染んでいく灯。ふたりの結婚生活は、決して容易なものではなかったー。


紙の本でしか読めなかった小説の後半部分を、いまちょっとずつnoteにあげているところです。必要なひとにとどきますように。

※この小説は作り話であって、実在の団体や人物とは何の関係もありません※

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 目覚めると、まだ昨日の酔いが、頭にがんがんと響いていた。寝室は真昼のように白くかがやいていて、いまの灯には眩しすぎる。嫌々起きあがり、ぼんやり鏡を眺めながら、歯を磨いていると、とととっと足音がして、六才になるすみれが呆れた表情でこちらを覗きながら言う。
 
 「おそよう」

 合わせる顔がなくて、灯はへらへらと鏡に笑い返した。この子もいまでは、食事の前にちいさな手を合わせてお祈りするような子どもに育っている。継母でしかない灯には、口出しをする権利もなく、何歩も下がったところからただ見ているだけだ。
 
 「リビングにきたら、あかりちゃんにプレゼントがあるよ」
 
 早く早く、とすみれが灯にせっつく。それを言いたくてずっと待っていたらしい。赤ん坊の頃から見ている、血の繋がらぬ娘との関係は、あまり枠にはまらない、人間同士の付き合いになってきた。 ママと呼ばれていたら、二日酔いしては威厳を保つことも出来なかっただろうが、ただのあかりちゃんなら、これでもなんとかなっている。

 光にあふれた居間のおおきなテーブルに、花束が鎮座していた。結婚記念日! そうだったかもしれない、今日? 昨日? みどりの実や葉のあいだに、あかるいラナンキュラスや薔薇が咲いている。ほら、と自慢げにすみれは花束を持ちかかえて、灯に差し出した。ちいさな腕いっぱいに花が溢れている。

 「あかりちゃん、これパパからだよ!」
 
 そうねえ、灯は曖昧に頷いた。花束をもちあげた下に、茶色い封筒がみえたので、そちらに意識がむいていたのだ。うえに花片が散っている。それはただの、結婚記念日のカードの厚みではなかった。『こゝろ』の先生の小説並みの手紙には及ばないけれど、しかし心の準備を要するような厚みがあった。

 「それはすみれにあげようか。わたしはこちらの手紙を頂くから」

 その場しのぎな言葉で自由を確保すると、灯はペルシャ絨緞の海をわたって、窓際のソファに着岸した。その名にたがわず花好きなすみれは、うれしそうに花瓶をもってくると、つたない手つきで生け花ごっこをはじめた。

 手紙はぎゅうぎゅうに詰まっていた。力をいれて封筒から引きだすと、見慣れた丁寧な文字が並ぶ。田口は口で語るよりも、文章で語るのを自然に感じるひとだった。そうでなければ、便箋八枚にもわたって書き連ねなどしないだろう。

 その書き出しは唐突だった、

 『すばらしい三年間をありがとうだとか、綺麗事が言える人間でなくて、誠に申し訳ない。正直に言えば、苦しかった。そうでなくとも複雑な我々の関係であるのに、結婚を申し込んだ自分と、結婚したときの自分が別人になっていたことで、状況を一層混乱させてしまった。
けれどもあの変化なしに、やっていけたとは思えない。前に一度失敗したことで、こりてはいなかったのだろうか。

 実に愚かではあったけど、我々は十年来の親友であったし、それになにか明るいところへ導かれる感覚がしていた。その光が、灯を通り越してその先にあったこと、まだ灯がそれから目を背けていること、すべて無意味ではなく、どこかに繋がっているのを感じている。

 結婚する前に、八枝さんに問われた。聖霊を受けていないひと、キリストを信じてさえいないひとと暮らす覚悟はあるのかと。あのひとは一貫して、この結婚に懐疑的だった。まっすぐに育てられ、もつれることなく生きている、あの絹糸のようなひとには、こういう罪にまみれた人生は理解しづらいのだろう。

 自分の娘には、あのひとのように屈託なく、神の存在をいつもすぐ傍に感じながら育ってほしいと願っている。八枝さんの瞳はまっすぐで、心を痛ませているらしいのが、滲むように伝わってきた。

 そのお陰でもないだろうが、苦労は覚悟の上だった。灯はキリスト教に精通している。ただそれを生きていないだけだ。時々与えてくれるアドバイスは、実に的を得ていて、さすが先祖代々のクリスチャンだと感心している。

 我々は表面的な平和を保ってきた。それは灯が賢くふるまってくれたからであり、自分が口をつぐんでいたからであろう。いまさら灯に何を言えばいいのか。きみは聖書も、救いがなにであるかも、すべてわかっていて、目を背けているだけだから。

 言葉を封じられることは、つまり生活で語らねばならないということだった。同じ屋根の下に、無言の批評家を持つことは、大いなる試練だった。子育てと仕事と結婚生活とのなかで、救われたばかりの自分には、キリストのように振る舞うことなど望みようがなかった。

 心の砕かれる三年間だった。その石に落ちるものは砕かれ、石がうえに落ちるなら粉々にされる、と言う聖句を教えてくれたのは、灯だったと思う。肉体的に砕かれることも、精神的に砕かれることも、前職でたっぷり経験があった。霊的に砕かれることを、これだけ速やかに習うことができたのも、自衛隊にいたお陰かもしれない。

 血の凍えるようなことが、我々のあいだには幾度もあった。自我の砕かれる日々だった。きっとお互い様だろう。灯はあまりにも、救われるまえの自分にそっくりで、己が過去を四六時中突きつけられているような気がする。自分はあまりにも未熟だ。

 ふたりの人間が共に暮らし、お互いの作品を作り続けていく苦労というのもある。けれどもそこは、案外上手くやっていけてるのではないか。きみはすでに自分だけの部屋と、五百ポンドの収入を持っていた。厄介な子どもを連れてきたのは、こちらの方だ。正直いまの自分に、写真家として成功しようだとか名を売ろうだとかいう野心はない。何者かになる虚しさの方が、胸を打つようになった。

 まだ読んでもらえているだろうか。結婚三年目の手紙とは、こうあるべきではないだろう。愛しているよとか、いつもありがとうとか、月並みなことを二三行書いて済ませておくべきなのかもしれない。

 愛しているのは本当のことだ。愛していなければ、苦しくなかったと時々思う。けれど同じ感情を、 神も自分に対して抱いてはおられなかっただろうか。神がホセアにあのような経験をさせられたのは、ご自分の感情を表されるためではなかっただろうか。浮気を疑っているわけじゃない。ただきみが神から目を反らしつづけて、だんだん暗闇に馴染んでいくのをみると、胸が押し潰される。

 それでも感謝している。実際にきみがいなければ、どうやってすみれを育てられただろう。すみれはきみの義務などでは無かったのに、きみはそれを自分のものであるかのように背負ってくれた。母親に縁のうすい哀れな子を、きみは自分の子どもにしてくれた。そんなことの出来るひとが、ほかにいるだろうか。それがきみの本質だ。きみと結婚できて、ほんとうによかった。はやく帰っておいで、もう潮は満ちているから』

 浅い水の底のような光が、ゆらゆらと白い手紙を照らしていた。灯はしずかに、光とともに紙を畳んだ。部屋のむこうでは、華やかな生け花が出来上がっている。

 子どもがまだ花に夢中なのを確かめると、灯はソファのうえでひとり膝を抱えた。どこまで続ける気なのか、自分でもわからない。もう降りてしまおうかと、思わないでもなかった。ひとまずのところ、夫が帰ってきたときに、どういう顔を装えばよいか、そこから考えなくては、と灯はぼんやり思った。

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