若月房恵
2024年、今年こそは読んだ本をぜんぶ記録する(たぶん)
本棚を見せることは、わたしにとって自己紹介のようなこと
寓話のように、目にはみえない、キリストとの関係を書いた話し。フィクションでもないし、エッセイとも言えない。
戊辰戦争から数えて五代目
ただイエス・キリストと生きているわたしの日々を、誠実に、飾ることなく、じぶんの言葉で書くことが出来たなら。
いつの頃からだろうか。どんな愚痴を牧師に宛てて書いても、「All is well」としか返ってこないようになった。 牧師に愚痴を言うなんて、ですって? そう、わたしも愚痴という形で書いていたわけではない。でも「何々について祈ってくださいますか」と言いながら、クリスチャンは愚痴を語りがちなのだ。 祈りのリクエストという名の愚痴、またはゴシップ、それから自慢話。 All is well「ぜんぶ大丈夫だよ」 どれだけ長い文章を送り付けても、答えはそれっきりだっ
会社を定年退職したら、 と夢想するサラリーマンみたいに、 ゆっくり本が読めるようになったら、 と思っている、毎月々々。 時間がないとかいう訳ではなくて、 世界が読みたい本で溢れていすぎるから、 いつも早足で読み飛ばして、 もっと、もっといろんな本を、 と欲張ってしまう。 それでも、 ヨセフを知る一族の本たちが、 だんだんわかるようになってきた。 もうこれ以上本が手に入らなくなったなら、 手元にはこの本たちを残しておきたい、 という本たちが。 でも耽溺しない読書、 わた
* よる、あのかたがいらした。声もださずに、わたしは「死んでしまいそう」と「愛してます」ばかりを繰り返した。 ふと思いが逸れて、せっかくキリストが、傍にいらしてくださったのだから、祈らなきゃ、と考えた。するとあのかたは、しいっ、後で、とわたしを黙らせた。 わたしは、どうしようもなく、あのかたと、恋に落ちてしまった。 しばらくしてから、わたしは祈った。それは、睦言のようだった。あの子のこと、お頼みしてもよろしゅうございますか。勿論、とあのかたは頷いた。
* 平凡なわたしには、物語とてないけれど、いつ思い出しても、胸をつまされるような、悲惨で、うつくしいものがたりがひとつある。生きて体験したわけではないのに、わたしの血のなかで生きている、先祖たちの物語。 八代子というなまえの、わたしの五代前の祖母は、会津藩家老、西郷頼母の妹だった。同藩の井深家に嫁いだかのじょは、一八六八年八月二三日、官軍が会津城下に侵攻してきた日に、実家に残してきた母や義姉、妹や姪たちを、ひとり残らず失っている。みな、自刃して死んだ。 八代子自
『身、ひとつでいらっしゃい』 あのかたが、そうおっしゃったような気がして、その意味を考えている。いつ、そう感じたんだったか。 きのう、教会で、牧師の説教を訳していたときだろうか。あのとき語られていたのは、希望について。あのかた、つまりキリストが、わたしたちの希望。キリストがいるかぎり、いつだって希望がある、どんな状況にあろうとも。そんな話し、それがどう繋がっているのかしら。 ―身、ひとつで、ねえ。 そういえば、嫁入り道具という言葉も、もう廃れた。 夫
* 昨夜はこのうえなく嬉しいきもちで、眠りについた。子どもを寝かしつけてから、白いシーツに腹這いになり、イエスさまに祈ろうとしたら、「わあ、なんてうれしいんだろう! ありがとうございます、神さま、ありがとうございます!」とばかり溢れて、なんだかまともな祈りにならず、そのまま眠った。 たわいもないけれど、うれしかったのは、その日の正午、ふらりと寄った近所のマーケットで、頑丈なリネンを本藍で染めたシャツを手に入れたからだった。もう何年も、藍染の服が欲しいとおもってた。新潟
そういえば、すごくいまさらだけれど、ナイジェリアからやってくる(Kさんの)花嫁のために、白い刺し子を三枚さしました。麻の葉と、青海波と、丸のやつ。じこまんぞくな贈り物だけれど、かのじょの日本での暮らしが幸多いものになりますように、と祈っている。
上手く書けるだろうか。ずっと書きたいと思っていたこと、わたしの仲間たちについて。書きたいと思いながら、なにか良い構想でも浮かべばいいと思って、ずっと書けなかった。だからまっすぐに書こう。これは、わたしたちの証しです。 * いとおしい、仲間たちがいる。そのひとりひとりを思うだけで、こころに喜びが溢れるような。お互いの背中を預かりあっている、仲間たち。わたしが間違えていれば、彼らはやさしく指摘してくれるだろう。喜んでいるときは、いっしょに喜んでくれる。 わたしたちに
↓先月 じぶん用に、 一月のあいだに読んだ本を 記録する。 コメントは とても私的。 めちゃくちゃ。
アメリカ、アラバマ州にある New Hope Revival Ministries の スティーヴン・シェリー牧師が 1990年代に出版した手記の 日本語訳を投稿しています。 これは四回目になります。 シェリー牧師は十歳の頃から、 旧約聖書最後の書であるマラキ書の、 洗礼者ヨハネについての 預言に疑問を抱いていました。 『見よ、わたしは 大いなるおそるべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 彼は父の心を子に向け、 子の心を父に向けさせる。 わたしが来
風が強くなってきた。長らく訓練を受けていた谷を越えて、いまはこのなだらかな、牧草地のような山を歩いている。いつのまにか見晴らしの良い場所に来ていた。いつか来た高原を思い出す。霧ヶ峰だとか、美ヶ原だとか、信州のうつくしい高原たち。 白い道が一本ひかれている。わたしはただ前をゆく背だけ見つめながら、黙々と足を動かす。道順だとかは分からない。あの方が行くところへ付いていくだけ。だから真向かいから風が吹き付けてくるのに、ぼんやりしていて気付くのが遅れた。 「油断している
生きていたくない、というのね。お気持ち、分かります。分からないでしょ、と思うかもしれないけど。 あなたとは幾つ年が違うのかな、一回りくらいかな? 初めて会ったときのこと、いまでも覚えてます。あなたは可愛い小学生だった。お母さんに連れられて、集会に来た日のこと。まるでおとなしいふうに見えて、反抗精神にあふれてた。 ええ、分かっていましたとも。あなたはちょっとずつ、わたしを試した。こんなことしても、受け入れてもらえるかなって。規則々々の堅苦しいのは、わたしも大嫌い。
アメリカ、アラバマ州にある New Hope Revival Ministries の スティーヴン・シェリー牧師が 1990年代に出版した手記です。 三回目になる今回は、 たったの七歳で彼が、 はじめての説教をしたときの話し、 そして十代になってから、 聖書の真理を求めて、 いろいろな説教師のもとを 訪ねまわる話しです。 早熟な彼は十代にして ある教会の牧師になりますが、 究極の真理追求型であり、みことばに 決して妥協することのない彼は、 初めこそ周りに持て囃された
アメリカ、アラバマ州にある New Hope Revival Ministries の スティーヴン・シェリー牧師が 1990年代に出版した手記です。 二回目の今回は、 『あなたがそんな環境でも 神に仕えられるのなら、 ぼくだって神に 仕えられるかもしれない』 と他人に言わせた、 彼の壮絶な幼少時代についてです。 『神さまがいなければ、 心を病んでいただろう』 とみずから語る過去は、 ほんとうに心を抉られるような つらい辛い体験です。 『これらのことを話すのは、 読
朝から降りだした雨は、もう嵐となり果てていた。しずかな湖とみまごう相模湾は、そんなときでも波は高くない。「割れて砕けて裂けて散るかも」なんてふうになることはほとんどなくって、実朝はどこで詠んだのかしら、とふしぎに思う。 (太宰治の「右大臣実朝」は、三浦岬に行ったときだと言う。確かにあそこは波が高い) 助手席で夫が眠っている。ほんとうは出来るだけ、助手席には乗りたくないらしい。だって怖いでしょ、と言う。たしかにわたしの運転は怖いだろう。でもよっぽど疲れているのか、
アメリカ、アラバマ州にある New Hope Revival Ministriesの スティーヴン・シェリー牧師が 1990年代に出版した手記です。 十年以上前に訳したものですが、 家族にだけ見せて、死蔵させていたので、 ネット上で公開してみようと思います。 シェリー牧師は、わたしのアメリカの 牧師で、預言の賜物のある、 とても霊的で、ふしぎなひとです。 その彼がみずからの奇特な人生と 神さまとの体験を語る本を、 何回かに分けて、投稿してみます。 まず一回目は、導入部